蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「南清風景談」 佐々木信綱 2 (1904.5)

2024年08月28日 | 人物 作家、歌人、画家他

 

 天下三分の煙月二分ありといはれた揚州へ私の參りましたのは『煙花三月下揚州』ではなくて十二月卅一日でありました―鎭江から長江を横ぎり、抗州より天津につゞく大運河を瓜州鎭からのぼりまするので―天下の佳麗蘇杭州にうつり、鶴駕十万錢を腰にして遊ぶ人もなく、唯䀋業の賣買でたもたれてをる。歐陽修が荷花百朶を取り四座に挿むで客と酒を汲むだ平山堂二十四美人をつどへたといふので名を得、『二十四橋明月夜玉人何處敎吹蕭』といふた橋も朱欄碧甃、今は形ばかり、夕ぐれ船を待つて運河の邊に立つて居ますと、川むかうの堤の上に、崩れかゝつた甎瓦の古い塔がある。高さは八九層、風雨にさらされ一種の古色を帶びてゐる。塔の上層にはえてをる丈低き雜木雜艸が黄いろ〱冬がれて、夕暮の風に動いてをる。寒い冬の夕日は塔のあたりを照してをる。折から塔の上に巢くうてゐるのであらう、尾が長く羽に白い斑 ふ のある鳥が幾百羽となく塔の上に舞ひ舞うてをる。さながら畵のやうでありました。
 西湖の景は日本に似寄つてをる。三方をめぐれる山は靑く、水も靑い。其上に一碑一亭一木一石皆故事來歷あらざるはなく、白樂天の築いたといふ白堤、蘇東坡の築いた蘇堤が湖上に丁字形をなし、中島の孤山には林和靖の墓、西林橋畔には蘇小々の墳、棲霞嶺の下には岳飛の忠烈廟があつて、千古の隱士佳人忠臣が湖畔に眠つてをる。文學歷史が一層此湖をよくしてをるのであるが、私は今一つ西湖の景を助けて居るのは塔であらうと思ふ。『烟光山色淡溟濛千尺浮屠兀倚空』とうたはれた雷峰山の雷峰塔と、寶石山の寶叔塔とが湖を隔て南北相對してをる。しかも雷峰塔は位置やゝ低く凌雲閣式で、上には雜木がはえて其影さかしまに綠の水に映じをる。寶叔塔は筍の如き形で山の上に高く聳えて居る。呉山の第一峰から初めて西湖の全景を見おろした時、湧金門から船を浮べた時など、此二つの塔の左右に見えるさま、たしかに西湖の景を添へて、畵龍に晴を點じたものというてよいと思ふ。
 蘇州府はわが國の西京に類似してをる。織物と佳人との産地で、『綠浪東西南北水紅欄三百九十橋』とうたはれた如く、水が縦横に流れ、かの畵舫も金陵の秦淮よりはこゝの方が數が多い。寒山寺楓橋はかの國人にはあまり知られてをらぬが、我國人の蘇州にゆく者は必ずたづねる。あだかも鴫たつ澤、をばすて山、勿来の關などの類で、詩人一篇の詩、千里行客の杖をひく所となつたので、其他を蹈めば却つてさほどに感はおこらぬ。私はむしろ蘇州の景を助けるは、五個所の塔であらうと思ふ。第一は虎邱の塔で―呉王闔閭を葬つた時五郡の人十万人で塚を治めたに三日目に白虎其うへに踞りをつたといふので名づけた虎邱。平田の間の高い丘で。始皇の故事ある劒池、竺道生の法を説いた千人石。呉國の麗佳古眞孃の墓などがあるが、私はむしろ劒池の上の七重塔が長髪賊の亂に荒廢したまゝ立つてをる、其塔の下から平野を見おろした景がよいと思ふ。第二は靈嚴山の頂の塔で。是は數里の外から見える。呉王館娃宮の故地。宮には彼の西施をすまはせた所。こゝから遠く大湖を望むだ景また絕景である。第三は北寺の塔。これは九層二十余丈。規模極めて大なるもの、甎色黑くして光澤がある。一寺僧に乞うて上つたに。一層から二層への上 あが り口は眞暗で、雛僧が小さき紅燭を點じて案内した。かの善光寺の戒檀めぐりの類でわざと暗くしたのであらう。二層から三層四層と段々の上 あが り口がいづれも一寸わからぬやうにしてある。これも參詣の善男善女に尊とく見せる爲であらう。一層一層皆佛像があまた安置してある。九層の上にのぼると風のはげしい日で、天風我袖を飜へし、目もくるめくやうであつたが、蘇州府を一目に見おろし、がつ陽城湖も野外に幽かに見えた。第四は雙塔寺の雙塔。此形が實に珍しい。寶叔塔よりも今少し細く筍か筆の軸をたてたやうな細い塔が二つ双むで高く立つてをる。我國の如く地震の多い國ではとても出來ぬ建築である。第五は端光寺の塔。これは府外の枯野の中に物さびた簷角の塔である。
 遠くより望んでも、近よつて見ても、上 あが つて眺めてもいづれも景趣に富むでをるのは塔である。我國の山や丘の如く樹木が、嵡欝 こんもり と繁茂してをらぬ故、一層塔がめだち、山や丘を望む景の中心點となるのである。塔が支那南方の風景を助けるといふ事については、猶御話したうございますが、餘りに長くなりますから、最後にこれも塔の風鐸のお話をいたします。
 大晦日の夜深く揚州からかへり、鎭江で、躉船 はるく といふ水中の庫船にとまりました。躉船々長 はるくますたあ 一人が日本人、他は皆支那人。船長はもと獵虎船の船長をしてをつた快活な人で、爉虎狩の話をきゝながら老酒を汲みかはし、さて船中の一室で長江の波の音を夢にして、遊子の胸に種々の感をやどしつゝ、變つた除夜を致しました。翌日は元旦。支那人が料理の、錫の器にいれた名ばかりの雑煮を味ひまして、庫船の上の我國旗が朝風に勇ましくひるがへるのを見ながら、轎をやとうて鎭江の町を過ぎ、金山寺へまゐりました。かの宋の高宗が、『雄跨江南二百州』の句によつて名づけた雄跨亭をも見たく、かねて金山寺の寶物ときいてをつた東坡の玉帶を見、古人の俤をも𢖫びたいと思うて參りました。大風四起する毎に浮動するが如し故に浮玉山と名づけたといふ金山寺。減水期で水とはいさゝか離れてをりました。さて門前で轎を下りますと、丘の上の寺であるから、段々に高くなつた堂が、支那寺院の常で、幾棟も幾棟も建つてをる。最も上に金碧交も輝いて人目を射る塔がある―昔から幾度も建て直され、現時 いま のは髪賊の兵火に消燼したのを曽国藩が再建したのである。塔の形は簷廈七層、簷角穩に張つて、上には風磨銅の圓頂がある。我國の塔の形に近い。さて堂内に入りますと、不思儀、實に不思儀。何ともいふにいへぬ淸いけだかい音樂が雲の上に聞える。あやしむて堂をぬけて、石だゝみへ出ますると、まさしく天上に音樂を奏するかの如く、微妙の響がある。人間の奏する樂器の音よりも一層けだかく響く、あやしんで見あげると、彼の高い塔の上で簷角に釣つてある風鐸が風のまにまにうつくしい響に鳴り響くのであつた。いくつかの堂いくつかの回廊をのぼつて塔の前まで塔守 とうもり に請うて閉せる戸を開けさせ塔にのぼつた。一層一層螺旋形の階段を、上がればあがるほど天上の響が近づく。身はさながら一歩一歩天に近づく心持がする。自分の身躰が塵寰を離れて雲の上にのぼる心地がする―かの金陵で淸涼山の翠微亭を訪ふべく、嚮導 しるべ の人々と、驢馬を乗り並べて、古き城壁の傍らを過ぎました。高さは五丈より七丈、瓦壁苔蒸して、黝黒 うすくろ いに、這ひまとうた蔦は半色づつ半落ちて、蔓 つる のみ高く低くからまつて居る。それを光の弱い冬の日が照してゐる驢馬には皆首に鐸 すず がつけてある。先だつた人の驢鐸の響。私が乘つてをる驢鐸の響身は古城壁のかたはら。冬の夕べ。懐古の情胸にみちて、鐸の音胸にしみ入るやうに感じましたが、彼の驢鐸のひゞきは猶地上の聲。この寶塔の上の風鐸の響きはさながら天上の聲であります―さて塔の最上層にのぼりますと、耳もとに淸い涼しいけだかい響が聞える。さながら天女が樂器を持つて中空に舞うてでもをるかのやうに思はれる。最上層の眺望は非常によい。目の下には長江の流が横たはり、大江のあなたは平野千里。下流を見ますると、元來鎭江は景勝の地で、金山、銀山、北固山と江に沿うたる小山の間に市街の白堊立ちつゞき、瘞鶴銘のある焦山は江中に特立し、金焦ニ山遙に相望むで雄を競ひ、北固山の上には梁の武帝が天下第一江山としるした甘露寺があつて、金山寺と東西相對しつゝ、鎭江を護るが如く見える。目に此好風景を見おろし、耳に微妙の音樂を聞く。いつまでも〱此まゝ此處に居たく恍然として居ました。
 竹坡詩話に、金山に遊んで、夜、寶公塔に上つた時、天已に昏黒月猶出でず、風鈴鏗然聲あるを聞いて、忽ち杜少陵の詩に『夜深殿突兀風動金琅璫』とあるを思ひ出てたと有ますが、實に天くらき夜など、此風鐸の響を聞いたならば今一しほ身にしみるであらうと思ひました。 
 この風鐸は、塔鈴とも響鈴ともさま〱゛に申しまして詩文に散見してをります。洛陽伽藍記に『高風永夜寶鐸和鳴鏗鏘之音聞及十餘里』周書に『過浮屠三層之上有鳴鐸焉忽聞其音雅合宮調』晋藝術傳に『天靜無風而塔上一鈴獨鳴』張來が『寶鐸韵天風』李遠が『風鐸似調琴』杜牧が『高鐸數聲秋撼玉』蘇舜欽が『韵鐸翻天籟』孔平仲が『冷鐸數番僧舎開』鄭元祐が『閉聽松風語塔鈴』袁中道が『鈴塔影斜陽』など、猶多數ありませう。
 我國では法隆寺の塔の外に此風鐸をきかぬやうに存じます。かの淸いけでかい天上の音樂といひつべき金山寺の塔の風鐸、私は今も其響が耳に殘つてをつて、なつかしく思はれます。 
 なほ南淸の風景について申し述べたい事は種々ありますが、既に燈火もつき初めましたから―まとまりのつかぬ長物語で、諸君の淸聽を瀆しました事を深く謝しまする。(拍手)
                    (帝國文學會大會席上談話の速記)
 
〔蔵書目録注〕
  
 上の文は、明治三十七年五月十五日發行 六月五日再版 の 『帝國文學』 臨時増刊第壹 懸賞小説と講演 に所収のものである。
 なお、読みやすくするため、段落の最初は、ひとコマ空欄とした。
 また、文中の〱は、繰り返しである、
 さらに、●は、オ と 刂 で一文字の漢字?である(写真参照)。



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