

このところ週末は不順な天候が続き,外歩きができないでいたが、今日はひさしぶりの快晴の日曜日,鳥友だちに誘われて筑波山(標高・女体山
877m)へと出かけた。
*
この筑波山はご存知、深田久弥の『日本百名山』に選ばれているが、標高1000mに満たない山として筑波山を選んだ理由として、その歴史の古さ
を挙げている。即ち、
『昔,御祖の神が所々の神の許を廻った際,日が暮れて富士山へ着いた。宿を求めると、富士の神は物忌のゆえをもって断わった。御祖の神は大
へん怒って、
「今後お前のいる山は夏冬を問わず雪や霜に閉じ込めてやるぞ」と言い残して東の方へ行くと筑波山があった。
そこの神はあたたかく迎え、食事の用意をして歓待した。御祖の神の喜びはこの上なく,
「そなたのいる山は日月と共に幸あれ。今後人が集い登り、飲食の物も豊かに捧げるであろう。それが代々絶ゆることなく、千秋万歳、遊楽の窮
まることを知らないで あろう。」』
と、奈良初期に出た『常陸風土記』を引用して、おそらく常陸の人々の間には、それよりずっと前から語り継がれていた話に違いない,としてい
る。そしてさらに、
『……諸国の男女は,春の花が咲く時期,秋の木の葉が色づく時期になると,手をとりあって連れだち、食べ物や飲み物を持って,馬に乗ったり
して登り,終日楽しく遊び過ごす』
との記事から、わが国では宗教登山が最初のように言われるが,筑波山のような大衆の遊楽登山も早くから行われていたのだ,としている。
*
かって『日本百名山』完登を目指していた私は,昭和61年1月、前日の強い北風が収まった日に登頂した。
女体山の頂上から遠く富士山が望め,自然研究路からは浅間山から上越の山々、そして日光連山も眺められた。
ところが、この冬のさなかでも、ロープウエイやケーブルカーを利用した背広姿の人や毛皮のコートを着た人たちが次々と登ってきて,山頂付近
が混雑してきたが、まさに前述の深田久弥の言葉を思い出させてくれたものだ。
*
そして今日、何回目かの筑波山は,北側にあるユースホステルの駐車場からの登山道を登ることになった。
登るほどに日陰の部分や山頂付近には雪が残っている。一昨日までの雨がここでは雪だったようだ。
期待していた野鳥は少なく,ホオジロ,ヤマガラ,シジュウカラの他、コガラ,エナガなどが見られた程度で1時間余りで『御幸ヶ原』に到着。
ここには既に登山客の姿が多く見られる。
晴れてはいるが,全体に春霞がかかっているようで、遠くの山並みは見られない。
取りあえず、昨年ハギマシコが見られたという御幸ヶ原左手にあるカタクリの群生地へ行ってみる。
カタクリはまだ出ていないが,立入り禁止の場所とあって,野鳥が棲息するには絶好の雰囲気がある。
しかしながら目に入ったのは,餌を漁る数羽のカシラダカのみ。しばし観察を続けていたが,一向に鳥たちの姿が見られないので,再度来ること
にして『自然研究路』を歩くことにする。
*


*
所々に雪が残っている探求路,草花もカタクリが片葉を出している程度で、ようやく春の兆しが見えだしたところだ。野鳥も少なく,急な上り下
りに息を弾ませ、汗を流しながら歩く。
大分疲労が増してきたころ,ある展望台に到着。12時には少し早いがここで昼食とする。
ここは時折ハイカーが通るくらいで静かな雰囲気で,風もなく,南側の斜面のため日差しも暖かく快適な場所だった。
*


*
食後『自然研究路』を一周して『御幸ヶ原』に戻る。食事時とあってこの辺り一帯は大へんな人出だ。
午前中に観察した『カタクリ原生地』付近でも2,3のグループが食事中だ。
これらのグループが立ち去るまでと、しばし近くのテーブルでお茶を飲みながら様子を伺っていたが,中々終る気配がない。しかもその中の1グ
ループでは音楽を流し,乾杯などと言って宴会が始まった。
これでは野鳥が近寄る訳もなく、ここでの観察を諦めることにした。
前述の深田久弥の著作の中にもあった‘遊楽登山’がまさしくこれなのだと実感させられた結果となった。
*
これで今日の予定を断念し,ここまで来たのだからと筑波山山頂の女体山へ登ることにする。
イザナミノ命を祀る筑波山神社に拝礼の後,女体山山頂へ。
ここでも大変な混雑で,写真を撮るのに苦労するほどだ。
イザナギノ命を祀る男体山を撮り,山を降りる。
帰路はキャンプ場への道をとる。北側の斜面には残雪が多く,下りの道に苦労する。
キャンプ場まで降りると,日差しを一杯に受けた草地に【キクザキイチゲ】の花が咲き始めていた。
*


キクザキイチゲ、見られなくて残念。あんなに綺麗に咲いていたんですね。
足がくたびれて、皆さんの場所まで、上って行くのを物ぐさした報い!