これらの墓は、小さく素朴なものではあるが一世紀半もの間 、その土地で守られてきたのである。
それらの存在によって、過去の歴史の事実が後世にも伝えられているのだ。
「脱走派」の墓は、この他にも市内にはまだ残されている。
中には、傷付いた身を民家で匿われながらも、追っ手を予測して自害した者もいたようだ。
彼は、後になって当家により厚く葬られたという。
残された資料によると、いくつかの例外を除いては「脱走派」の墓は無縁仏となっているようだ。
さもありなん、当時の混沌とした状況の中でそれ以後も含めて遺族が墓を訪れることなどほとんどなかったに違いない。
それは、官軍の方とて同様である。
彼ら若者たちは、江戸から明治への時代の荒波に呑まれて露と消えた儚い命だったのだ。
今まで私は、敢えて「脱走派」としてきたが、記録によると「脱走様」と言われてきた歴史もあるようだ。
これを、土地の人は「ダッソサマ」とも呼んでおり、その言い伝えが今日でも残っているらしい。
私は未だ全てを調査したわけではないが、その都度述べてきたようにこれらの墓石は消滅の危機にある。
現在は寺のご好意によって残されてはいるものの、さらに風化対策等の保護措置を講じなければ貴重な文化遺産は消えてなくなる。
市当局に強く訴えたい。
(つづく)
-S.S-