とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

ティファニーの歴史

2006年08月31日 06時25分02秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
気になったので、ネットで調べてみました。
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(ネットから)→これは広告文でしょうが、比較的詳しかったので載せます。

      「ティファニーの歴史」
”宝飾や銀器で名声を勝ち取り、ヨーロッパ王室にも愛されたアメリカの宝石商、
ティファニー。アメリカにルーツをもつモダンな感性のジュエリーは、時代や国
を超え、今も世界の人々を魅了し続けている。”


「ファンシーグッズ・ショップからスタート」

1812年に生まれたティファニーの創業者チャールズ・ルイス・ティファニー
(1812~1902)は1837年、ニューヨーク州コネティカットの田舎町を飛び出して
ニューヨークに向かった。そして父親から借りた1000ドルを資本に、同級生ヤン
グとともに始めたのは、ティファニーの前身となるファンシー・グッズ・ショッ
プ。開店当時は文房具やヨーロッパ、アジアの骨董品を取り扱う店として、人気
を博した。しかし、初日の売り上げはわずか4ドル98セントだったという。

チャールズが店をオープンさせた19世紀半ばは、アメリカが農業中心の社会から、
工業と都市中心の世界に激変、富裕層が登場し始めた変革の時代。そして進取の
気性に富むチャールズは、富裕層の登場とともに、ティファニーをファンシーショッ
プからジュエリーブティックへとチェンジさせた。消費者となる富裕アメリカ人
の、豪華で珍しい物に目がない嗜好を的確につかんでいた、チャールズの先見性
のある決断からだった。

デザインを見極める目とビジネスの手腕のあるチャールズは1848年、二月革命
から逃れたフランス王室からダイヤモンドの王冠を購入。初めてアメリカにヨー
ロッパから由緒ある王室のジュエリーを持ち帰ったことが、アメリカで話題を呼
んだ。そして新聞などのメディアからいっせいに「キング・オブ・ダイヤモンド、
ティファニー」との賛辞を贈られる。こうしてティファニーは、アメリカでの確
固とした宝石商の地位を手に入れたのだった。


「ヨーロッパで認められたアメリカの宝石商」

その後のティファニーの名声はアメリカ国内だけにとどまらなかった。1867年
パリで開かれた万国博覧会・銀器部門で優秀賞を、さらに1878年パリ万博・銀器
部門ではティファニーの銀職人ジョン・C・ムーアとその息子エドワードが手が
けた異国趣味の銀器「マッキー・サービス」セットが数多くの賞を受賞。ティファ
ニーはジュエリーより先に、銀器の部門で世界で名声を博す。

そして1889年のパリ万博ではついにチーフデザイナー、ポールディング・ファーン
ハムが手がけたジュエリー「オーキッド(蘭の花)」シリーズがジュエリー部門
のゴールド・メダルを受賞。アメリカの宝石商の実力をヨーロッパに印象づけた。
その後、アメリカの宝石商としては初めてイギリス・ヴィクトリア女王の御用達
店に任命されるなどの栄誉を手中にする。続いてイタリア、スペイン、ロシア、
オーストリアなどヨーロッパ各国の王室が御用達に任命。伝統と格式を何より重
んじるヨーロッパ王室の御用達に新興国アメリカの宝石商が選ばれたことは、当
時においては画期的な出来事だった。

「アメリカの宝石商らしいスタイルを確立」

1878年、宝石学者のジョージ・フレデリック・クンツ博士がティファニーに参加。
彼は同年南アフリカ・キンバリー鉱山で128カラットからなる「カナリー・ダイ
ヤモンド」を発掘、名作「ティファニー・ダイヤモンド」を残す。クンツ博士は
またアメリカ国内の鉱石発掘事業を通じて、ミシシッピ川流域の天然真珠やモン
タナのサファイアなど、アメリカ産の素材を多く発掘。クンツ博士がこれらの素
材を取り入れたことで、この時代からアメリカにルーツのあるティファニーらし
い独自のスタイルが打ち出される。

1902年、創始者チャールズ死去。父親の跡を継がずに、画家、ガラス工芸アーティ
ストとして、芸術の道を歩んでいた息子ルイス・コンフォートがティファニー社
に参加、アート・ディレクターに就任する。社長には、銀細工の分野でティファ
ニーに貢献したジョン・C・ムーアが就いた。ルイスは19世紀のアール・ヌーヴォー
・スタイルにつながりをもつ、カラーストーンやエナメルを施したアート・ジュ
エリーを製作。異国文化や自然主義独特の感覚を表現した。だがこれらのアート
・ジュエリーは顧客の間での人気を得ず、1933年には製作を中止する。


「3人のデザイナーが新風をふきこむ」

1940年にティファニーは現在の5番街57丁目に移転。そして1955年には、天才
ジュエリー・デザイナー、ジーン・シュランバーゼーがティファニーのデザイナー
に就任。鳥や海など自然界をモチーフにした彼の作品には、エメラルドやサファ
イアなどのカラーストーンとダイヤ、ゴールドを組み合わせた独特なデザインの
ジュエリーが並ぶ。芸術の高みにまで昇華された傑作「バード・オン・ア・ロッ
ク」「勇者のトロフィー」などの作品を生み、80歳で亡くなるまでティファニー
の専属デザイナーとして活躍した。

1974年にはモデル出身のジュエリーデザイナー、エルサ・ペレッティが、1980年
には20世紀を代表する画家パブロ・ピカソの愛娘である、パロマ・ピカソがティ
ファニーに参加、コレクションを発表。彼女らが展開する個性豊かなデザインが、
ティファニーらしいモダンなアメリカン・スタイルを生み出し、幅広いファンを
獲得、新時代を築いた。その後も“A Life time of Tiffany”(人生にティファ
ニーを)のメッセージのもとに、世界の人々の支持を広げる。なかでもエルサ・
ペレッティが生み出した「オープン・ハート」やパロマ・ピカソの「Xシリーズ」
のジュエリーは、現在もたくさんの女性たちに愛され続けている。
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歴史を調べて、少々複雑な心境になりました。
あらためて、ヨーロッパとアメリカとの深い複雑な関係を考えさせられました。

”ティファニーのジュエリーにはフランスの愛がこもっています”というコピーは、悲しい。ニューヨーク5番街という新興商店街の奥底の暗の部分が暴露されているような気がするのです。

”ティファニーのジュエリーには、アメリカの愛がこもっています”ではないのです。

”宝飾や銀器で名声を勝ち取り、ヨーロッパ王室にも愛されたアメリカの宝石商ティファニー”も悲しい。
”歴代大統領一族にも愛されたティファニー”では、品を保てないみたいに思ってしまうのは、まちがいでしょうか?

ただ単に世界中で愛されているという、強調だけではないような気がしてしまう。ヨーロッパに認知されなければ、ブランドとして通らないティファニーがそこに、いる、ような気がしてしまうのは、まちがいでしょうか?

今日も、ひんやりした大気のなかの朝陽のベランダの木立、花をながめていると、気持ちがいいです。緑がきれいです。本当に。

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