蔵書目録

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「久野久子女史」 三木楽器店 (大正)

2012年11月23日 | ピアニスト 1 久野久子

  

 左の写真: Miss. H. Kuno Stainway Piano スタインウエーピアノ総代理店 大阪 三木楽器店 神戸
 右の写真: 久野女史 山葉ピアノ発売元 三木楽器点 大阪市東区北久寶寺町四丁目
切手を貼る所には、「ピアニスト久野嬢獨奏會記念」とある。  

 ○久野久子愛用のピアノ

 新潟県村上市の村上歴史文化館で展示されている。ドイツ・ベルリンのキャロル・オットー〔CARROL OTTO〕のピアノである。

 

 ○久野久子女史恢復祝賀演奏会

 

     曩に自働車で大負傷の東京音楽学校教授久野久子女史全快後十二月三日同校に一大祝賀会が開かれた中央は同女史也

   上の写真と説明は、大正六年 〔一九一七年〕 一月一日発行の『写真通信』 壹月号 第三十三号 にあるもの。

  久野久子女史恢復祝賀演奏会曲目梗概   乙骨三郎

 一、ベートーヴヱン作ヘ短調ソナータ(作品五七)

   一八〇七年に出た此のソナータは作者の成熟期の作品中異彩あるものと評せられて居る。『激情的 アパショナータ 』といふ通称は作者自身の命名でないので、不当又は無用との説がある。曲趣は暗澹たる嵐の夜の様で、ベートーヴェンの作中にも、これ程物凄いものは前後にないとマルクスは言つて居る。この恐ろしさの中で第二の緩徐調は敬虔な祈祷の如くに聞える。

 二、グリーヒ作
  (イ)春に
  (ロ)諾威 〔ノルウェー〕の婚礼行列

   作者は諾威の国民的楽家、本曲は其の秀実なるピアノ小曲の中なり。

 三、ショパンのホ短調コンセルト(作品一一)

   波蘭 〔ポーランド〕 の天才が遺せるコンセルト二二中の一、一八三〇年の作で、最初ワルソー 〔ワルシャワ〕 で演奏せられた今度は第一楽章快速調 アレグロ のみに止む。
   リストはショパンのコンセルトやソナタの作に『神様よりも寧ろ多くの意思』を認むるに難からず為したが、而も『ショパンの古典的企図は稀に見る精美の作風によりて異彩を放ち、非常に興味ある通過句、意外い壮大なる部分を含む』と言うて居る。
   ショパン研究者ニークスはショパンのコンセルトの全体の構造に就て批評し且つ管絃部(殊にピアノと連合せる場合)の独奏部に比して聴き劣りすること等を説いた後、語を改めていふ。『しかも細部の嬌絶可憐纎麗優雅絢爛なるは能く人をして其の全体上の欠点を忘れしむ』と。
   作者は創作当時の書簡に於て自ら此の快速調を、『活溌』なるものと評せり。

 四、リスト作リゴレット改作曲

   ヴェルディ(Verdi)の歌劇『リゴレット』の第三幕に出る美しい歌詞をピアノに移して華美な装飾を加へたもので、一八五九年ビューローの為に作つたといふ。

 五、(イ)ブラームス作ト短調ラプソディー(作品七九ノ二)

   近代器楽のラプソディーといふは普通に若干の民謡調を接ぎ合せたファンタジーの様な曲を指すが、ブラームスのこれは作者自身の考へたバラッド風のピアノ曲で、全体陰鬱の情趣に充ちて居る。旋律 メロデイ が時々停つて考へ込む様なのも此の曲の一特性である。

   (ロ)ショパン作曲短ハ調練習曲 エチュード (作品一〇ノ一二)

   一八三一年ワルソーが露国に占領せられた時、之に檄して(スツットガルト滞在中に)作つたものといふ。ショパンのエチュード中の秀逸に属し、又た全作中の最も壮大なものである。左手が性急に走過する間に右手は激烈な怒声の如き音を打ち込む凡て作者の憤怒に堪えぬ気分を表はすものと見られる。ショパンの作曲上の特性も遺憾なく此の曲に現はれて居る。

 六、リスト作フンガリア 〔ハンガリー〕 (ニ短調)

   所謂『管絃楽の詩』(symphonische Dichtung)を二箇のピアノ曲に改作したるものゝ一である。管絃楽詩はリストの大成した曲体で、詩的内容を器楽にて表出せんとするものである。全篇は三部に分れ、其の第一は圧制を脱せんとして武装するフンガリア、第二は自由の為の戦闘、最後は勝利せるフンガリアを表はすものだといふ。即ちリストが祖国の歴史を概括的に描いたもので、フンガリア風の調に充ちて居る。曲の中頃の戦闘を描いた部分に勢よき国民的軍歌に次で現はるゝ葬送進行曲 フユネラルマーチ (緩徐調)は名誉の戦死を遂げた勇士の弔ひ歌に聞かれる。(十月廿七日)

 上の曲目梗概は、大正五年 〔一九一六年〕 十一月発行の『音楽』七巻十一号に掲載されたものである。

 なお、翌十二月発行の『音楽』七巻十二号 の楽人動静に次の記載がある。

 ■同日〔十一月十六日〕御前演奏を承つた光栄あるピアニストの久野久子女史は予報の如く十二月三日に音楽学校で学友会の女子大学桜楓会主催の大独奏会を終つた後京阪在住同窓及び有志の熱心な需めに応じて十二月九日及び十日の両日同地に於て、盛大な独奏会を開かれるとの事である。

 

 名誉の久野女史

 昨年十一月十六日、皇后陛下が上野の音楽学校に行啓あらせられた時、御前にてピアノを奏して名誉を博したる楽壇の天才久野久子女史です

 上の写真と説明は、大正六年一月発行の『婦人世界』第十二巻第一号の口絵にあるもの。

 

 指から血の出るのも知らずに 東京音楽学校教授 久野久子

  京都で琴と三味線を習ふ

 私は滋賀県の生れで、小さい時は身体が弱うございましたから、学校は尋常四年を終へただけで、上の学校にはまゐりませんでした。母は芸事が好きでしたから、学校に通ふ代 かはり に京都に出て琴と三味線とを習ひました。三味線はさほどでもありませんが、琴は生田流で、古川といふ名人の先生について三百曲以上も修め、奥許 おくゆるし を取りました。
 十八歳の時、兄が東京の大学に入学することになりました。当時、東京へまゐるのは、世界を廻るよりも偉いことのやうに思つてをりましたが、兄は、母も亡くなつてゐましたし、私の末のためを思つてくれまして、一緒に上京して音楽学校に入学させてくれると申しました。
 兄は別に詳しい話はいたしませんでしたが、友人は、『西洋音楽は学校の教師になることができてよい』と申します。その頃、音楽学校出身の人が高等女学校の教師になつてをられるのを見て、『私もああいふ人になりたい』などと思ひました。

  師範科には入学ができぬ

 ところが、中学校や高等女学校の教師になるには、師範科に入学しなければなりません。さうするには中学校なり高等女学校なりを卒業してゐなければなりませんが、私は前にも申します通り、尋常四年を修業したばかりですから、師範科に入学する資格がありません。そこで、『教師は偉いものだ』と思つてゐても、学力がなくてはどうすることもできませんから、技芸教育を主とする本科を選びました。
 本科ならば、高等女学校二年の学力さへあればよいといふので、その入学試験を受けることにしました。普通の人は英語と唱歌さへできればよいといふのですが、私は、国語、漢文、作文、その他いろいろの試験を受けなければなりませんので、半年ばかりいろいろの学科を勉強しました。

  ピアノの音を琴かと思ふ

 明治三十四年 〔一九〇一年〕 の夏に 入学試験を受けました。その時、予科に本入学を許可された人が四十人あまりと仮入学を許可された人が四五人あつて、私は仮入学者の一人でした。九月から通学することになつて、生れて初めて海老茶の袴を穿くやうになりましたが、西洋音楽の素養は少しもありません。国にゐる時分に、オルガンは見たこともあり、その音を聞いたこともありますが、ピアノは見たことがないので、初めてその音を聞いた時、琴かと思ひました。
 しかし、学校といふことを知らないだけに呑気なもので、入学後七八ヶ月も経つのにピアノも買はず、音譜の見方もピアノの弾き方も知らずに過してをりました。それに、先生の講義の筆記ができないで困りました。幸ひに、深切な方があつて、筆記帳を貸して下さいましたので、それを見て勉強して、末から二番目の成績で本科に移りました。

  肋膜を煩つて一年間休学

 それでも及第したといつて、大きな顔をして帰郷しましたが、直ぐに肋膜を煩つて、一年間休学しなければならぬことになりました。慣れぬ学校生活をしたために、そのやうになつたのでせう。皆さんは、『気の毒だ。折角本科になつたのにー。』と同情して下さいましたが、私はそれほどにも思はず、故郷で呑気に暮して、一ヶ年間にすつかり癒(なほ)してしまひました。その時、父や親戚の人たちは、『また病気になつては困るから。』と申しましたが、本科になつたまま退学するのも残念ですから、『身体を大切にする』といふ条件で上京いたしました。そして、何といふ理由もなく、ただ『ピアノがよいから』と、ピアノを選んで選考することにしたのです。

  音譜が読めないで困る

 前に申しましたやうに、予科の時はさう勉強もいたしませず、おまけに一年間休学したので、何が何やら少しも分りません。幸ひに幸田延子先生に就くことになつて、深切に指導して頂きましたが、思ふやうに音譜を読むことができません。仕方がないから手を動かす練習をしましたが、音譜が満足に読めないくらゐですから、自由に手の利かう筈はありません。漸(やうや)くボツンボツンと弾くことができるくらゐのものです。
 しかし、ピアノに向ひますと、次第に身体が引締つて、何ともいへぬ感じがして来るやうになりました。心の奥に潜んでゐる或るものが現はれて、それが自分の手を伝てピアノに移つて行くやうに思はれてー今の言葉でいへば、芸術的感興とでも申すのでせう、知らず識らずピアノに引寄せられて行くといふ風でございます。

  卒業式の演奏で認めらる

 自分ながら拙いと思つて練習してゐるうちに、幾らかづつ上達したのでせう。一年より二年、二年より三年と、次第に成績がよくなつて、明治三十九年に首席で卒業しました。そして、卒業式の時、首席だといふので、貴顕紳士の面前でベエトベンのコンセルトを演奏しました。
 その時の文部大臣は、今度講和会議の委員として巴里にまゐられた牧野男爵で、卒業式に列席してをられました。私はその時は夢中で、お目にかかりませんでしたが、人の話に依れば、男爵は大層立派な方だといひます。大使として外国ににをられて、自然に音楽にも趣味を持たれるやうになつたのでせう、私の演奏に対して、有難いお言葉を下さいましたさうです。また理学博士田中正平先生もおいでになつて、やはり御厚意に満ちた、有難いお言葉を頂きました。

  助手になつて研究する

 私は卒業してから半年経つて、オオケストラ伴奏で音楽学校春季大演奏会に出ました。その時、ユンケル先生は熱心にタクトをして下さいました。これは、私の『門出の演奏』でございます。
 その後、左の人差指に●疽 ひょうそ ができて、骨がボロボロになるところを、当時赤十字病院の部長をしてをられた難波先生に治療して頂きました。指が癒つてから、『補助』として音楽学校にまゐいることになりました。補助といふのは教授の助手をするのですが、私は、『もう少し研究させて貰ひたい。』と申して、研究ばかりしてをりました。それから二年経つて助教授に任命され、一昨年(大正六年 〔一九一七年〕 )教授に任命されました。

  苦しいのは芸術的の煩悶

 音楽家といへば派手な生活をしてゐるもののやうに思はれますが、真の芸術に生きようとすれば、そのやうなことはできません。学校にゐる時にどのような苦しい思ひをしても、卒業してからの苦しみー芸術的煩悶よりは楽なやうに思ひます。私も、次第に自分の貧弱さが分つて来て、自ら進んで演奏会をするやうなことはありません。大抵外の人に勧められて出るのでございます。四年前に自働車で怪我をして、それが全快した時、田中先生を始め皆さんが、『全快祝に「独奏会」でもしたらよからう。』と申されて、初めて個人の演奏会をいたしました。その時、世間から好評を得まして、引続き諸方から『演奏会に出てくれ。』と頼まれます。どうしてもお断りができないで出席することも少なくありませんが、『もつと自分の技術を進歩させなければ申訳がない。』と、自分に寄せて下さる世間の同情を思ふにつけ、自分自身を責めて、苦しみながら生きてをります。

  三時間近くもかかつた曲

 最近に演奏会をいたしましたのは昨年 〔大正七年:一九一八年〕 の十二月七日でした。主催者は音楽学校の学友会で、場所はやはり音楽学校でございました。曲はベエトベンのソナタで、一期の終から二期までの作曲を五曲演奏しましたが、長いものばかりで、他の曲の十六曲分もあります。間に少しづつ休みましたが、全部で三時間足らずかかりました。
 これをいたします時、『少し多過ぎはしないか。』と思いひましたが、『私の力のかなふ限り弾いて見よう。』 と決心したのでした。その時においでになつた方は、『よく弾かれたものだ。』といつて、感心してをられました。

  十一回も演奏会を催す

 それが評判になつて、女子大学の『桜楓会』から演奏を依頼されました。女子大学は一週間に一度づつ、長い間勤めてをります上に、日頃から深い同情を寄せて下さいますので、まゐりましたやうな次第でございます。その音楽会は、寄附するためにも催されたのだといふことでございました。
 続いて、白樺同人の音楽会が催されて、やはり演奏いたしました。それから、名古屋、京都、神戸、広島、奈良、呉、福岡と、各所に熱心な音楽会が催されて、招聘されました。そのために、前後十一回も演奏いたしました。

  鍵盤を血だらけにする

 私は外のことにはさうでもありませんが、ピアノに向ひますと、自分の演奏する曲以外のことは何にも考へません。『どうすれば自分の思ふやうな音を出すことができるか』とか、『どうすれば、この曲を私の心の要求のままに生かすことができるか』とかいふことに夢中になつて、自分の身体のことなど考へてゐる暇はありません。
 ピアノを弾くには随分力が入りますので、感興に任せて一生懸命に叩いてをりますと、指に傷ができて血が流れ出ることがあります。しかし、自分ではさほど痛いとも思はず、終つてから鍵盤に血が着いてゐるのを見て驚くことがあります。

  変つた進みやうをしたい

 私は、まだ成功者と申されるどころか、月日が経つと共に技芸の未熟な点が眼について、自分自身を苦しめてをります。
 『どうしたら音楽の真髄を確実に摑み得るか。』
と、そればかりが気がかりでなりません。
 それて、今後どこまで、形の上にも生命の上にも、摑み得るか分りませんが、できるだけ勉強したいと思つてをります。私どもの到達すべきところは、ズツと遠い、限(かぎり)知れぬ深さと広さがあるので、うツかりしてゐることはできません。
 できるならば、グツと変つた進みやうをしたいと思つてをります。自分の哀れな力を磨き尽(つく)して、行きつけるところまで行き尽すより外に、よい方法はないと思ひます。

 上の文は、大正八年 〔一九一九年〕 三月五日発行の『婦人世界』 第拾四巻 第四号 婦人世界春季増刊 婦人成功号 に掲載されたものである。



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