蔵書目録

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「何事も五里霧中の現代」 小倉末子 (1933.6)

2015年02月04日 | ピアニスト 2 小倉末子

  

 何事も五里霧中の現代   
       探り当てたい幸福の正体
             東京音楽学校教授 ピアニスト 小倉末子

 この頃のやうに世の中が混乱して、人々が自分のしてゐることに自信がなくなり、何をなすべきかに迷つてゐる時には、一番自分には手近な家庭といふやうなものゝ中でさへも自分の指針を見失ふ人があるのではないかと思ひます。その日ゝを気紛れに送つてゐるやうにみえる人達でも、たゞだらしなくさうしてゐるのではなくて何をしてよいかゞ解らないために、結局その時々の都合主義になつてしまふのではないでせうか、勢ひ家庭教育なども何等確かりした信念も方針もないようなものが多く、従つて家庭で子女を教育して行くといふ重大な事業であるのにも拘はらず根本の熱情が欠けてしまつてゐるといふことがありがちなのであらうと思はれます。これは何も私が家庭教育に対して一つの定見を持つてゐるがために、いふのではなく、私自身がかつて受けた家庭教育が、今思へばかなり勝れたものであつた、少くとも熱情に充ちゝたものであつたことを想ひ起して、例へ結果は一人の音楽のメツカへの小さな使徒を作つたゞけに過ぎなくても、充分の敬意と思慕とをそれに対して持つてゐるからなのであります。若い人達が自分の進むべき道を模索して尊い青年の日を空しく浪費してゐること、若い早計から再び逆に回転させ難い人生の何頁 なんページ かを切捨てゝゐることに彼 あ の人達以外の責任がないといへるでせうか。私の場合には外国人である義姉 あね が両親に代つて私を育てゝ呉れました。幼い頃からその義姉 あね に実にきちつとした教育を受けました。決して世にいふ厳格といふのではなくつまり非常に整然としてゐたといふのでせう。それは義姉が独逸 ドイツ 人で、その国民性から来るものもきつとあつたのに違ひないと思ひますがその終始変らない熱情と鞭撻とを、私が若い人達に勤勉をすゝめる時には、必ず思ひ出します。私が自分の思出をこゝに書き始めたのは、これを読んで下さる人があつて、或ひはそれが家庭のお母さんであり姉さんであって、たまたま家庭教育の或る一つの型として参考にして下されば幸ですが、さうでなくて、若い人の生活を何処かで鞭撻出来れば意いゝと思ふためであります。
 「顏を洗ふ時にはきっと襟も洗ふのですよ、石鹸で洗って、さあもう一度水道の水で洗ってー」綺麗好きの義姉はさういって、毎朝私にそれを実行させました。顔を洗ふだけでも面倒で直ぐにも飛び出して行き度い子供には襟を洗ふのは非常に億劫でした。水が冷くて辛い時もありました。義姉はこんなことからよい習慣を私につけてくれようとしてゐました。両親には孫のやうな末っ子の私はたゞ可愛がって貰って決して一人では外へ出されず、他所の子とも遊んだことはありませんでした。三つ位の頃から東京の家から神戸の兄夫婦の家へ父に連れられて行きましたが、夜勝手なれないその家の二階へよくものをとりにやらされたことを覚えてをります。「とって来たかい。恐かったか?暗がりは悪いことは何もしないんだよ。そんなことを恐がるのは侍の子ぢやない」義姉も父のこんな言葉を聞いてゐたさうで、六歳で死別しましたが、一番時代にふさはしい教育をしてやってくれ」と言ひ遺したさうです。義姉の手に渡された時義姉はもうどういふやうに教育するかを決めてゐました。父が「侍の子」はといひながらも掌中から離さないやうに愛撫してゐたのに比べて義姉はたゞ黙々と導き、最 もっとも 必要なところで、最必要なことだけを教へて行きました。そしてそのための方法を実によく考へられて日常生活の中へ織り込んでくれたものです。忘れられないのは小学校へ入学する前から算術の稽古をしてくれたことです。胡桃の皮を糸で吊って兄が拵へてくれた小さな秤と十銭から五十銭までの単位のお銭 あし とが庭へ持ち出されて、女中総出の飯事をしてくれたものです。物を売ったり買ったり、お釣りを出したりすることで直ぐ算術を覚えてしまった私は、飯事 ままごと そのものが無性に面白くてゝおしまひには家 うち のものが困った程でした。音楽をするための数学的な頭と語学の力、これを義姉は余程考へたのでせう。後でこれが大変ためになりました。ピアノは満七歳で始めましたが、楽譜は義姉が絵を画くやうにして教へてくれるのでした。時間を規則正しくさせたこと、健康に心を使ってゐたことはこんな例でも解ります。学校から家まで三十分の道程でしたが、三十分の時間を計って義姉が家で待ってゐるので道草は絶対に出来ません。家へ入るなり荷物を投げ入れるやうにして義姉と一緒に散歩に出ることになってゐました。散歩は一時間か一時間半で、帰るとお茶でした。ピアノ、英語と義姉の時間割通りにするのです。朝など、九時始まりの時期には登校前にもピアノをするのでしたが、「さあお稽古ですよ」と座らせられてからどんどん時間が経って次第に学校に遅れやしないかと心配になって来る頃になっても義姉はなかゝ呼びに来てくれません。「さあもう学校へいらっしゃい」と云晴れるまで大丈夫とわかってからも毎朝心配だったものです。義姉のいふ時間に家を出れば必ず間に合ふのでした。数へ年の八つ頃で、子供心にピアノは好きは好きでしたが、義姉がこんなに熱心になってくれなかったら勉強が進まなかったに違ひありません。家の中には偉くて有名だったピアニストの写真が沢山かけてありました。「この方達のやうに偉くなりますと、王様の御陪食も出来るのですよ」といった言葉で義姉は励ましました。芸術家は偉くなると王様のお側へも行けるといふやうな話は小さな子供の心に、この世以上の素晴らしい世界、丁度お伽噺の国へ入って行けるやうな夢を描かせました。気高い、自分の思ふものは何でも得られるやうな地位、私はよく考へてゐました。
 勝れた芸術家の生れた独逸のことを義姉は考へてゐたのでしたでせう。
 ピアノをさらふことは好きでしたが、もうすっかり上げてしまった曲をくりかえしさらふことは厭でした。それなのに、義姉は、もう随分と稽古して、いゝ加減弾きあいてしまってゐた古い楽譜を手にして来てさあこれを弾いて御覧ーといふのでした。それが一番いやで又かと思って仕方なしに弾いてゐましたが、曲に対する理解を正確にするために、これは決して無駄ではありませんでした。
 独逸へ勉強に行く時、義姉はわざゝ私のために、ついて行ってくれました。先生についた私を、義姉はもう勉強のことでは何も導かうとはしませんでした。たゞ私の弾き疲れる頃をちゃんと知ってゐて散歩に外へ誘ふことは前と同じでした。もうすっかり時間の習慣がついて、私は能率をあげることを知ってゐました。絶えず私の側にゐて私のためによく考へよく実行してくれた姉のことを思ふことそれ自体がもう一つの励みになる程時間が経ってゐたのでした。
 義姉は日本語が上手になり、白髪がふえただけの変化で、私の側に私の守り神のやうについてゐてくれます。
 独逸人的な計画性、積極性、正確性といったものを私は挙げようと思ひません。私はこんな思ひ出話だけを綴り合せてゐる間にもどんなに義姉が私のために盡してくれたかに胸を塞がれてしまひます。犇々 ひしひし と心を打つ愛情を感じて頭が下ります。
 幼くして両親に死別した私は、不幸に両親の教育を知りませんが、若し世の若い人達が私の経験して知ってゐるだけの感激を與へられる母体を持ち得たらきっとそれは幸福の正体だといふことを私は躊躇しないでせう。外国人である人がこれ程に日本の娘を理解し正しく導いてくれたことが日本のお父様やお母様に出来ない筈はないと思ひます。
 何をなすべきかに迷ふことも如何にすべきかに躊躇することもすべて熱情の一筋にかゝってゐるのでないかと思ひます。

 この文は、昭和八年 〔一九三三年〕 六月一日発行の 『家庭』 第三巻 第六号 大日本連合婦人会 に掲載されたものである。



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