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「支那劇を観る記」 谷崎潤一郎 (1919.6)

2020年08月21日 | 中国戯曲 京劇 梅蘭芳東渡

 支那劇を觀る記
            谷崎潤一郎 

 瀧田君から梅蘭芳の事に就いて何か書いてくれと云ふ依賴を受けたが、私は去年二た月ばかよりちつと支那を覗いて來たばかりで、支那通でもな 支那芝居のことなどは無論分らない。それに本誌の前號には權威のある人たちの面白い記事が掲載された後であるから、今更私の如き門外漢が彼れ此れと生半通を並べるのも嗚呼 をこ がましい次第である。で、茲では單に一箇の白人 しろうと の考として、梅蘭芳に限らず一般の支那劇に關する私の感想なり見物記なりを述べて見ようかと思ふ。
 支那へ行つたら出來るだけ多くの劇場を廻つて見たいとは、最初からの私の希望であつた。支那の演創、支那の俳優、-刺戟の強い色彩と甲高い音樂とから成り立つて居るらしい彼の國の舞臺の光景は、見ない前から私の好奇心を唆り、其處へ行けば自分が常々憧れて居る夢のやうな美しさと、怪しい異國情調との織り交つた物に接する事が出來るだらうと 想像して居た。北京に梅蘭芳と云ふ名優の居ることも噂に聞いて居た。そんな譯で朝鮮から始めて支那の領土に這入つて、先づ奉天の木下杢太郎氏の家に落ち着くと、早速芝居を案内してくれるやうに同氏に賴んだのであつた。
 「奉天なんぞは支那の場末だから此んな所の芝居を見たつて仕樣がないさ。見るなら北京へ行つて梅蘭芳を見給へ。あれを見なければ駄目さ。」
 かう云つて杢太郎氏は取り合はなかつたが、それでも平康裡 ピンカンリ の中華茶園とか云ふ劇場へ案内して貰つた。ついでながら支那では何々茶園と稱する芝居小屋が多い。茶園と云ふからお茶を飲ませる家と思ふと大概は劇場なのである。南方はどうであつたかハッキリと記憶しないが、奉天を始め天津、北京などはさうであつた。兎に角この奉天の芝居が私の最初の經驗なのである。觀客席の模様は日本の活動寫眞小屋のお粗末な物だと思へば間違ひはない。等級は樓上と樓下と二つに別れて居たきりであつたと思ふ。樓下の方は地面へ直 ぢか にベンチが並べてあるだけであつた。私が這入つて行つたとき、舞臺では小柄な若い女優が、きらきらと銀色に光る毒々しい冠を戴いて、眞紅な地に金色の刺繍を一面に施した服を着けて、キャア、キャアと猫の啼くやうな聲を張りながら臺辭を云つて居た。何だか斯う赤く煠 ゆ でた蝦 えび のやうな感じがした。その女優だけはそんなに嫌ではなかつたけれど、後から出て來る役者たちはみんな気味の惡い度強 どぎつ い隈取りをして居るので、惡夢に魘 うな されるやうな不愉快を覺えた。おまけに立ち廻りとなると音樂がヤケに騒々しい。銅鑼のやうな物を無闇にヂャランヂャランと鳴らし續けるので、耳が聾になつてしまふ。活版刷の番附は貰つたけれども 一と晩のうちにいろゝの芝居をやるのだから、今演じつゝあるの孰がの藝題で孰の俳優なのか見當が附かない。筋は勿論まるで分らない。私の抱いて居た幻覺は此れで滅茶々々に壊されてしまつた。  
 北京へ行つたらこんな筈はあるまいと其れを賴みにしながら、天津でも到る處の芝居小屋を覗いて見た。其處は可なり芝居が盛んな土地だと見えて、日本ならば淺草公園とか道頓堀とか云ふやうな町を歩いて居ると、芝居の廣告とか劇評とか云ふやうな記事ばかりを載せた新聞を、賣子が賣つて歩いて居る。(此の種類の新聞は、少し大きい都會には何處でも發行されて居るやうであつた。)それを一枚買つて、廣告欄に出て居る劇場を一つ一つ見物して歩いたがやつぱり一向感心する気にはなれなかつた。第一小屋が不潔なのには少からず辟易した。甚しいのになると、立ち廻りの際にトッタリがとんぼ返りを打つたりすると舞臺からぱつと埃が舞ひ上つて其の邊が濛々となるのである。それから美人だの色男だのに扮して居る役者までが、舞臺へペット痰を吐いたり手鼻をかんだりする。(藝者でさへお客の座敷で手鼻をかむ奴が居る、)眼のさめるやうなケバケバしい衣裳を着て居て其れをやるのだから全く不思議である。しかしお客は平気なもので、音樂に聞き惚れつゝ首や手足で拍子を取りながら、佳境に來ると熱狂して掛け聲をかけたり喝采したりする。わたしはつくゞ、支那人は音樂を好む國民である事を知つた。
 北京へ着いた明くる日、神田の小川町のやうに書店が列んで居る琉璃街へ行つて、支那現代の戯曲を集めてある戯考と云ふ書物をあるだけ買つて來た。それから劇通を以て有名な辻さんや、同文書院出身の村田孜郎君や、平田泰吉君などに説明を聞いたり案内をして貰つたりして居るうちに、だんだん分るやうになつて來た。北京に前後十日ばかり滞在して居た間、私は毎日一つや二つの劇場を覗かない事はなかつた。新聞の廣告に依つて其の日の芝居の藝題を知り、それから戯考を開いて其の戯曲の筋を呑み込み、その上に劇通の講釋を聞きつゝ見物するのだから、俄然として悟りを開いたやうに分り出して來たのである。尤も其れには奉天や天津で下等な芝居を澤山見て居た間に、知らず識らずあの調子の高い音樂が耳に泥 なづ んだと云ふ事もあつたのだらう。さうして筋さへ呑み込んでしまへば、支那音樂のメロディーには西洋の其れと違つて、日本人にも共通な感情の流露があるのだから、悲しい所は悲しく感ぜられ、勇ましい所は勇ましく感ぜられるのである。李陵碑などゝ云ふ戯曲の悲莊な味はひは、私にも可なりよく分つたやうな気がした。  
 辻さんの話に依ると、目下の梅蘭芳はニ三年前ほどの人気はない。容貌も頬がこけたので以前ほど美しくはないし、聲もいくらか惡くなつたのださうだ。梅と同型の女形で、彼の後輩である尚小雲の方が前途有望で、將來梅と匹敵すべき名優になるだらうと云ふ。私は尚小雲の孝義節を見たが、どうも梅蘭芳ほどは感心しなかつた。梅蘭芳は聲ばかりでなく、表情があり動作があるのだから、我々の如き白人には理解され易い點もあるのだらう。此の意味に於いて、梅蘭芳と共に一對の夫婦を演ずる立役の王鳳卿が、今度日本へ來なかつたことはいかにも殘念である。やゝ幸四郎に似た趣があつて、藝から云つても顔から云つてもあんなだらだらした缼點のない、カッチリと引き締まつた、何となく支那の古英雄の如き颯爽とした風貌と態度と肉聲とを持つた王鳳卿が來たらば、或は梅よりも評判になつたかも知れない。
 帝劇で私が見たのは御碑亭であつたが、王鳳卿が一枚缼けて居た爲めに、北京の廣徳樓で見た時よりも劣つて居た事は爭はれない。それから柳生春に扮した俳優も、北京でやつた役者の方が上手であつたやうに思ふ。王有道と柳生春とが、試驗官の前で話をする時の臺辭の云ひ渡しや抑揚が、馬鹿に好かつたのだけれど、此の間はそれほどでもなかつた。御碑亭の雨宿りの場の梅蘭芳の出來榮えも北京の時の方が優れて居た。廣徳樓の舞臺では、御碑亭の側に楊柳の立ち木を据ゑて、それがいかにも雨の情景を添へて居たのに、どう云ふ譯か帝劇では柳を置かなかつた。孟月華は御碑亭の上手の柱のほとりにうづくまり、柳生春は下手の柳の蔭にしよんぼりと彳みつゝ、互ひに更け行く鐘の音を數へて歌をうたふのである。あの柳は是非ともあつた方がいゝ。王有道が妻を離緣する際の表情も、王鳳卿が演ずるとあんなに騒々しくはなく、もつと男性的で沈痛を極めて居た。
 南支那へ來て蘇州杭州上海邊に 流行して居る新劇をも 見たが、此 は頗る奇抜なのがあつて、腸を抉り出したり皮膚を剥ぎ取つたりするやうな無邪気で殘酷な芝居もあつた。女優では杭州の西湖鳳舞臺で見た張文艶の妖艶さを未だ忘れる事が出來ない。それから上海の大世界で見た人形芝居は非常に綺麗な美しいものであつた。支那の舊劇は動作よりも音樂が主で、加ふるに衣裝があの通り絢爛であるから、人形芝居には實に適して居るのである。  
 
 上の文は、大正八年六月一日発行の雑誌 『中央公論』六月號(第三十四年第六號)に掲載されたものである。



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