蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

與謝野晶子論 「和歌の創作三千餘首」 河井醉茗 (1911.5)

2024年01月17日 | 人物 作家、歌人、画家他

     

和歌の創作三千餘首
                        河井醉茗
 
  ◎前提

 與謝野夫人は、私と同じくちぬの浦わに幼き夢を護 まも られた女性である。舊 ふる き歴史に呪はれたる我が郷土より、雲を破つて現れた新しい光明 ひかり のやうに、藝術の天才を生み出 いだ したことは、私一人の誇りではあるまいと思ふ。
 處女時代よりの夫人を知つてゐる私は、語るべく多くを持つてゐる。併しながら夫人の性格とか、言行とかは今好んで語るの要を見ない、世人が如何に夫人を解釋してゐるか、それも亦深く究むるを要しない。只私は顧みて、一層夫人に敬服する處があると言つて置けば宜 い い。 
 今囘、晶子論を集めるに就いて、私も一わたり夫人の歌集に眼を通した、而 さう して其感想を語るに先 さきだ ち、前提として、夫人の和歌に於ける價値ともいふべきものを擧げて見たいと思つた。幸ひなる哉『春泥集』の序文に於て、上田敏氏が例の闊達明快なる筆致を以て、夫人の和歌に於ける功蹟を述べてある。序文は全篇に渉りて作家必讀の好文字であるが、此處には主として夫人に關する部分を引用する、曰く。

 詩が一世の感情に投合して、不斷はこれに緣遠い人までを動かすには、まづ婦人の手と唇とに觸れられることが必要だ。婦人が詩の花のなかに、其顔を漬けるやうになって、はじめて、ほかの詩も理解されることになる。女詩人は實に詩の宣傳者、弘布者であつて、巧 たくみ に周圍の感情にふさはしい情緒の琴の緒を彈じ、自然に時代の空氣中に浮ぶ新思想を吸収咀嚼して、一の新體を造りだす者だ。これは模倣で無い、靈妙な同化である。精神上に於ける婦人の地位と知識との低い時代はいざ知らず、其他の場合では女詩人の作に、一時代の感情が綜合されて現はれる例は少なくないので、殊に抒情詩の域内では、憗 なまじひ 、淺薄な理性に囚はれないだけ、却つて面白い天眞の流露を見る。與謝野夫人の場合もこれではないか。
 夫人をして羅馬尼亜公爵家の一女たらしめば、或は第二のコンテス、ド、ノアイユたるべく、南米の血を享けた佛蘭西高踏派詩人の女たらしめば、また、ド、レニエ夫人ジエラアル、ド、ウヰユであらう。ヱ゛ルレエヌ、ド、レニエ、ジアムの詩が、是等の女詩人に依つて佛蘭西の社會に弘布せられた如く、明治詩壇が、晶子夫人の絕間無き製作の精力あるが爲に、常に公衆の視聽を惹きつゝあるは、文藝を愛する者の深く感謝する所である。『後の世の人羨 うらや みてわが影に集 あつま るならむ、彼等の命よりもわが灰の溫 あたゝ かければ』と誇る伯爵夫人は『寂しからずや道を説く君』と窘 たしな めたこの東洋女詩人を友とすべく、『菫 すみれ は靑に、風信子 ヒアシンス は艶よく、水仙の香 かをり 、家に滿つ。六月、牡丹、眞珠色の絹に似たり』と佛蘭西の景物を詠じながら心は遠く南海祖先の地に憧れる才媛はつねに『西の京の山』を思ふこの集の作家に頷 うなづ くであらう。總じて詩人に席順をつけるのは村夫子氣質 そんふうしかたぎ の惡癖、まことに無益 むやく の業 わざ であるが、あまりに古 いにしへ に泥 なづ んで今を顧みない人の多くある世の中だから、ひとつ押しきつて言はう。日本歌壇に於ける與謝野夫人は、古の紫式部、淸少納言、赤染衛門、等 ら はものかは、新古今集中の女詩人、かの俊成が女に比して優るとも劣る事が無い。日本女詩人の第一人、後世は必ず晶子夫人を以て明治の光榮の一とするだらう。

  ◎『みだれ髪』時代
  
 明治の時代に於て、藤村氏の『若菜集』が詩壇の曙光であるとすれば、和歌の世界では『みだれ髪』が曙光であらう。最 もつと もそれより以前、新派の和歌は起つてゐた、言ふまでもなく與謝野寛氏が第一の開拓者で『東西南北』が出て、明治の歌壇は震駭した。其寛氏が晶子女史を拾ひ出して、明治の和歌を一新したのも偶然でない。 
 『みだれ髪』の出た當時、毀誉褒貶は交 こもこ も起つた。歌の讀み口の餘りに大膽なるに呆れて大抵の批評家は思ひ切つて之を推奨することを憚 はゞか つた。出版されたのは明治三十四年であるが、爾來約十年の間に、文運は急轉直下の勢ひで進歩し、推移し、ロマンチシズムを云ひ、自然主義を識 し るに至つた文壇は、顧みて『みだれ髪』が如何に新思想の豫匠 よしやう を成したかに注意せねばならぬ。
 靑春の燃ゆるやうな、わか〱しい思想は『みだれ髪』全篇に流れてゐる。詩人は通常の人間よりも、殊に其若い時に於て、烈しく、一こくで、物に支へられるやうなことがない、單純であり、幼稚であつても、若い時に作られた製作品には、眞の詩人らしい血が盛られてある。
 やは肌の熱き血汐に觸れも見で淋しからずや道を説く君
 と喝破した勇氣は、夫人一代を通じての藝術的信念であらう、斯の信念の下に夫人は、婦人としては寧ろ苦痛の多き藝術の國にかしま立 だち したのである。
 春みじかし何に不滅の命ぞと力ある乳 ち を手にさぐらせぬ
 ゆあみして泉を出 い でしわが肌に觸るゝはつらき人の世の衣 きぬ
 その子はたち櫛にながるゝ黑髪のおごりの春の美しきかな
 夫人には初めより、一の堅固な自信があつた、それが歌に現れて、處女の誇りともなり、女性の權威ともなつてゐる。右の歌は其等を能く代表してゐる。
 夫人が想像力の豊かな量分を持つて生れた事は、主觀以外の歌に於て窺 うかゞ ふことが出來る。夫人は二十四五歳の頃まで、多く外に出なかつた。而して專ら吾國の歷代の文學、殊に物語類、歌書類に親 したし んだ、偶 たまた ま郷土以外の地としては、京都の自然を知つたゞけである。而かも夫人の眼には其京都が新しく映つた。
 ほとゝぎす嵯峨へは一里京へは三里水の淸瀧夜の明けやすき
 時代としては平安朝、地としては京都の感化を受けた夫人の歌には、旣に『みだれ髪』時代から盛んにそれが現れてゐる。佛敎の文字は使つてあつても、詩の言葉としてあやなすだけで、思想は何處までも現代に向つて進まうとした努力を、忘れてはならぬ。今以上の傾向を一括して、例證となすべき作四五首を抜き、更に次の集に移らう。
 のろひ歌書きかさねたる反故 ほご 取りて黑き胡蝶をおさへぬるかな
 うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて經くづれきぬ
 まこと人を打たれむものかふりあげし袂このまゝ夜をなに舞はむ 
 何となく君に待たるゝこゝちして出でし花野の夕月夜かな
 ゆあみする泉の底の小百合花二十 はたち の夏をうつくしと見ぬ
 
  ◎『小扇』と『毒草』
  
 『みだれ髪』の次に、傳ふべき歌集は『戀ごろも』であらう。併し『みだれ髪』が出て『戀ごろも』が出るまでの間に、『小扇』と『毒草』の二つの書が出てゐる。
 『小扇』は『みだれ髪』に比べて、技巧は進んでゐるが、凡て技巧に囚はれた形になつてゐて、天眞の思想を少からず傷 きずつ けてゐる。夫人の遲疑し、躊躇し、且最も苦んだ時代の集であらう。一首を抜く。
 眼のかぎり春の雲わく殿の燭およそ百人牡丹に似たり
 『毒草』には良人寛氏の詩歌もあり、婦人の文章もありて、和歌の數は極く少い、少いが其うちに只一首吾等の忘れかぬる歌がある。曰く。  
 ほとゝぎす玉を舞ゐらす瑠璃盤に羅 ら のおん袖の觸れにしものか
  
  ◎『戀衣』と美男

 
  
 鎌倉や御佛 みほとけ なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
 此歌に就いては當時盛んに評論せられたことであるから、今更よけいなことを言ふ必要もないが、只一言初心者の爲に云ふが、此歌は格調とか、才氣とか云ふものゝ上では、晶子集中必ずしも第一位ではないが、思想に於て破天荒なところを認めるのである。多年佛敎思想に養はれて來て、少くもお釋迦樣と云へば、ありがたいもの、敬ふべきものとしてある我邦人の口から、偶然的信仰を離れて、親しげに美男子呼 よば はりをした大膽さに、先づ多くの讀書家は驚倒したのである。
 なほ序 ついで に云ふが、夫人が此思想を抱いてゐたことは旣に『みだれ髪』時代から芽ざしてゐたので、左の二首は確に、此歌を成すべき素地 したぢ であつた。
 御相 みさう いとゞ親 したし みやすきなつかしき若葉木立の中の廬舎那佛(みだれ髪)
 讃ぜむに御名 おんな は知らず大男花に吹かれておはす東大寺(小扇)
 偖 さ て『鎌倉やー』の歌の外に、『戀衣』には何 ど んな歌が多いかと云ふに、才氣の勝つた、華かな女性らしい歌が多い、此集は何となく淸少納言の面影があると思ふ。試 こゝろみ に引けば、
 春曙抄に伊勢を重ねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな
 おもはれて今年要なき舞衣筺 はこ に黄金の釘うたせけり
 母屋 もや の方へ紅 あけ 三丈の鈴の綱君と引くたび衣 きぬ もて參る
 金色の小さき鳥の形して銀杏ちるなり夕日の岡に
 ほとゝぎす治承壽永の御国母 おんこくも 三十にして經よます寺
 花に見ませ王の如くもたゞなかに男 を は女 め をつゝむうるはしき蕋 しべ
  
  ◎『夢の華』と姉妹集
  
 夫人の愛女に、ななせ、やつをの君あるが如く、夫人の集に『夢の華』と『舞姫』とがある。此二つの集は、孰 いづ れを姉孰れを妹とすべきか、迷はれるほど能く肖 に た印象を與へる姉妹集である。『みだれ髪』時代の思想が、更に圓熟して、磨きあげた珠玉を盤上に盛つたやうな、歌の絕頂に達した集である。此二集の作は、殆んど一首々々に、力の限りを投げ入れてあるやうで、何 ど の頁 ページ から、何の歌を抜いて來ても、然 さ う重さに變りはない。
 平安朝の都ー西京に愛着深き夫人の短歌が、西京の自然と人間と時代とを巧みに擒縱 きんしよう することは前にも言つたが、此集と、次の『舞姫』から少しばかり私の好きな作を擧げてみよう。
 御眼覺 みめざ めの鐘は知恩院聖護院出 い でゝ見たまへらむらさきの水
 嵐山名所の橋の初雪に七人 なゝたり わたる舞ごろもかな
 京の衆に初音まゐろと家ごとに鶯飼ひぬ愛宕の郡 こほり
 冬川は千鳥ぞ來啼く三本木べにいうぜんの夜着ほす椽 えん に
 十餘人椽にならびぬ春の月八阪 やさか の塔の廂 ひさし はなると
 殊に『鶯飼ひぬ愛宕の郡』の歌は、非常に好きな歌である。
 藝術家は凡て誇張を知つてゐる、夫人は殊に誇張の技巧に於て、意表に出ることが多い。自然に於ては 
 地は一つ大白蓮の花と見ぬ雪の中より日ののぼる時
感情の誇張を面白く表はしたものには 
 思ひ負けぬやれな事こそおこりたれやれな鞍 くら おけやれ馬まゐれ
のやうな集中稀に見る奇抜な作もある。
 また印象の鮮やかな歌としては、
 夏の水雪 みずゆき の入江の鴨の羽の靑き色して草越え來 きた る
自然を離れ、純なる空想から生れた歌に
 くらやみの底つ岩根をつたひゆく水の音 おと して寢 い ね得ぬ枕
すなほなる女性の歌としては、
 うらめしと再び言はぬ口がため強 し いたまふ夜の春の雨かな
斯 かく の如く引いて來れば、殆ど際限がない。
  
  ◎『舞姫』  
  
 昔の歌人は多くおちついた歌を作つた、動いてゐるものを動いてゐるまゝに表はすと云ふことが出來にくかつた。餘程敏慧な才が無いと其れは出來にくい。夫人は動いてゐる人間、動いてゐる心、動いてゐる場所を其 その まゝに捉へて來て、讀者に或る時間の觀念をさへ與へるものがある。例へば
 山かげを出 で しや五人がむらさきの日傘あけたる船のうへかな
 おん方の妻と名呼びてわれまゐろさくら花ちる春の夜 よ の廊 らう
 春の雨障子のをちに河暮れて灯 ひ に見る君となりにけるかな
 美しき女盜まむ變化 へんげ 者 もの 來 こ よとばかりに騒 さう ぞきにけり
のやうな作である。  
 『舞姫』の中で、多くの人愛誦される作は
 春の雨高野の山に御兒 おんちご の得度の日かや鐘多く鳴る
と云ふ歌であらう。爽快無比とも云ふべきは、
 夏の風山より來 きた り三百の牧の若馬耳吹かれけり
であらう。若き日の幸を極端に誇張したものには
 鷗 かもめ 居 ゐ るわだつみ見れば抱かれて飛ぶ日をおもふさいはひ人 びと よ  
がある。
 要するに、與謝野夫人の歌を味はうと思ふものは、『夢の華』と『舞姫』の二歌集は、必ず見免 みのが すことができないのである。
 
  ◎『常夏 とこなつ 』の新生面
 
 『常夏』には『舞姫』以前の集に見なかつた言葉が表はれてきた、それは『涙』とか、『さびしさ』とか、『おとろへ』とか、『よはひ』とか、『かなしさ』とか云ふやうな文字である。是等の文字の上から推想しても分る通り、靑春の燃ゆるやうな時代に別れて行く哀愁とも云ふべきものが此集には處々 ところゞ に歌はれてある。わが生の態 さま を僞 いつは らぬ作者としては然 さ もあるべきことで、眼を射るやうな派手やかな歌がなくなつた代 かは り、しんみりとした生活の味 あぢは ひが表はれてきたのだ。 
 古琴 ふること の絲を煮る香に面 おも そむけ泣きぬ三十路に近きよはひを
 古女君 ふるをんなきみ とその世の相聞 あひぎゝ の歌もて足れる天地 あまつち に居ぬ
 あざまずや小さき二人の母とよぶ本意 ほい 遂げ人 びと のおとろへやうを
 花鎭祭 はなしづめまつり につゞき夏は來 き ぬ戀鎭めよとみそぎしてまし 
 とある人思 おぼ しきざすと淋しくも心よく讀む用なき心
 ふと思ふ十歳 とゝせ の昔海見れば足の蹌踉 よろめ く少女 をとめ なりし日
 斯 こ う云ふ歌が集中の大部を占めてゐるのではないが集中に散見するだけで、矢張、艶なうた、華やかうた、印象の明瞭なうたなどは澤山あつた。夫人の出發して來た詩歌の一路は、まぎれもなく嚴存してゐる。
 白き花紅 はなあけ に交 まじ りぬ逢ひそめてしら寝 ね しにける日のかずばかり
 法華寺の黑き千手の御像 おんざう の御手 みて 勧進す奈良の大路になど他 た の人の作には決して見られない。
  
  ◎『佐保姫』と人妻
  
 『夢の華』と『戀衣』と同じ型を示して居るやうに『常夏』と『佐保姫』にも、同じ空氣が通ふてゐる、なほ一層此方が、時間 とき も後であるだけ、人妻らしい想いひが表はれてあつて、時としては
 心まづおとろへにけむ形まづおとろへにけむ知らねど悲し
 と云ふやうな心持も起る、然 さ うかと思ふと節操といふことが
 天地 あまつち に一人 ひとり を戀ふと云ふよりもよろしきことを我は知らなく
と自明されて來る、或は
 白刄 しらは もて我にせまりしけはしさの消えゆく人をあはれと思ふ
と自他に顧みて、ものゝあはれを時間の上に見出して來る。
 凡て人間の衰へるといふことは、知らず識らずの間に來るもので、爾 しか く明かに意識し得 う るものは少い、それを叉表白し得る力を持つてゐるといふことが、實際に於て夫人の衰へてゐないことを證明してゐる。本集にも約五百種からの歌があるから、其盛んなことは勿論である。私の好きな歌をニ三首引いて見よう。
 少女子 をとめご は魚 うお の族 やから かとらへむとすればさまよく鰭 ひれ ふりて逃ぐ
 來よといひし林なれどもわが歩む路の無ければ葛の葉を踏む
 水無月のあつき日中の大寺 おはてら の屋根より落ちぬ土の塊 かたまり
 山吹の花の一つをからたちの垣根の上に置きてこしかな 
  
  ◎新しき『春泥集』 
  
 以上、八冊を數へた最後に、今年出版された最も新しい夫人の歌集『春泥集』に就いて一言しよう。
 『みだれ髪』以後の四五の集と、此集とを比べて見ると、流石に十年の間の面 おも がはりは爭はれぬ。全體の情調が、前には空に舞ふ花のやうであつたのが、今は野に置く露 つゆ のやうに、しつとりと、おちついて來た、友染の着物が、縞の着物に代つたほどの相違がある。娘の時代、妻の時代、母の時代と遷 うつ つて行くのが見えるやうであつて、刺戟には驚かないが、歌つて見ると云ふ態度は何處までも持續することを證 あかし してゐる。
 感興に任せて歌ふと云ふより、思索して歌ふと云ふ傾向もある。
 わが胸はうつろなれどもその中にいとこゝろよき水のながるゝ
 ある時にわれの盗みし心よと公 おほやけ ざまに行きて返さむ
 吾家 わがいへ のこの寂しかる爭ひよ君を君打つ我を我打つ
 印象のきつぱりした歌の少くなつたと同時に、分別ざかりに近い年頃の人が、ふとした事に感じて我身の上でもないのに涙を滾 こぼ すと云ふやうな、むづかしく云へば現實界の底の暗流に自己の影を見出して、やるせない感じをするやうな、然 さ うした作品が多くなつてきたやうに思ふ。
 御心 みこゝろ に離れぬ人の物語われ聞くまでになりにける哉
 おん心うらより覗くことばかりして生 いき がひのいかであるべき
 わが賴む男の心うごくより寂しきはなし目には見えねど
 おとろへをうれふるきはにあらねども歌のあはれになりにけるかな
 後 うしろ より危 あやふ しといふ老 おい の我走らむとするいと若きわれ
 愚 おろか かなる心が建てし樓臺のくづるゝ音も心地よきかな
 わが背子に四十路近づくあはれにも怒らぬ人となりたまふかな
 注 つ ぎたれば油壺なる油盡 あぶらつ くもの味氣なき秋の夜半哉
 此處には多く主觀の歌を引いたから、なほ其傾向が著しく見えるかも知れないが、『歌のあはれになりにけるかな』は、實に能く、一語を以て『春泥集』を語つてゐる。
 而 し かも日本の短歌として、歌のあはれに新しい生命を與ふるものは、夫人を置いて當今の歌人の誰に求めやう、私は徹頭徹尾、夫人は歌に生れた女性であるといふことを信じたい。

  ◎終りに一言す
  
 約三千首に餘 あま れる歌を、以上、僅かな文字を以て概評し去つたのは、おほけなくも亦無謀のことであつた。けれども與謝野夫人の實力を、漸く今日に至つて認めた世の中であるから、此 かく の如き大づかみな説も、或る人には何等かの暗示を與へるかも知れぬ。夫人の歌を詳しく説いて、之が評論を試みるのは、文壇の大事業であると同時に、又何人 なんびと かに依りて是非とも企てられなければならぬ事業である。
 夫人の歌は、單に歌として研究することも一つ、思想として何程の感化を及ぼしてゐるかを測ることも一つ、なほ又、其等を透して女性といふものを研究することも一つである、夫人の事業は女性の事業としても代表的である、今後現れて來るかは知らぬが、少くも明治の代 よ に於ては其代表者であらう。
 終に臨んで、夫人の集より縱 ほしい まゝに、其製作を引用したる罪を夫人に謝す。
  
 〔蔵書目録注〕
  
  上の文と図版は、明治四十四年五月一日発行の雑誌 『女史文壇』 記念第百號 第七年 第六號 女史文壇社 掲載の下の 與謝野晶子論 六つの一つにあるもの。但し、カラー写真の鎌倉大仏は最近のもの。

 與謝野晶子
  婦人の作物に現れたる色彩 和田英作
  短歌の爲に生れた人    森田草平
  強烈に我が生を愛す    窪田空穂
  尋常一般の女流作家に非ず 藤嶋武二
  心持は貴族式、實際は謹慎 つつましやか な夫人の生活 馬場孤蝶
  和歌の創作三千餘首    河井醉茗
 
 なお、文中の上田敏氏の引用部分は、判りやすくするために、靑文字とした。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。