(承前)
第二部 戦争の広がり
第5章 第2次上海事変と国際メディア
- 盧溝橋事件、第2次上海事変勃発直後は、国際メディアは比較的冷静で客観的であったが、その後早い時期から変化が見られ、日本に対する批判、中国に対する同情が集まり、日本の孤立を招いていった、中国は国際世論を味方につけるために、積極的に宣伝を活用した、一方日本の宣伝に対する姿勢は中国とは対照的に消極的であり、これが日本の失敗の一因でもあった、当時も、多くの識者によって、宣伝における日本の問題点を指摘されていた
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当時のアメリカなどのメディアの日中戦争に関する報道をよく調べて紹介していることは評価できる、特にライフ誌に載った「上海駅頭の赤ん坊」で、その写真は後日、やらせではないかとの疑問が出ていることを紹介しているのも評価できる
- 日本は満州事変以降、中国の宣伝を黙殺する傾向が強まっていったが、反論がなければ事実承認と見做されるのが国際社会の常識であった
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その通りである、これがわかっていないのが当時、および現在の外務省である
- 蒋介石は、国際社会の支援を得ることにより勝利することを期待して上海での戦いを積極的に推進した、期待に反して対日経済制裁や参戦など具体的な支援をえることはできず敗北したが、長期的には国際社会における中国支持と日本批判という世論の醸成に成功、第二次世界大戦という事変の「国際化」を通して日本は「プロパガンダ戦争」に敗れ、国際的孤立の道を歩むことになる
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その通りである、このことを理解しようとしないのが現在の外務省である
第6章 「傀儡」政権とは何か、汪精衛政権を中心に
- 第1次大戦後、世界は反戦と反植民地が国際思想の一つの主流となった、日本はこの潮流に反して武力を行使して国際問題を解決しようとし、また自らの勢力圏を拡大しようとしたために、その主流から大きく逸脱してしまった、だからと言ってに日本がそういった潮流をまったく無視したわけではなかった
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反植民地というが、白人国家が有していた植民地をそのままにする彼らにだけ都合の良い世界秩序である、そして、白人国家で起こった世界恐慌により彼らはブロック経済圏を築き、自ら国際協調路線を放棄した、これこそが国際秩序に対する最初の挑戦ではないか
- 満州や汪精衛政権には、中国の人々も少なからず加わっていた。彼らがいかなる経緯で政権に加わったのかということはきわめて難しい論点である、待ち望んで協力したわけではないだろう
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対日協力者の中国における状況をよく説明しているところは評価できるが、その状況は既に識者により多く指摘されているところなので、なぜ難しい論点なのか分からない
- 日満関係において満州国は日本の指導下にあり、到底独立国とは言いがたい状態になった
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満州国は五属協和を掲げて建国したが、まともな国家運営の能力があるのは近代化した日本だけであったので、建国当初は日本の指導下で国家運営をするのは自然だと思う
第7章 経済財政面から見た日中戦争
- 日中戦争が本格化した頃のわが国経済は全体として好調で、「持たざる国」などではなかったから、後発の「持たざる国」日本が戦争に至るのはやむを得なかったという指摘もあるが、その説明は少なからず無理がある
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景気が良かったから「持たざる国」ではなかったという説明の方が無理があるでしょう、「持たざる国」かどうかは景気の良し悪しとは関係ない
- 満州事変当時の日本は不況の真っただ中にあった、原因は1930年の金解禁強行による円高不況である
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不況の原因は金解禁を決定した1929年11月直前に起こった米国の株価暴落による世界恐慌とそれに応じた欧米各国のブロック経済圏導入による面が大きいと思う
- 1938年に国家総動員法が制定され、その状況を「持てる国と持たざる国」という構図で理解することによって、国民生活の窮乏化をもっぱら英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ国民は、英米への反感を強め、実はその最大の原因を作っている軍部をより一層支持するようになっていった
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納得できない歴史観である、持てる国と持たざる国という構図をどうしても否定したいようだが、その見方に同意できないのは上に述べた通りである
第三部 戦争の収拾
第8章 日中戦争と日米交渉、事変の解決とは
- 1937年、中国の提訴によって九か国条約会議がブリュッセルで開催されることになった、日本政府は、日本の軍事行動は「中国側の挑発に対する自衛手段」と主張し、あくまで二国間の問題として収拾しようとしていた
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この日本の主張はほぼその通りだと思う、満州事変以前、日本軍は合法的に現地に駐留していたところ、赤化中国によりる反日政策で日本軍や日本人居留民に対する殺害・迫害を受け、現地居留民を不安に陥れた、今の彼の国による日本人駐在員やその家族に対する殺害、不当拘束などを見れば想像できるだろう、当時は今よりもっとひどい迫害を受けて大きな被害がでていた
- 中国は日中戦争に勝利するための戦略として、国際的解決(紛争の国際化)を目指し、英米陣営との連携に解決を求めた、日本は逆に二国間による局地的解決を歩もうとし、結局、中国のアプローチが成功した、宣戦布告なき戦争の終結をめぐるこの二つの立場は、その先に何を見通していたのだろうか、どのような日中関係を想定していたのか、戦後の日中関係を考えるうえで、見過ごせない問題に思われる
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著者らの述べる二つのアプローチの違いは参考になった、ただ、著者が指摘する当時の日本が考えていた将来の日中関係が、どういう意味で戦後の日中関係を考えるうえで見過ごせない問題なのかをもっと説明してほしかった
第9章 カイロ宣言と戦後構想
- 1943年11月の米英中(ローズベルト、チャーチル、蒋介石)による「カイロ宣言」は重要であるが、宣言の文書自体はあくまでコミュニケとしてプレスにリリースされたものであって、首脳の署名もない、また外交文書が十分に保存されていない、日本にとっては尖閣列島の帰属問題が1951年のサンフランシスコ講和条約とカイロ宣言で不整合になっている
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カイロ宣言、サンフランシスコ講和条約をめぐるいろんな問題について参考になる記載が多くあり有用であった
第10章 終戦と日中戦争の収拾
- 勝者であるはずの中国(国民政府)は、連合国の中で最も甚大な被害を受けた国であったにもかかわらず、戦犯問題や賠償問題について強硬な姿勢を示すこともなく、連合国における存在感は大きくない、これは戦後も続く共産党との内戦の中で著しくその国際的地位を低下させ、戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒にに立ち得なかったためである、日本にとっては日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ、中国との戦争の記憶が国民から遠ざかることを意味した
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日本にとっての日中戦争の責任を正面から受け止める機会が失われたというが、それでは具体的にどういうことをすべきなのか述べてもらいたいし、日本の責任についてどうお考えなのか示してもらいたかった
大変勉強になる良い本だと思った(完)