私たちの学校は1935(昭和10)年6月8日に創立し、東京府東京市向島梅若尋常小学校と称しました。
そして、開校は翌年の1月8日、1322名の児童が集まり24学級で始まりました。
何と1クラス児童が55人という計算になります。
やがて、「太平洋戦争」の時代に突入していくわけですが、1941(昭和16)年には向島梅若国民学校と校名変更しました。
副読本の構成は明治の頃から始まり、学校ができるまで . . . 本文を読む
このたび、雛の節句に合わせて「江戸の人形展」を行います。
早春の鎌倉巡りを兼ねて是非お出かけください・・・。
◆と き 3月1日~31日
◆ところ 中村教材資料文庫
(鎌倉市浄明寺3-12-30 TEL 0467-23-9181)
. . . 本文を読む
好きな遊びが次々に変わる
というか 新しいものに関心を示すようになる
また時には 以前やっていたものに再び取り組むこともある
まっ 彼にしてみれば 今やりたいことをやっているに過ぎないのかもしれないが…
いわゆるマイブームというやつかもしれない
彼のマイブームは今 外ではドッジボール 内ではベーゴマだ
つい数ヶ月前までは友だちどうし持ち回りで家庭を訪問し合う程
ベイブレードに凝っていたのだが . . . 本文を読む
絵のことで続けて紹介します。
社会科で欠かせないものの一つに地図がありますが、記号化されたり色分けされた地図に入る前に絵地図の活用は有効です。
私たちの副読本にも絵地図を採用しました。
因みに教科書と一緒に地図帳が配布されるのは、小学校4年生(4〜6年まで使用)になってからです。
余談ですが、この当時はまだ社会科が1年生から実施されていましたから、3年生になって初めて社会科に接する今と比べて子 . . . 本文を読む
鎌倉の各地でツバキが咲き始めました・・・。
長谷子ども会館の前を通ると、会館の広場にもヤブツバキが咲いていました。
そしての広場の滑り台で、近所の保育園の子どもたちが楽しそうに滑っていました・・・。
-M.N- . . . 本文を読む
私たちは社会科副読本を想定して編集していたのですが、同時に卒業生を中心とする地域の人々にとっては「50周年記念誌」でもあったのです。
これは色々な意味で重い課題を持つものでした。
たてまえは、3年生が学区周辺を中心にした地域の移り変わりを学習するのための副読本ですが、教科書ではないし指導要領にとらわれる必要はありません。
内容的には3年生というより全学年に適応したものに仕上げて行きました。
. . . 本文を読む
この絵は「キンダーブック6/11(昭和27年11月)号」の付録の作品で、楽しそうにソリで遊ぶ子どもたちが描かれています。
今、北国では連日の大雪が報じられていますが、子どもたちもこんなふうにソリ遊びを楽しんでいることでしょう・・・。
-M.N- . . . 本文を読む
朝から横浜の「神奈川朝鮮中高級学校」に行った。
そして「交流ツアー」に参加し、講演会・文化発表・グループトークと体験したが、200 人ほどの参加者で充実した集まりだった。
また子どもたちのまじめさが印象に残った・・・。
-M.N-
. . . 本文を読む
彼の集団生活(保育・学校)歴は長く 生後11ヶ月目から始まった
保育園の迎えは妻がしていたが たまに私が行くと
園長が 「大変失礼ではありますが…」と言って
娘の職場に電話して私の本人確認をする
熱が出て小児科に連れて行くこともあった
予防接種で注射をすることもあったが
彼は決して泣いたり暴れたりしなかった
怖くなかったのではなく 緊張して固まっちゃうからだ
乳母車で散歩に出ると 「カワイ . . . 本文を読む
この絵は「コドモノヒカリ・1/2(昭和12年2月号)」の表紙です。
楽しそうにソリで遊ぶ子どもが生き生きと描かれています。
ちなみに「コドモノヒカリ」は「コドモノクニ」から始まった大型絵雑誌の最後を飾った子ども雑誌でしたが、昭和19年に「コドモノクニ」や「キンダーブック改題ミクニノコドモ」などと統合され「日本ノコドモ」となりました。
戦後は「日本のこども」となり、昭和24年に「チャ . . . 本文を読む
「その時代の地域に生きた人々に話を聞く」ことに重点をおく編集を心がけました。
太平洋戦争の体験者はもちろんのこと、明治の時代に尋常高等小学校に入学した方や関東大震災を経験した方も取材することができました。
子どもたちの親やPTAのOBを通じて様々な情報を仕入れることができたからです。
先の戦災でも多くの民家が焼かれずに残る学区は、細かい道が入り組んだ複雑な土地でしたが、まだ多くの古老が住んでいま . . . 本文を読む
副読本づくりは周年行事の1年前から始まりました。
全教員(管理職を含め16名)が2つのグループに分かれてスタートしました。
一つは資料の収集及び整理するグループ、もう一つは執筆内容の検討及びプロット作成グループでした。
二つのグループで連携を取りながら進めました。
編集委員の責任者だった私は、後者のグループでした。
1年目はどちらのグループも呑気におしゃべりしながらの作業でした。
学校独自に . . . 本文を読む
1985年、私が勤務していた学校が創立50周年を迎えたときのことです。
当時、地域の小学校の50周年というのは、実に大きな行事としてとらえられていました。
最も熱心だったのは、PTAや同窓会を始めとした学校をとりまく団体や地域の大人たちでした。
実質的に周年に関わる作業をする現役の教員や、最も中心であるべき現に在校する子どもたちはともすると蚊帳の外へ置かれるような雰囲気が漂っていました。
「ど . . . 本文を読む