とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『こころから言葉へ」吉本隆明・北山修 Ⅰ

2006年06月12日 18時12分21秒 | 読書感想
自分が興味をもち、理解できたという点のみ要約
1.精神の起源をめぐって
*「こころ」をどう描くか
    精神分析学の特徴(北山)
1.「無意識」を認める。フロイト以来の中心テーマ。無意識を認めない学派もある。「行動療法」
2.無意識を言葉でできるだけ明らかにしていこうとしている。=解釈。ここが、日本人にはすごく抵抗がある。「言葉にしてしまうと身も蓋もない」という意識。むしろ非言語的な「箱庭療法」などが好まれる。
3.無意識ができあがるのは、非常に育ちがものを言う。「三つ子の魂百までも」「雀百まで踊り忘れず」といい、大体3歳ぐらいまでに決まる。小さい時の反復を大きくなっても繰り返してしまう。
4.幼児期のどの側面が最終的な無意識を形づくるかというと、欲望を重視する。性欲だけが欲望ではなく、赤ん坊がお母さんのオッパイを求めているような口の欲求も欲のなかに含みこんで、それが満たされたり、満たされなかったか、その欲求不満をどう扱ったかが無意識的になり、大人になってからの反復の基盤を形成する。
ユング派とは、ちょっとちがう。

     出産外傷―バラバラになった「こころ」(北山)
赤ん坊の「こころ」は、ほとんど外界とも未分化であるので、「自分」という「こころ」が、外界、お母さんとしてもいいのですが、どう分かれていくのか。
フロイディアンは出産のときにものすごい衝撃を「こころ」が経験するといいます。つまり丸裸の状態になってしまう。あるいは一体であったお母さんからもぎとられるような体験をして、いったん「こころ」はバラバラになってしまい、ある種のまとまりを何とかかろうじて見つけていくのであると。 
フロイトはこれが人間の不安の根源にあるとして、「原不安」と呼ぶ。
わたしたちには常に子宮内回帰願望みたいなものがあって、お母さんから分離したときの激しい様子の変化をいつまでも「こころ」の傷跡の原型として引きずっていくのであると。(出産外傷説)
ラカニアンもこのフロディアンのモデルをきちっと踏襲していて、人間というのは生まれたときにいったんバラバラになって死に、そのあと生きるのは、でっちあげられた「自分」を生き抜いていく。(鏡像段階)
つまり、外傷を経験してバラバラになって鏡に映った似姿に同一化して自分というものを構成していく。

       生後1年間の意味(北山)
ウィニコットによれば、出生外傷、誕生外傷と言われるべきものを、体験的に思い出して語る人はそんなにいない。むしろウィニコットも私の体験もだが、出生直後のしばらくのあいだ、約1年間は、多くの人は育児によって子宮内にいおける体験とほぼ近い体験をお母さんの腕のなかで体験する。この1年間はとても重要。なぜなら人間の赤ん坊はなにもできないので、お母さんたちの献身的な努力によってなされる。ほとんどの人が、まあまあの普通のほどよい育児を経験していますから、バラバラを経験しないでなんとかまとまっていると言うんです。これが生後1年くらいたったぐらいの離乳のときに、初めてお母さんからゆっくり分離していく。乳離れと言われる期間ですが、これで徐々に内なる「こころ」というものは、自分で自分の面倒をみられるようになっていく。だから離乳、あるいは母子分離、あるいは人見知りが始まる頃、お母さんとの分離感を非常に強める1歳あたりがとても重要なのであると。ウィニコットによれば、自分というものが少なくとも生まれてからもある。ところが、フロイト、ラカンに忠実に従うと、本来の自分はないということになる。だから、自分は死んでいる、「主体の死」ということになる。ずいぶん人間観、ものの考え方に差があるように思う。
これはもっといろいろな話につながっていきますし、病理の話はこの話をどう取り上げていくのかという問題にもつながります。


    胎内体験の異常と精神の病(吉本)
胎児のときから母親との内コミュニケーションが正常にいかない場合に、精神の病気はさまざまな形で、神経症から精神病、躁うつ病から分裂病までありますが、受胎後5,6ヶ月から1歳未満のあいだにおける母親とのコミュニケーションがまずっていたら、精神の異常になりやすいのではないかと考えている。

    非製造業が主体になることの意味(吉本)
今から5,6年前までは、日本の社会は工業主体の社会で、農業や漁業はそれに対立するようにあって、それ以外の流通業と娯楽業とか医療や教育などが少しあるというイメージをもっていました。が、よく調べたら、日本の主体は、流通業、娯楽業、教育業、医療のような第三次産業に主体が移っていた。つまり、製造業が主体だと、1時間働いたらコップ3個、2時間働いたらコップ6個というふうに、とても明確なわけです。ところが第三次産業に働いている人が6,7割になっていまして、1時間働いても明瞭な達成感、目に見える成果が感じられないわけです。それで、精神的な障害がこれからの主たる公害病になると考えた。 
       
     出産外傷―バラバラになった「こころ」(北山)

赤ん坊の「こころ」は、ほとんど外界とも未分化であるので、「自分」という「こころ」が、
外界、お母さんとしてもいいのですが、どう分かれていくのか。
フロイディアンは出産のときにものすごい衝撃を「こころ」が経験するといいす。つまり丸
裸の状態になってしまう。あるいは一体であったお母さんからもぎとられるような体験をし
て、いったん「こころ」はバラバラになってしまい、ある種のまとまりを何とかかろうじて
見つけていくのであると。 
フロイトはこれが人間の不安の根源にあるとして、「原不安」と呼ぶ。
わたしたちには常に子宮内回帰願望みたいなものがあって、お母さんから分離したときの
しい様子の変化をいつまでも「こころ」の傷跡の原型として引きずっていくのであると。(出産外傷説)
ラカニアンもこのフロディアンのモデルをきちっと踏襲していて、人間というのは生まれたときに
いったんバラバラになって死に、そのあと生きるのは、でっちあげられた「自分」を生き抜いていく。(鏡像段階)
つまり、外傷を経験してバラバラになって鏡に映った似姿に同一化して自分というものを構成していく。

*文字以前の言葉・言葉以前の言葉 
     胎児体験の異常と精神の病(吉本)
胎児のときから母親との内コミュニケーションが正常にいかない場合に、精神の病気はさまざまな形で、神経症から精神病、躁うつ病から分裂病までありますが、受胎後5,6ヶ月から1歳未満のあいだにおける母親とのコミュニケーションがまずっていたら、精神の異常になりやすいのではないかと考えている。

    非製造業が主体になることの意味(吉本)
今から5,6年前までは、日本の社会は工業主体の社会で、農業や漁業はそれに対立するようにあって、それ以外の流通業と娯楽業とか医療や教育などが少しあるというイメージをもっていました。が、よく調べたら、日本の主体は、流通業、娯楽業、教育業、医療のような第三次産業に主体が移っていた。つまり、製造業が主体だと、1時間働いたらコップ3個、2時間働いたらコップ6個というふうに、とても明確なわけです。ところが第三次産業に働いている人が6,7割になっていまして、1時間働いても明瞭な達成感、目に見える成果が感じられないわけです。それで、精神的な障害がこれからの主たる公害病になると考えた。いくら働いたからどうなったというのは、すこぶる無形の達成しかないものだから、そういうところからたぶん、精神的な障害がこれからの主たる公害病となると考えた。特に精神の異常とか病とか、異常だか病気だか正常だかよくわからないとか、そういう状態に悩まされるということが、これから大変多くなるのではなるんじゃないかということです。精神の問題は大切なんだという考え方がでてきた。

* 「いる」ことの保障  
             乳幼児が体験する環境(北山)
胎児のときにどの程度、「こころ」のありように影響を与えるかという問題で、いろんな実験とか調査とか仮説にもとづいた発想が展開されています。ただ、僕が何度もいいましたように、どんなことでもありうる、目に見えない世界ですからね、何でも言えるし、乳幼児というものは本人がしゃべりませんから、どんなことでもあるように見えるという問題があります。
育児になにか失敗が起こると、そのことが本人の傷跡になって、後で歪みや偏りを生じさせるということは言えるだろうが、我々精神科医としては、そういう精神障害は1割ぐらいだろうと普通言います。それに対応して考えると育児も9割はうまくいっているのです。その9割になにが正しいとかつっこんで考える気はないことが一つ。もう一つは、授乳のやりかたが問題であるようにいわれていますが、ところが授乳なんて何千回もおこなわれている。排泄物の管理なんてものも何千回です。ある日、突然、こういうことがあったか、一回、こういうことがあったということが因果関係のもとになるのではない。ある種のやりとりが積み重ねられてそうなったというふうに思わざるを得ない。それが二つ目です。精神の病と育児の関係、さっきから何度もでている話題ですけれど、遺伝、あるいは脳の構造とか、さまざまな身体的な要素も環境の一部だろうと思うんです。こころが発達するための、本人が用意したものではなくて与えられたものの一部。だから早期幼児期も、個人差をつける変数ですから、あとで影響を残すことは十分にありうる。

              「すること」と「いること」(北山)
もう一つ、育児のやっていることで見逃してならないのは、赤ん坊を観察する時に、見る、食べる、笑った、排泄した、しゃべった、怒った、泣いたと、なにかしていることばかりに注目する。ところが赤ん坊というのは、ムニャムニャ言ってるだけの、寝ているのか起きているのかわからないような状態も大きいんです。あえていうなら、ほとんどボーっとしている。まず、そのボーっとしていられるような瞬間を24時間保障する。これはお母さんが専門としてやっておられることです。育児は24時間の仕事です。父親のように、ある日、クリスマスプレゼントを与えるのが仕事ではない。「すること」に対して「いること」の保障です。

生後1年間は依存している時期です。しかしながら遅かれ早かれそこからみんな出ていくわけです。早すぎる場合ほど問題だし、逆に、いつまでたっても腕のなかでしか生きていけないというのも困るわけです。いつかの時点で出発しなければならないんですが、その前にまず「いる」ことですね。そこに「ある」というのはすごく断定的な言葉であって、「いる」というのは人間や動物にしか使わない。「いさせてもらう」「私はいます」「私は今日もいます」というように「いる」ことは本当はすごく不安定だ。特に赤ん坊の場合「いないほうがよかった」という思いを植えつけられることは簡単に起きるのが育児環境ではないか?

                「必然的に時間は早まる」(吉本)
ぼくは、胎児はお母さんが考えているよりもずっとお大人なんだよという考え方に傾きます。だから、それはまた、北山さんの考え方の基本がわかるような気がするんです。つまりあんまりあくせくして、時間に追い立てられて、尻を引っぱたかれて、という社会にならんほうがいいだよということが基本にあるような気がする。いままでは、赤ん坊は出産してから考えればよかったんだけれど、この頃は胎児までかんがえるようになった。教育の問題も、「生涯教育」とか言い出して、いまでは女子大生がものすごく多くなって、あと10ねんもすれば大学院にいくのが普通になるだろうという進展の仕方は、必然と思っている。つまり自然史的必然であって、これを元にもどすことは出来ないんだという観点が僕にあります。これを止めることはできない。一種のペシミストです。

* 「本当の自分」はどこに
                追いかける自分か、のんびりした自分か
(北山)一番最後の問題は、じつは「私」「本来の自分」というのはこの世にあるのかということに関わってくる。ラカンでいえば、「本来的な自分」はもう失われている。だから人間というものはどんどん「偽りの自分」というか、外的に適応せざるを得ない、追いついていく自分ですね。一生懸命に追いかける自分。追いついて、追いついて、追い越していくぐらいの、前のめりになっていく自分、これは「偽りの自分」と言うしかないのだけど、これしかない。さっき言った、のんびりしていられる自分なんていうものはもうないんだという発想に、吉本さんはちょっと近いと思うんですね。ラカニアンはこの路線なんでしょう。ですから彼らと会うと、行くところまで行ってしまう。
前者の、自分はないままにお尻をひっぱたかれて行くしかなんだというのは、最先端を進んでいる人たち、あるいは楽しんでいる人たち、このなかに一応まがりなりにも適応している人たちの論理ではないかと思うんです。
このスピードをどんどん上げていくいく急行列車から、とりあえず振り落とされていく人たちの面倒を見るときは、もうちょっとゆっくり行ってもいいのではないかという対応ですね。我々は遅れていく救護班ですからね、現代人の。それでいいのではないかと思うんですね。
確かに文化を支えている人たちは、生きているあいだに行くところまで行くのを見てみたいと言うんだけど。そんなものは見たい人がやっていればいいにであって、私はどうもね、そこで違う。だから人間が違うんだといわれれば……僕は違うんだとじつは思っている。これはおもしろいところなんです。どっちが正しいというのではない。
(吉本)きっと北山さんの魅力はそういうお考えのなかから滲みでているんでしょう。それに比べてぼくはとてもペシミストです。
たとえば自分の子どもの場合も、とてものんびりした学校へ行かせようと思ったんです。入るにも簡単ですし。ところが、いちばんの問題は。どうやって多数の人がやきもきしている世界に入っていくのか、たとえば受験戦争の世界に入っていくか、入っていけるようになるかが一苦労で、そこでまた、学習塾にも入ってやらないと大学受験がだめなんです。適応性というとまた難しい。
だから北山さんのおっしゃるのは、のんびりした人間の数をたくさんにしてしまえばいいんじゃないかという理屈になりそうだ。
(北山)ぼくは人間は2種類いると思っているんです。無理して肥大させて生きていくのではなくて、本来的な自分を回復させて、のんびり少しづつやっていけばいいんじゃないかと、いう対応で解決する思春期問題は数多くあります。
もう一つ、我々はアプリオリに、あるいは当然のごとくに「本当の自分」を想定しがちですが、してはいけないケースが一部…..といっても我々はこういう方にばかりお会いしているので非常に多いという印象をもっていますけど…..その方々は、逆に「偽りの自分」といっていいんでしょうか、この部分しかないんですね。ひょっとしたら私もそうかもしれないんですけど、温泉に入ってもじつは出てきているのはちょっと外側の部分で。「本当の自分」なんか出したら溶けてしまうかものかもしれない。でも私は錯覚かもしれませんが、少なくとも「本当の自分」と呼んでいるもの」をもう一つもっているんです。これがでてくることによって、本来的な自分に戻ったと喜んでいます。
でも、これすらない、その方にとっては、ただ勉強するだけ。
このような生き方をしている人たち、あるいは仮面しかない人たちに向かって、「これを取ってのんびりしなさいよ「などと言ってしまうと、発病させてしまうことになる。ただし気をつけなくちゃいけないことは、この人たちが物書きになったりしますからね。この人たちが、「人間とはこういうものだ」とかって言ったりしますからね。私の観察では作家や医者や大学の先生に多いですね。ある高名な精神科医が、「そういう人も大学教授になれるんだよ」と言っておられました。でも。こういう人もいるんです。
(吉本)わかりました。北山さん。自己治癒の話をするのが一番ですね。現在、日常生活のなかで、一番多く同じパターンをくりかえしていて、そのなかできつくなったとき、僕はポップコーンを買って、不忍池で水鳥にやるんです。ほかにもおじさんがきていて、パンくずをもってきたりそているのですが、そのおじさんと僕とどこが違うかというと、僕はやりながらあくせくしている気分が残る。やっているだけで、ちっとも安心していないのですね。でも、自己治癒をしなければいけないと感じているだけマシではないかと。
だけど、一つ弁解させていただくと。僕の理解のしかたでは、どんな人だって歴史あるいは自然史の必然からのがれることは不可能だというのが根本にあるのです。これは、マルクスから学んで、僕からぬけていないで、この必然からは絶対に誰も逃れられないと考えています。だからどういう抵抗をするだけなんだ。抵抗も大きな声でしてもしょうがないので、ひそかな自分の営みでごまかす。そういうところでしか抵抗できないと思っている。
大学教授に多いタイプとはちがうところは、不忍池でちゃんとポップコーンをやっているんだぞということです。要するに頭がいいなんていうのは社会的に目立つエリートであるけれど、そういうのは広い意味で病気だと思うんですね。だけど、自分なりに自己治癒をやっているのが現状です。
(北山)ああ、そうですか。ほっとしました。ひょっとしたら極端なラカニアン的じゃないかと思って心配していたんです。ぼくは昔、歌を歌っていまして、歌っている時はすごく気持ちがいいんです。あれをやめたあと、欝的になりました。だから歌っている瞬間を確保することで精神的な安定を何とか保とうとしていたんですね。お母さんの腕のなかというか、不忍池というか、そういう場所がないと生きていけない。生きていくというのはそういうことを基盤としているんじゃないかと私も思うんです。

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