とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

ベトナム戦争 1

2007年01月11日 12時31分14秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
ベトナム戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
( 中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。)

ベトナム戦争(ベトナムせんそう 1960年 - 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの独立と南北統一をめぐって戦われた戦争。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。

形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソビエト連邦、中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。


[編集]
1960年:南ベトナム解放民族戦線結成(12月)
1961年:ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任(1月)、アメリカが南ベトナムにヘリコプター部隊と軍事顧問団を派遣(11月)
1962年:アメリカ軍が「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置(2月)、南ベトナムとラオスが国交断絶(11月)
1963年:アプバクの戦い(1月)、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領暗殺(11月)
1964年:南ベトナムでグエン・カーン将軍によるクーデター(1月)、トンキン湾事件発生(8月)
1965年:アメリカ軍による北爆開始(2月)、アメリカ海兵隊がダナンに上陸(3月)、韓国軍派遣(10月)
1966年:北ベトナムに対するB-52による初空襲(4月)、初のクリスマス休戦(12月)
1967年:南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃(7月)、グエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任(9月)
1968年:テト攻勢開始(1月)、ソンミ村虐殺事件(3月)、パリ和平交渉開始(5月)
1969年:北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表(6月)、ホー・チ・ミン死去(9月)
1970年:南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻(4月)、カンボジア内戦勃発
1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻(2月)、ニューヨーカー誌に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始、南ベトナム大統領選挙(10月)
1972年:北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開・停止(12月)
1973年:パリ協定締結(1月)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月)
1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲(2月)、リチャード・ニクソン大統領辞任(8月)
1975年:北ベトナム軍全面攻撃開始(3月)、サイゴン陥落(4月)

[編集] 開戦の背景

[編集] 冷戦構造と独立運動
第二次世界大戦後、 アジアや中南米、 アフリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権を守ろうとする欧米列強の宗主国との間での紛争が繰り返し起きた。独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、アメリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるスターリンに率いられるソビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を保有していることから直接戦うことは避け “冷たい戦争” と呼ばれる冷戦構造が成立した。

その対立は朝鮮戦争やキューバ危機、ベルリン封鎖に見られるように代理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立が“ドミノ倒し”のように発生したこともあって、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論に怯え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の紛争に深く介入するようになった。


[編集] 第一次インドシナ戦争

ジュネーブ協定に抗議して吊るされたホー・チ・ミンとシャルル・ド・ゴールの人形(1964年)1945年8月に第二次世界大戦が終結し、ベトナム(仏領インドシナ)から日本軍が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンはハノイに首都を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ共産主義による国造りを目指した。

しかし、ベトナムの再支配を目論む旧宗主国のフランスは独立を認めず、ベトナムに再進駐すると1946年にベトナム南部に傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させる。12月19日には北ベトナムへ武力攻撃を開始し、第一次インドシナ戦争が勃発した。また、1949年に旧阮朝皇帝バオ・ダイを首班とするベトナム国をサイゴン市(現ホー・チ・ミン市)に成立させ、ベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。

フランスはホー・チ・ミンと鋭く対立し、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6000人にも及ぶ兵力を投入したものの、1954年5月にヴォー・グエン・ザップ将軍が率いるベトナム人民軍にディエンビエンフーの戦いで惨敗し、ベトナムからの撤退を余儀なくされた。戦後、関係国の間でジュネーブ協定が取り交わされベトナム民主共和国の独立が正式に承認されたが、北緯17度線を境界として南部ベトナムにはベトナム国が存続した。


[編集] ベトナム戦争の推移

[編集] アメリカによる軍事介入
第一次インドシナ戦争が行われた間アメリカは一貫してフランスを支持し、フランスのベトナム撤退以降は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を軍事・経済両面で支え続けた。


ワシントンD.C.を訪れたゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるドワイト・D・アイゼンハワー大統領1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支持した反共産主義的な軍人政治家であるゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、その後アメリカの全面的な支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。しかし、ゴ大統領一族による圧制は国民を苦しめ、その張本人であるゴ大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は〝NLF〟でNational Liberation Frontの略である)が結成され、南ベトナムに対するゲリラ活動を本格化させた。

その後1963年1月に行われたアプバクの戦いの敗北により、南ベトナム(ベトナム共和国)政府軍の無力が露呈すると、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はアメリカ軍による直接的な軍事介入を決断した。


[編集] 南ベトナム政権とクーデター
さらにケネディ大統領の許可を得たCIAの支援による軍事クーデターが同年11月に発生し、当時アメリカのコントロールに反発し、仏教徒弾圧政策を推し進めて国際的な非難を浴びていたゴ・ディン・ジェム大統領と実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官が暗殺され、アメリカ軍と関係が深い軍事顧問で将軍でもあったズオン・バン・ミンを首班とした新政権が成立する。その後、1964年1月30日にはグエン・カーン将軍を中心とした勢力が再びクーデターを起こし、ズオン・バン・ミンが隣国のタイ王国へと追放されたものの、南ベトナムは、その後も約2年間の間に13回ものクーデターが発生するという異常事態になる(ズオン・バン・ミンはベトナム戦争終結直前の1975年4月29日に、1968年から大統領を務めたグエン・バン・チューにかわり、再び南ベトナムの大統領に就任するものの、4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった)。

この様に、南ベトナムの政府高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、また自軍の精鋭部隊の多くをクーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらないという状態になっており、この様な体たらくは、ベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続くことになる。


[編集] 仏教徒弾圧
1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対し抑圧的な政策を推し進めたゴ・ディン・ジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿が全世界にテレビを通じて流され、大きな衝撃を生んだ。なお、ゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻で、その不敵な態度から「ドラゴン・レディ」とあだ名されたマダム・ヌーが、アメリカのテレビのインタビュー中にクアン・ドック師の焼身自殺を「人間バーベキュー」と呼び、これに怒ったケネディ大統領が1963年11月のクーデターを即決したと言われている。


[編集] トンキン湾事件

アメリカのケネディ大統領とマクナマラ国防長官ロバート・マクナマラ国防長官のアドバイスの元、ベトナムへの直接的な軍事介入の開始を行うという決定的な失策を犯したものの、大規模なアメリカ軍の派遣には難色を示していたケネディが1963年11月に遊説中のテキサス州ダラスで暗殺された。当時の駐南ベトナム大使ヘンリー・カボット・ロッジJr.はケネディに対しベトナムの状況を報告するため召還されていたが、後年ロッジはケネディが暗殺されずに自分と面談していた場合、ベトナムから手を引くと言う政策転換プランが提示されたかもしれないと回想している。ロッジの発言は、この時点でケネディは秘密裏に国防省に対して、アメリカの軍事顧問を南ベトナムから引上げた場合の影響を調査するよう、指示を出していたことが後年判明したことが根拠になっているという。

ケネディの暗殺に伴い、ケネディ政権の副大統領であった右派のリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任し、アメリカはケネディが示した軍事介入政策を転換することなく戦争介入の体制が整って行く。その後アメリカ軍は、1964年8月2日と8月4日にトンキン湾で発生した北ベトナム軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「USS マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。

8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、この事件は、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことを暴露した。また、1995年にはマクナマラも同様の内容を告白している。


[編集] 北爆開始

サイゴン市内に展開するアメリカ軍の戦車
爆弾を投下するアメリカ空軍のF-105戦闘爆撃機,中央はB-66クーデター以来、サイゴンの支配力はきわめて不安定であった。アプバクの戦いで政府軍を下し、勢いに乗った南ベトナム民族解放戦線は、この権力の隙を狙った無差別テロ攻撃を繰り返し加え、サイゴンはじめ都市部の治安は一挙に悪化した。そして標的は南ベトナム軍の顧問をしているアメリカ軍へも向き、1965年2月7日にブレイクのアメリカ軍基地を爆破し、多数のアメリカ軍将校殺害に成功した。ジョンソン大統領は即日、報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などのベトナム民主共和国中枢への爆撃(北爆)を命令した。いわゆるフレイミング・ダート作戦で、3月からは本格的な北爆であるローリング・サンダー作戦が開始された。

当初は発電所やダム、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。これは当時の北ベトナムを支援するソ連軍事顧問団の存在が確認されており、万一誤爆した場合は米ソ直接対決や世論の猛反発を受けるのが必至とされていた。これは北ベトナムにとって極めて有利な状況に働いた。北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。更には飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に聖域を与えた。ソ連から貸与されたミコヤンMiG-17やMiG-19、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。

しかし精密誘導兵器を殆ど運用していなかった当時の海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さを認め、1967年4月末に殆どの制限が撤廃された。これは直ちに効果をあげた。北ベトナムは空軍基地や飛行場が爆撃を受けて迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のジェネラルダイナミックスF-111アードバーク戦闘機爆撃の他、当時、死の鳥と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(“ビッグベリー”改造を受けたD型が主力)を投入、ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。


ソ連から北ベトナム軍に貸与されたミコヤンMiG-19(同型機)なお、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で操業していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える大量の爆弾搭載量に物を言わせたアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。

また、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム首脳陣は、これらの爆撃に対して、西側諸国の左翼的なマスコミや左翼市民団体を通じ、「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後の西側諸国における大規模な反戦活動への土台を整えた。


[編集] 地上軍の投入と戦線拡大

前線に降下するアメリカ軍のUH-1ヘリコプタージョンソン大統領は大権を行使し、1965年3月8日に海兵隊をダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。ケネディ時代に南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を軍事顧問・作戦支援グループとして駐屯させており、その数は1964年末に計23,300名であったが、ジョンソンは1965年7月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍・海兵隊)は1965年末までに、「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。地上部隊を派遣したのは南ベトナムだけで北ベトナムには中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。

一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、ホー・チ・ミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。彼らは10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く(だからこそ陣地としたのだが)、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開を可能にしたことで、この戦争の主力兵器として大量生産されることになる。


南ベトナムの民家を点検するアメリカ軍兵士11月14日、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてUH-1を使って陸戦部隊を展開させた。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが始めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。この最初の戦闘は、この戦争の帰結を物語っていた。

アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵を探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は農村部の無差別攻撃や、アメリカ軍による村民への暴力行動を引き起こすこととなった。その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾が現在も大量に埋まっており、住民に被害を与えている。


[編集] NLFによるテロの増加

サイゴン市内のテロ事件現場ベトナム戦争の激化に伴い、サイゴン市内を中心に、後方撹乱を目的にした南ベトナム解放民族戦線のゲリラによる爆弾テロ事件がにわかに増加していった。そのターゲットもアメリカ軍や南ベトナム軍・政府の関連施設だけでなく、南ベトナム政府軍兵士やアメリカ人が出入りする(当然南ベトナム人の民間人も出入りする)映画館やレストラン、ディスコにまで広がり、その結果、各種テロによる南ベトナム市民の死者が1965年の前半だけで1000人以上にも及ぶなど、南ベトナムの市民生活にも悪影響を及ぼすようになっていった。

これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、南ベトナム軍の情報部将校などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。


[編集] チュー大統領就任

チュー大統領(左)とアメリカのジョンソン大統領この様に混沌とする状況下にあったものの、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に首相に就任したグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て大統領に就任した。なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して不正選挙であると反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思をを示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共産主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。

なお、チューは1971年の選挙で再選後、1975年4月のサイゴン陥落前日まで南ベトナム大統領を務めた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ベトナム社会主義共和国  | トップ | ベトナム戦争 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

地理・歴史・外国(時事問題も含む)」カテゴリの最新記事