若かったあの頃の、ほのぼのとした追憶(ついおく)・・それは誰しもあるに違いない。これからお話するこの男、矢瀬川(やせかわ)にもそうした甘い思い出があった。
話は今から数十年ほど前に遡(さかのぼ)る。当時、矢瀬川はまだ三十前で、そろそろ俺も…と、真剣に結婚を考えていた頃だった。
ある日、同僚のOL、碧(みどり)が不意に矢瀬川の席へ近づいてきた。矢瀬川としては少なからず心を寄せている相手だったから、胸の鼓動は急に激しく早まった。
「あの…よかったら、このお弁当、食べて下さいませんか…」
「えっ?!」
唐突(とうとつ)な碧の言葉に、矢瀬川は意味が分からず、思わず訊(き)き返した。
「お嫌ならいいんですけど…。実は今朝(けさ)、妹の分も作ったんですけど、今日は休むとか言ったもので…」
「ああ、そうなんですか! 僕でよければ…」
「ええ、どうぞ…。矢瀬川さん、いつも外食なさってるんでしたよね?」
「はい、まあ…」
矢瀬川はいつも職場近くの大衆食堂で昼は食べていた。そのことは課内の誰もが知っていて、当然、碧も知っていた。矢瀬川は碧の言葉に内心、喜びで興奮していた。だが、それを悟られまいと態(わざ)と冷静を保ち、手作りの弁当を受け取った。矢瀬川は『愛妻弁当ならな…』と、勝手な想いを浮かべながら完食した。ブロッコリーとウインナ、出汁巻き卵、肉の味噌炒め・・と、手弁当にしては手が込んでおり、プロ並みの美味(うま)さだった。あとから矢瀬川が聞いた話では、碧の実家は料亭だそうで、碧自身も調理師免許を持っているとのことだった。その話を小耳に挟(はさ)み、矢瀬川は、なるほど! と納得したのだった。
その後しばらくして、碧は好きな相手と結婚退職し、弁当は矢瀬川の儚(はかな)い思い出となったのである。そして、数十年が過ぎ去り、矢瀬川は来年、退職を迎える年になっていた。
「あの…よかったら、このお弁当、食べて下さい…」
「えっ?!」
矢瀬川は、その唐突なOLの言葉を、どこかで聞いたことがあるぞ…と瞬間、思った。
「実は…母から手渡されたんです」
聞いた瞬間、矢瀬川はすべてを理解した。OLは碧の娘だったのである。矢瀬川はそれ以降、店で弁当を買って食べるようになった。課内では、弁当を食べながらニヤける矢瀬川の光景を、いつしか[矢瀬川弁当]と呼ぶようになった。なんでも、他の課からの見物者が、引きも切らないそうである。
完