成功していたらどうなったのかがわかるような、せめてそんな失敗をしてくれ。
F**、**Fについては、拙論
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/sizen-sentaku.pdf
の6節,7節を参照してください。
●〈ゾンビ仮説〉が心の哲学を不安に陥れるのに、
〈霊体仮説〉はそうでもないのはなぜだろうか?
…………………………………………………………………………
F**は、私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳として具体化したかどうかが調べられ、「脳として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
**Fは反対に、私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識として具体化したかどうかが調べられ、「意識として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
霊体仮説……「私並みの意識が、脳状態に匹敵する物理系のないところにも生じうる」
ゾンビ仮説……「私並みの脳状態が、意識を伴わずして生じうる」
A「私は具体化している」
B「私は脳である」
C「私は意識である」
とする。A、B、Cは概念的命題であり、
AとBの両立の蓋然性は、具体化した脳の存在密度に依存する。
AとCの両立の蓋然性は、具体化した意識の存在密度に依存する。
さて、いま、A&B&Cが観察データとして得られた。二つの観察例F**、**Fという観察例として解釈する。
前者では、「私」を「たまたま脳に宿った意識」と解し、「では他の意識も脳に宿るのか?」と問う。後者では、私を「たまたま意識を持った脳」と解し、「では他の脳も意識を宿すか?」と問う。
F** 私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳として具体化したかどうかが調べられ、「脳として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
**F 私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識として具体化したかどうかが調べられ、「意識として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
■ F**のもとで
対立仮説は、
K「脳と意識は独立である」
L「脳は意識の必要条件である」
Lのもとで A&C→A&B P(C→B|A)=1
共通する補助前提として
P(A)=a P(B)=b P(C)=1
P(A&B|K)≒0 脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実による。
P(A&B|L)=P(A)=a
∵ P(A|L)≧P(A&B|L)≧P(A&C|L)
(LとA,B,Cとは独立)
P(A&B&C|K)≒0 P(A&B&C|L)=a ……①
ここから、P(L|A&B&C)/P(K|A&B&C)
=P(L)/P(K)× P(A&B&C|L)/(A&B&C|K)
①をあてはめると
P(L|A&B&C)/P(K|A&B&C)≫P(L)/P(K)
ただし、a≫0の場合。
よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データA&B&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となる。
~Lは、脳なき意識の存在を主張する「霊体仮説」である。これが上の議論で反証されたことになる。
真空に意識が灯ることもある、といった極端な霊体の存在を主張するのが霊体仮説の一種であるのはもちろんのこと、健康な覚醒した脳のレベルの物理的機能が働いていないところにも意識が出現しうる、とするのが霊体仮説である。後者の弱い意味での霊体仮説すら、真である確率がきわめて低い。そのことが、「私は脳を持つ」という観察データにより確証できたことになる。
■ **Fのもとで
対立仮説は、
K「脳と意識は独立である」
J「意識は脳の必要条件である」
Jのもとで A&B→A&C P(B→C|A)=1
共通する補助前提として
P(A)=a P(B)=1 P(C)=c
P(A&C|K)=acについては、意識の存在密度は観測できないため、未知。
P(A&C|J)=P(A)=a
∵ P(A|L)≧P(A&C|J)≧P(A&B|J)
(JとA,B,Cとは独立)
P(A&B&C|K)=ac P(A&B&C|J)=a
……②
ここから、P(J|A&B&C)/P(K|A&B&C)
=P(J)/P(K)× P(A&B&C|J)/(A&B&C|K)
②をあてはめると
P(J|A&B&C)/P(K|A&B&C)=1/c×P(J)/P(K)
ところで、改めて考えてみると観測選択効果により、
P(C|A)=1
つまり、P(A&C)=P(A)=a
AとCが独立なら、P(A&C)=P(A)P(C)=ac=a
c=1
よって、事前確率から事後確率への変化はない。データA&B&Cにより、KとJの信頼度の比は変わらない。
~Jは、意識なき脳の存在を主張する「ゾンビ仮説」である。これが上の仮説検定で生き残ったことになる。
脳が物理的機能を果たしていない場合に意識がないことは当然として(これはLで主張されている)、脳が私とそっくりの物理的機能を果たしている脳を持つ人に意識がないことがありうるとするのがゾンビ仮説である。「私は意識を持つ」ことを「観察」したからといって、ゾンビ仮説は、唯物論や他の二元論に比べて、反証されない。せいぜいこのことが、「私は意識を持つ」という観察データ(実はアプリオリな事実)により言えることである。
…………………………………………………………………………
(この部分に関する質疑応答は、掲示板
http://8044.teacup.com/miurat/bbs
の、3月 6日(月)00時45分58秒以降をご覧ください。)
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/sizen-sentaku.pdf
の6節,7節を参照してください。
●〈ゾンビ仮説〉が心の哲学を不安に陥れるのに、
〈霊体仮説〉はそうでもないのはなぜだろうか?
…………………………………………………………………………
F**は、私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳として具体化したかどうかが調べられ、「脳として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
**Fは反対に、私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識として具体化したかどうかが調べられ、「意識として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
霊体仮説……「私並みの意識が、脳状態に匹敵する物理系のないところにも生じうる」
ゾンビ仮説……「私並みの脳状態が、意識を伴わずして生じうる」
A「私は具体化している」
B「私は脳である」
C「私は意識である」
とする。A、B、Cは概念的命題であり、
AとBの両立の蓋然性は、具体化した脳の存在密度に依存する。
AとCの両立の蓋然性は、具体化した意識の存在密度に依存する。
さて、いま、A&B&Cが観察データとして得られた。二つの観察例F**、**Fという観察例として解釈する。
前者では、「私」を「たまたま脳に宿った意識」と解し、「では他の意識も脳に宿るのか?」と問う。後者では、私を「たまたま意識を持った脳」と解し、「では他の脳も意識を宿すか?」と問う。
F** 私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳として具体化したかどうかが調べられ、「脳として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
**F 私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識として具体化したかどうかが調べられ、「意識として具体化した」というデータが得られた(A&B&C)、という場合。
■ F**のもとで
対立仮説は、
K「脳と意識は独立である」
L「脳は意識の必要条件である」
Lのもとで A&C→A&B P(C→B|A)=1
共通する補助前提として
P(A)=a P(B)=b P(C)=1
P(A&B|K)≒0 脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実による。
P(A&B|L)=P(A)=a
∵ P(A|L)≧P(A&B|L)≧P(A&C|L)
(LとA,B,Cとは独立)
P(A&B&C|K)≒0 P(A&B&C|L)=a ……①
ここから、P(L|A&B&C)/P(K|A&B&C)
=P(L)/P(K)× P(A&B&C|L)/(A&B&C|K)
①をあてはめると
P(L|A&B&C)/P(K|A&B&C)≫P(L)/P(K)
ただし、a≫0の場合。
よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データA&B&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となる。
~Lは、脳なき意識の存在を主張する「霊体仮説」である。これが上の議論で反証されたことになる。
真空に意識が灯ることもある、といった極端な霊体の存在を主張するのが霊体仮説の一種であるのはもちろんのこと、健康な覚醒した脳のレベルの物理的機能が働いていないところにも意識が出現しうる、とするのが霊体仮説である。後者の弱い意味での霊体仮説すら、真である確率がきわめて低い。そのことが、「私は脳を持つ」という観察データにより確証できたことになる。
■ **Fのもとで
対立仮説は、
K「脳と意識は独立である」
J「意識は脳の必要条件である」
Jのもとで A&B→A&C P(B→C|A)=1
共通する補助前提として
P(A)=a P(B)=1 P(C)=c
P(A&C|K)=acについては、意識の存在密度は観測できないため、未知。
P(A&C|J)=P(A)=a
∵ P(A|L)≧P(A&C|J)≧P(A&B|J)
(JとA,B,Cとは独立)
P(A&B&C|K)=ac P(A&B&C|J)=a
……②
ここから、P(J|A&B&C)/P(K|A&B&C)
=P(J)/P(K)× P(A&B&C|J)/(A&B&C|K)
②をあてはめると
P(J|A&B&C)/P(K|A&B&C)=1/c×P(J)/P(K)
ところで、改めて考えてみると観測選択効果により、
P(C|A)=1
つまり、P(A&C)=P(A)=a
AとCが独立なら、P(A&C)=P(A)P(C)=ac=a
c=1
よって、事前確率から事後確率への変化はない。データA&B&Cにより、KとJの信頼度の比は変わらない。
~Jは、意識なき脳の存在を主張する「ゾンビ仮説」である。これが上の仮説検定で生き残ったことになる。
脳が物理的機能を果たしていない場合に意識がないことは当然として(これはLで主張されている)、脳が私とそっくりの物理的機能を果たしている脳を持つ人に意識がないことがありうるとするのがゾンビ仮説である。「私は意識を持つ」ことを「観察」したからといって、ゾンビ仮説は、唯物論や他の二元論に比べて、反証されない。せいぜいこのことが、「私は意識を持つ」という観察データ(実はアプリオリな事実)により言えることである。
…………………………………………………………………………
(この部分に関する質疑応答は、掲示板
http://8044.teacup.com/miurat/bbs
の、3月 6日(月)00時45分58秒以降をご覧ください。)
■スケルトン・キー■ お屋敷モノとしてはなかなか緊張感あり、ただ黒魔術特有のアイテムがなんだかんだ煩いのと、ホラーで始まっときながら普通のヒロインアクション寄りになっちゃってるのがどうもな。ラストで一挙に「あ、循環モノだったか……」と判明するあたりはそりゃニクイわな、傑作風情だわな。縛り首の因縁話ンとこのあわわわわ……って痙攣場面も「そういうことだったか……」的感覚で頷かせてくれたし。この繋がり感って捨てがたいものがあるよな。そりゃ因縁場面はもっとおどろおどろしさが欲しいところで、全編ホラーとしちゃナマヌル系だけど、雰囲気は十分だったんじゃないでしょうか。ミステリータッチになってるんで俺てっきり、「えーとこれ、被害者装ってる爺さんのほうが実は封じ込められた悪魔かなんかで、勘違いして爺さんを救けたヒロインがせっかく悪魔封じを成し遂げていた婆さんの努力を無にしてしまうんだろうな、きっと」ってパターン予想してたんだけど、違った。で、結果としてわかんなかったとこいっぱいあるわけで、そもそも入れ替わった後の肉体を活かしておかなきゃならん理由って、何かあるんでしたか? むろんそれだからこそヘルパーとして住み込みができたわけだけどね、そんだけのためか? ラスト、救急車で二人して運ばれてったけど、なんか含みがあるんですかね。ま、ともあれ最初にして最大の被害者だった二人が高笑い、しかもひそかに高笑い、ッて凝った構造はなかなか後味いいんだか悪いんだか、変な映画でした。どっちかつうといい意味で。
■ノロイ■ 正直けっこう引き込まれまして。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の二番煎じとしては『チュパカブラ・プロジェクト』(オバカ系3参照)よりずっとずっと良いですね。あっちがオバカにもなり損ねていたのに対し、こっちはオバカにならずに済んだ結構真面目系で通せてましたっけ。くだらんドラマ仕立てのJホラー百編観るよりこういうほうがずっといいですわ。ドキュメンタリー仕様ってよりコラージュ仕立てが私ゃ気に入ったのかな。バラエティ番組に超能力テストに近所取材にと目まぐるしく変わるテンポが心地よいですわ。ただなにかね、全体もうちょい演技うまくできんもんかね、いやさ、アポ無し取材だったりするんだから、普通に言い間違えたり、トチったりしていいじゃん。滑らかに行き過ぎだわ。とくにメインの作家のレスがいちいちうるさいね。表情とか他の面じゃうまくやりおおせてる人なのに惜しいよ。あとラストがねえ。霊能者が乱入して子どもぶん殴るとこから奥さんが火ぃつけるとこあたりね。執拗にカメラが光景を捉えつづけてるけど、チョイ無理でしょう。ハイライトだってんで省略には忍びなかったのかもしんないけど、もっと乱れるよねえ。それまでんとこでは画像の乱れを結構うまくフィーチャーしてリアル感出してたんだから、いかに実録作家が映像確保に執心してたこと強調したいからって、現場の混乱がそれにまさるようでないと台無しよ。でもまあ、うまくできてたんじゃないかな。二度目の村訪問でイヌがいっせいに消えてるあたり怖かったしさ、ハトなんかほんとに殺してるっぽいし、胎児が群がる心霊映像は森から二人とも生還してきちゃうのもったいないくらいだったし。住宅街に普通に住んでるデンパどもキチガイどもがああいう具合に互いに辻褄合ってたらおっかないよね、ッての全般伝わってきてるし。ま~定番の土俗性っちゅうか、ある意味ありきたりな鬼祭りの雰囲気なんか付け足し程度にしか見えないトータルの出来映えでした。モノスゴーク良いわけじゃないけど、確実に小傑作の域。
■ノロイ■ 正直けっこう引き込まれまして。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の二番煎じとしては『チュパカブラ・プロジェクト』(オバカ系3参照)よりずっとずっと良いですね。あっちがオバカにもなり損ねていたのに対し、こっちはオバカにならずに済んだ結構真面目系で通せてましたっけ。くだらんドラマ仕立てのJホラー百編観るよりこういうほうがずっといいですわ。ドキュメンタリー仕様ってよりコラージュ仕立てが私ゃ気に入ったのかな。バラエティ番組に超能力テストに近所取材にと目まぐるしく変わるテンポが心地よいですわ。ただなにかね、全体もうちょい演技うまくできんもんかね、いやさ、アポ無し取材だったりするんだから、普通に言い間違えたり、トチったりしていいじゃん。滑らかに行き過ぎだわ。とくにメインの作家のレスがいちいちうるさいね。表情とか他の面じゃうまくやりおおせてる人なのに惜しいよ。あとラストがねえ。霊能者が乱入して子どもぶん殴るとこから奥さんが火ぃつけるとこあたりね。執拗にカメラが光景を捉えつづけてるけど、チョイ無理でしょう。ハイライトだってんで省略には忍びなかったのかもしんないけど、もっと乱れるよねえ。それまでんとこでは画像の乱れを結構うまくフィーチャーしてリアル感出してたんだから、いかに実録作家が映像確保に執心してたこと強調したいからって、現場の混乱がそれにまさるようでないと台無しよ。でもまあ、うまくできてたんじゃないかな。二度目の村訪問でイヌがいっせいに消えてるあたり怖かったしさ、ハトなんかほんとに殺してるっぽいし、胎児が群がる心霊映像は森から二人とも生還してきちゃうのもったいないくらいだったし。住宅街に普通に住んでるデンパどもキチガイどもがああいう具合に互いに辻褄合ってたらおっかないよね、ッての全般伝わってきてるし。ま~定番の土俗性っちゅうか、ある意味ありきたりな鬼祭りの雰囲気なんか付け足し程度にしか見えないトータルの出来映えでした。モノスゴーク良いわけじゃないけど、確実に小傑作の域。