北山修の詩は少女趣味と言われるが、それは使っている語句がロマンチックムードだからでしょうか?
白い花は恋人の色、さらば恋人、夢、風、青空、白百合、ふるさと、夕焼けの赤いい色は想い出の色. パラソル...
こんな言葉が多い。
ところで、少女趣味とはなにか?をつっこんでいくと、ものすごく難しくなる。北山修とはまったく関係ないのだが、ネットで「少女趣味でなぜ悪い」という記事を見つけた。非常に優れた記事だと感心した。興味のある方は一見して損は無いと思います。http://kan-chan.stbbs.net/otaku_ni_naritai/girly.html
この「OTAKU」というサイトの著者が言いたいことは、要するに、「りぼん、ふりる、少女マンガ、少女雑誌」の世界に、男たるもの近づいてはいけないという昔の男尊女卑の環境下のタブー意識が働いているのではないかという主張(乱暴にくくって、怒られるかもしれない)。「ベルサイユのバラ」や「涙ぼろぼろ」とか「青春に向かってさけぶ」とか、少女の世界のお約束事が食わず嫌いなのではないか。お約束事さえ会得すれば、そこには何かあるのではないか、と言う。
うっかり少女マンガが好きなどと言うと、正常な男子ならざる軟弱な男として、下手すれば、信用をなくし、友人もなくし、家族のなかでもまずい立場になるという環境があったと言うのだ。
今では、男子の世界、女子の世界の垣根がとれてきていて、昔は男が台所で料理をすると「ゴキブリ」と呼ばれたが、今では料理ができる男はもてるところまできた。要するに、男らしさ、女らしさとは、世の環境次第でころりと変わるのだ、という主張。
ヘタに過激な「ウーマンリブ」的な語句を使わず、自分の言葉で「少女趣味」を語っているところがいい、と思った。
過激な「ウーマンリブ運動」は嫌いだと言う。私も嫌いだ。(が、私は運動の成果は十分に評価している。大切な運動だったと思っている。)
「少女趣味」を語っているが、じつは、そんなに接していないとの告白。私もそうだ。共感のもてる記事だった。
さて、肝心の北山修の詩が、はたして本当に「少女趣味」であるかどうかの本題にはいろう。
北山修は1946~7年生まれのはずだ。その時代は、フエミニズムが台頭したての時代であったが、頭のなかは男女平等(この言葉もむずかしい)、しかし、まだまだ男尊女卑の感覚が肉・血となって男の意識にとりついていた時代背景があったように思う。
変化とは、意識改革とは、時間のかかるものだ。
そんな時代背景の中、北山修は、最初から「リボンとフリル」のような言葉を使って詩を書いてきた。少女特有の夢幻的な甘さ、叙情も、たっぷりと吸い込んだ詩のように思える。
彼は、確信犯的に自分の詩の世界を確立させてきたのだ、と思う。
本当に、言いたい。「少女趣味のどこが悪い」
北山修は、少女趣味をとりこんだのは事実かもしれない。しかし、それだけではない。彼独特の詩の世界は、多面的で、はばひろいと思う。
彼の得意の「りぼん ふりる」の言葉をまねして、詩を作ってみてごらんなさい。
実は私は、つくってみた。だから、言える。言葉をまねしても、決して彼のような詩はつくれない。
時間不足で、しりきれトンボの結論(?)にしかならなかった。
なぜ、団塊の世代のアイドルのような北山修を語るかと言えば、アフガン戦争の時にごっそり良い本、たとえば『敗戦を抱きしめて』ジョン・ダワー『ダライラマ・愛と非暴力』等、今ではすっかり腐敗したCNNだそうだが、ベトナム戦争から湾岸戦争の時に活躍した名物記者ピーター・アネットの自伝などゲットしてあって、考えるところがあるからだ。手がつかず未読が多いのだが、ゆっくりと敗戦後の日本の足跡をたどってみたい願望がある。が、なかなか近づけない。
★ゴールデン・ウイークの最後は、朝から雨ですね。残念ですね。でも全体的には好天気に恵まれたのではないでしょうか?掃除をしながらでも、5月の爽やかさを満喫しました。
★アンデルセンは、「エンドウ豆の上に寝たお姫様」「小さいイーダの花」「親指姫」を読みました。
白い花は恋人の色、さらば恋人、夢、風、青空、白百合、ふるさと、夕焼けの赤いい色は想い出の色. パラソル...
こんな言葉が多い。
ところで、少女趣味とはなにか?をつっこんでいくと、ものすごく難しくなる。北山修とはまったく関係ないのだが、ネットで「少女趣味でなぜ悪い」という記事を見つけた。非常に優れた記事だと感心した。興味のある方は一見して損は無いと思います。http://kan-chan.stbbs.net/otaku_ni_naritai/girly.html
この「OTAKU」というサイトの著者が言いたいことは、要するに、「りぼん、ふりる、少女マンガ、少女雑誌」の世界に、男たるもの近づいてはいけないという昔の男尊女卑の環境下のタブー意識が働いているのではないかという主張(乱暴にくくって、怒られるかもしれない)。「ベルサイユのバラ」や「涙ぼろぼろ」とか「青春に向かってさけぶ」とか、少女の世界のお約束事が食わず嫌いなのではないか。お約束事さえ会得すれば、そこには何かあるのではないか、と言う。
うっかり少女マンガが好きなどと言うと、正常な男子ならざる軟弱な男として、下手すれば、信用をなくし、友人もなくし、家族のなかでもまずい立場になるという環境があったと言うのだ。
今では、男子の世界、女子の世界の垣根がとれてきていて、昔は男が台所で料理をすると「ゴキブリ」と呼ばれたが、今では料理ができる男はもてるところまできた。要するに、男らしさ、女らしさとは、世の環境次第でころりと変わるのだ、という主張。
ヘタに過激な「ウーマンリブ」的な語句を使わず、自分の言葉で「少女趣味」を語っているところがいい、と思った。
過激な「ウーマンリブ運動」は嫌いだと言う。私も嫌いだ。(が、私は運動の成果は十分に評価している。大切な運動だったと思っている。)
「少女趣味」を語っているが、じつは、そんなに接していないとの告白。私もそうだ。共感のもてる記事だった。
さて、肝心の北山修の詩が、はたして本当に「少女趣味」であるかどうかの本題にはいろう。
北山修は1946~7年生まれのはずだ。その時代は、フエミニズムが台頭したての時代であったが、頭のなかは男女平等(この言葉もむずかしい)、しかし、まだまだ男尊女卑の感覚が肉・血となって男の意識にとりついていた時代背景があったように思う。
変化とは、意識改革とは、時間のかかるものだ。
そんな時代背景の中、北山修は、最初から「リボンとフリル」のような言葉を使って詩を書いてきた。少女特有の夢幻的な甘さ、叙情も、たっぷりと吸い込んだ詩のように思える。
彼は、確信犯的に自分の詩の世界を確立させてきたのだ、と思う。
本当に、言いたい。「少女趣味のどこが悪い」
北山修は、少女趣味をとりこんだのは事実かもしれない。しかし、それだけではない。彼独特の詩の世界は、多面的で、はばひろいと思う。
彼の得意の「りぼん ふりる」の言葉をまねして、詩を作ってみてごらんなさい。
実は私は、つくってみた。だから、言える。言葉をまねしても、決して彼のような詩はつくれない。
時間不足で、しりきれトンボの結論(?)にしかならなかった。
なぜ、団塊の世代のアイドルのような北山修を語るかと言えば、アフガン戦争の時にごっそり良い本、たとえば『敗戦を抱きしめて』ジョン・ダワー『ダライラマ・愛と非暴力』等、今ではすっかり腐敗したCNNだそうだが、ベトナム戦争から湾岸戦争の時に活躍した名物記者ピーター・アネットの自伝などゲットしてあって、考えるところがあるからだ。手がつかず未読が多いのだが、ゆっくりと敗戦後の日本の足跡をたどってみたい願望がある。が、なかなか近づけない。
★ゴールデン・ウイークの最後は、朝から雨ですね。残念ですね。でも全体的には好天気に恵まれたのではないでしょうか?掃除をしながらでも、5月の爽やかさを満喫しました。
★アンデルセンは、「エンドウ豆の上に寝たお姫様」「小さいイーダの花」「親指姫」を読みました。