青年期、本郷で宗教活動をしていた詩人で童話作家だった宮沢賢治の死後に、二つの作品が発見されました・・・。
一つは、長編詩「アメニモマケズ」、そしてもう一つは短編童話「虔十公園林」です。
この「虔十公園林」という話は、虔十という知的障害を持った少年が、ある年「お母、おらさ杉苗七百本、買ってけろ」と言うことから始まります・・・。
そして家の後ろの野原に植えますが、そこは苗が育たないところだったので八年経っても九尺しか伸びませんでした・・・。
しかし下枝をはらうと、ある日、学校帰りの子どもたちが五十人も一列になって歩調を合わせて行進していました・・・。
それからは、毎日毎日子どもらが行進しました・・・。
ある日、隣家の平二という男が「おらの畑が日陰になるから切れ」と言いましたが、虔十は「きらない」といいきります。
そして「どしりどしり」となぐられます・・・。
その秋、虔十と平二がチブスで亡くなり,その後、その村には鉄道や工場ができますが、虔十の林だけは残ります・・・。
ある日、その村からアメリカの大学教授になっていた若い博士が来て講演をした後に、虔十の林を見て、子どものころに遊んだことを思い出し、「たれが賢く、たれが賢くないかはわかりません。ただどこまでも十力の作用はふしぎです。どうでしょう・・・、ここは虔十公園林と名をつけて、いつまでもこのとおり保存するようにしては。」と提案します・・・
そして多くの卒業生たちの手で碑が建てられます・・・。
この童話は、その後いくつかの絵本になって、今の子どもたちに紹介されています・・・。
(挿絵は、にっけん教育出版刊「虔十公園林」、高田勲画より)
-中村 光夫-
一つは、長編詩「アメニモマケズ」、そしてもう一つは短編童話「虔十公園林」です。
この「虔十公園林」という話は、虔十という知的障害を持った少年が、ある年「お母、おらさ杉苗七百本、買ってけろ」と言うことから始まります・・・。
そして家の後ろの野原に植えますが、そこは苗が育たないところだったので八年経っても九尺しか伸びませんでした・・・。
しかし下枝をはらうと、ある日、学校帰りの子どもたちが五十人も一列になって歩調を合わせて行進していました・・・。
それからは、毎日毎日子どもらが行進しました・・・。
ある日、隣家の平二という男が「おらの畑が日陰になるから切れ」と言いましたが、虔十は「きらない」といいきります。
そして「どしりどしり」となぐられます・・・。
その秋、虔十と平二がチブスで亡くなり,その後、その村には鉄道や工場ができますが、虔十の林だけは残ります・・・。
ある日、その村からアメリカの大学教授になっていた若い博士が来て講演をした後に、虔十の林を見て、子どものころに遊んだことを思い出し、「たれが賢く、たれが賢くないかはわかりません。ただどこまでも十力の作用はふしぎです。どうでしょう・・・、ここは虔十公園林と名をつけて、いつまでもこのとおり保存するようにしては。」と提案します・・・
そして多くの卒業生たちの手で碑が建てられます・・・。
この童話は、その後いくつかの絵本になって、今の子どもたちに紹介されています・・・。
(挿絵は、にっけん教育出版刊「虔十公園林」、高田勲画より)
-中村 光夫-