今回は「書き」です。
寺子屋が主体だった当事の「文章指導」は、いわゆる「手紙」を使って、「書き」の指導をしていたとのことです。
自分の思いや考え、見たこと、聞いたことを「文章」で「書いて」人に伝えるのに、「手紙」ほど優れた交流手段はないと考えます。
今、ふりかえると、すでに交流された「手紙」を使って指導を行っていたのは、大変「合理的」だったと考えます。
それを「まねる」(「なぞる」つまり、視写する)ことは立派な「学習」といえると思います。)
これが、「家庭教育のみ」でできるかというと、ある程度のところまでは可能と考えます。
ただし、「字体」はどうしても各家庭で差が出てしまうと思うのです。
(巧拙の問題ではなく、いわゆる字の「癖」みたいなところで。)
私も「字体」そのものはある程度の「統一」は必要と考えます。
(康煕字典が編纂された経緯を学んで、私もそう思いました。)
そうなると、「学校」で、みなで「手本」を見ながら「字を書いて、文章を作る」ことは、大きな意義があると考えます。
でも、「手本」が行き過ぎたのが、学校でのいわゆる「とめ、はね、はらい」などで採点を強化した指導になっていると思います。
(文科省もそこまでは厳しくしないよう、都道府県教委に通知しているはずなのですが、現場レベルでは降りてきませんよね・・・。)
結局のところ、「字体」そのものが、ある程度の「統一」がなされていれば、家庭に任せてよいと考えます。
その「ある程度」を学校が点検すればよいというのが「書き」に関する、私の意見です。
(よって、小学校において「連絡帳を書く」という活動は、児童、教師、保護者が3者で書いたものを確かめることができる立派な「学習」であり、このことで、「書く」 という指導は、十分に果たしていると思うのです。国語における「書く」指導は、このことのためにあるといえるのではないでしょうか。)
-K.O-