奥の部屋に貼り出しましたので、お稽古中ご覧になってください。
一人一人にそれぞれの『令和』
それは新しい時代に期待する心でしょう。
無意識に出てしまう線質や濃淡、そして結体は、生まれ育った地元の景色が大きく影響している事だってあります。
静岡で富士山を眺めながら育った方は、『令』の一画目と二画目が織りなすなだらかな稜線に似た形を求め、岐阜で育った方はその逆を求めることでしょう。
太平洋に面したところで育った方は大らかな『和』を望み、日本海側で育った方は深みのある『和』を書いたかもしれないのです。
あるいは、お気に入りの絵画や縄文土器から生まれてきたのかも、、、、。
沢山の『令和』をお楽しみください。
一人一人の中に長年かけて溜めてきたものを、意図を持って出す作業が創作と言えましょう。
人の評価を気にする必要はありません。
自己満足で良いのです。
ところが、それをビジネスとした場合、客観的な評価も気にしなければなりません。
そこはアーティストが生きていく上で大きな問題なのですが、アーティストの業と社会の熱が織りなす摩擦もエネルギーに変えて創作する事は一流の証しです。
自分の書きたい物と、社会が求めるものは同じである事は、あったとしても一瞬なのです。
そのギャップを埋めるのは、想像力です。
創造力を想像力でコントロールするのです。
本来それをコントロールするのが、絵描きなら画商、物書きなら出版社スタッフ、映画や音楽ならプロデューサーでしょうね。
ところが書の世界にはそんな分業はまずありません。
せいぜい書の事を全く分からないクライアントからダメ出しくらって書き直しするのが関の山です。
間を取り持つ役割を担える人材はまずいないのです。
故に、書のアーティストと名乗る方の作品は、独りよがりの物か、一回高い評価を受けたらそこから抜け出さない、絞られた作品ばかりになってしまう事が多いのです。
型があってこその型破り。
型がない人の作品は幼稚です。
しかもあざとさが前面にでた幼稚さですから、見るに耐えないのです。
ピアノをきちんと習った事が無い者が、肘を落として鍵盤を壊すように音を出し、アーティスト気取りになっているようなものです。
時代によっては、そんな作業を受け入れる事もありましょうが、それは普遍的な美とは程遠いものなのであります。
私たちが求めるべきものは、普遍的な美であります。
それを求める心が長い年月をかけて集めてきた物が、書を学ぶことが者一人一人の中にある事を忘れてはいけません。
そこが創造力の種だからです。
書の道を志す者は全て、普遍的な美を求めているのです。
今気付いて居なかったとしても、そのうち気がつきますから安心してくださいね。
なぜその色が好きなのか。
なぜその洋服を好んで着ているのか。
なぜその音楽を聴いて感動しているのか。
なぜそこに長く住めているのか。
なぜその友達と会話を楽しめるのか。
なぜその仕事を楽しめるのか。
なぜそれを趣味に選び長続きしているのか。
なぜ書道をする事で心が満たされるのか。
全て貴方が選んだ事だからです。
選んだ理由は、貴方が貴方に対して誠実だからです。
私は私に対して誠実に生きることを良しとしてきました。
それを私は『自由』と定義しています。
それは好き勝手とはちがう、私だけのルールに従った『自由』です。
もちろん、私だけの定義ですよ(笑)
これからもその生き方は変わらない気がします。
いや、変えられない、が正確かな。
自分に対して誠実に生きられなくなったら、それは死んでいる事と同じです。
その時は、おさらば、でございますよ。