最高裁判所の法廷である。再審請求が認められた湯煙慕情騒音殺人事件の判決が言い渡されようとしていた。多数意見は、明らかに被告人、音痴(おんち)の唄った騒音により、隣り部屋に宿をとっていた観光客である被害者が狂死したとの死亡説を採った。それに対し、少数意見は単なる死亡説を採ったが、その裁判官の数は裁判長だけの僅(わず)かに1名だった。ところが、である。まさに判決が言い渡されようとしたそのとき、被告人である音痴が突然、唄い始めたのである。その唄は、まさに被害者が死亡したそのとき、唄われていた唄だった。
「被告人!! 静粛(せいしゅく)にっ! それ以上、唄うと退廷を命じますよっ!」
これから判決を言い渡そうとしていた裁判長は型(かた)なしで、威厳(いげん)もなにもあったものではない。それもあってか、裁判長の言葉は、少なからず冷静さを欠いていた。まあ、最高裁の法廷で裁判中に唄ったのは、歴史上、あとにも先にも、この男、音痴の他にはいないと思われた。
「分かりました…。でも、裁判長! この唄で誰も死んでないでしょ!?」
音痴の言うのは道理に叶(かな)っていた。廷内では誰も死んでいなかったのである。
「… まあそうですが…。オッホン!! 静粛にっ! 被告人はこれから判決を申し渡しますから、静かに聞くように…」
廷内は沈黙し、静まり返った。
「主文 被告人は無罪」
多数意見が、ものの見事に覆(くつがえ)った瞬間だった。多数意見を述べた裁判官達は、『嘘(うそ)だろっ!』とでも言いたげな眼差(まなざ)しで裁判長を見た。
「判決理由 被告人の唄った行為により死亡者が死亡したと推論した状況証拠の根拠は、法廷内において被告人が成した歌唱行為により崩れたものと見るべきである。すなわち、法廷内に死亡者が出なかったという厳然たる事実は、この段階で被害者は単なる死亡者なのであって、被害者ではなくなることを意味することになる。いかに被告人の唄が常識では到底あり得ない音程のずれた聴くに耐えない唄であったとしても、この行為により罪を犯したとは言えない。被告人と死亡者が偶然、知り合いとなっていた事実は認められるものの、心証に作為があったとは言えず、被告人の唄うことによる殺意がある行為、すなわち犯行とする検察側の主張は退(しりぞ)けられることとなる。科捜研の音声解析により、被告人の音声に人類には存在し得ない異質の音域が検出された鑑定結果の事実があったとしても、この法廷内において、廷内の全員が聴いた被告人の唄により死亡した事実が認められない以上、被告人を…」
うだうだ…と裁判長の判決文の朗読は続いた。
この世には少数意見が多数意見より正しいことが、あるにはあるのだ。
完