郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

映画『金子文子と朴烈』(2017年韓国、監督イ・ジュンイク、渋谷・イメージフォーラムで上映中)を見た。

2019年03月15日 | 日記




金子文子の存在感が強烈。
権力の手先、取り調べの判事、監獄の官吏たちを怖れず、自由奔放に自分であり続け、思い通りに行動する文子を韓国の女優、チェ・ヒソが演じ、まばゆいほど魅惑的、圧倒された。


関東大震災の2日後、1923年9月3日朴烈と金子文子は検挙され、大逆事件で起訴される。
しかし朴烈と金子文子たちの「大逆事件」、皇太子爆弾投擲計画は、菅野すが子たちの計画よりもっと煙のような夢物語、そもそも爆弾がない。

朝鮮人の目からは、天皇制のからくりがよく見える。
天皇は人民支配の道具に過ぎないと彼らは喝破し、天皇制のもと朝鮮は日本の植民地にされ、農民は土地を収奪され、生きる術を失い、日本に流れて最底辺の労働を担わされると糾弾する。
彼らは、皇太子を爆破したいとは夢想してけれど、具体的計画なんて全くなかった。

なぜ、権力は朴烈・金子文子の「大逆事件」をでっちあげなければならなかったのか。

9月1日関東大震災で、東京は9月3日の朝まで燃え続けた。
東京の死者・行方不明者は約7万人、9割は焼死だった。
東京の住民250万人の6割が家を失った。
二重橋前広場、上野公園、日比谷公園などに何万、何十万と人々が野宿する。

不安に怯える人たちに「朝鮮人が井戸に毒を投げた」「朝鮮人が集団で襲ってくる」という流言飛語が飛び交った。
警察、在郷軍人たちが率先して自警団を作り、道路に検問所を設け日本の民衆が朝鮮人を虐殺していった。

このデマは自然発生的に生まれたのか? いいや、映画は首謀者を水野練太郎内務大臣に絞り描いている。
水野錬太郎は、1918年7月米騒動の時の内務大臣であり、翌1919年3.11朝鮮独立万歳運動時には朝鮮総督府の政務総監、立ち上がった民衆の力を目の当たりにしている。
水野内務大臣は、3日に東京、神奈川に戒厳令を敷く。
民衆の動揺恐怖不安、政府へ突きつけてくる要求などを抑えるために、ありもしないウソを流し、憎むべき敵を作り朝鮮人虐殺をさせ、人心を操縦する。

しかし、想定外以上の虐殺に、内外の批判を恐れ、カムフラージュするために「不逞朝鮮人の皇太子爆死計画」、「大逆事件」をでっちあげる。
閣議で司法大臣、陸軍大臣、元老たちの批判や反対を恫喝し巧みに言いくるめ、新聞を統制し、強引に進めていく水野内務大臣の姿は「決断する政治家」の怖さ、迫力がある。

日本は、関東大震災時の起こった朝鮮人虐殺の真相、原因、被害の実態をいまだきちんと究明していない、民衆は踊らされた、踊らされた責任を取らなくてはならないけれど、踊らせた黒幕を明らかにし、責任を取らせないと、民衆は目覚めることができないと思う。


朴烈はこの裁判を朝鮮独立運動の闘争ととらえ、第1回の公判では文子とともに正装の朝鮮服を着て、朝鮮民族の代表だというパフォーマンスをする。
朴烈も金子文子も滔々と持論を演説し、傍聴席には仲間たちが陣取り拍手喝采…当時の裁判所でこんなことできたかなと思うが見ていて楽しい。

1926年3月、死刑判決。
初めから決まっていた死刑は、天皇の恩赦で無期懲役減刑。
二人とも恩赦を拒否するが、それぞれ千葉刑務所、宇都宮刑務所に送られる。

文子は自死する。
本当に自殺だったのか真相は闇の中。
ただ、23歳の若く激しい文子には、無期懲役が耐えられなかったのかもしれない…朴烈は19年間刑務所で生き抜き1945年10月出所。
朴烈は大日本帝国が滅びることを確信し、獄中で闘い続けたのだろう。

ともかく、恋愛映画としても、二人の愛のカタチは、今なお鮮烈です。
日本の若い人に是非おすすめです。


-Ka.M-

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