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気ままに生活してるシニアの残日録

高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読む(追記あり)

2024年10月24日 | 読書

2024/10/24 追記

本日の新聞で高階秀爾氏が92才で亡くなったことを知った、テレビにお元気な姿で出演しているところを見たばかりであるというのに残念である、ご冥福をお祈りします

新聞のニュースはこちら

2024/6/9 追記

本日のNHK「日曜美術館」で、高階秀爾氏の「カラー版名画を見る眼」を取り上げ、氏がこの本について語る番組をやっていた、氏がどういう人かテレビで見る貴重な機会となり有意義だった。来週の日曜日に再放送があるし、NHK+(プラス)でも見れるので、興味がある方はご覧ください

2024/3/15 当初投稿

高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読んだ。昨年、同じ本のⅡ(印象派からピカソまで)を読んでよかったのでⅠの方も読んでみたくなった(Ⅱの読書感想ブログはこちら)。著者の説明によれば、この本を2冊に分けたのは、歴史的に見てファン・アイクからマネまでの400年のあいだに、西欧絵画はその輝かしい歴史のひとつのサイクルが新しく始まって、そして終わったと言いえるように思われたからであり、マネの後、19世紀後半から、また新しい別のサイクルが始まって今日に至っているからだという。

高階氏は昭和7年生まれ、大学で美術史を研究し、パリに留学、文部技官、東大教授、国立西洋美術館館長などを経て、現在、大原美術館館長となっている。

Ⅰの時と同じように、本書で取り上げている15名の画家の名前と生国、年令、生きた期間を書いておこう。国は現在の国に置き換えているものもある。

  1. ファン・アイク(フランドル地方、1390-1441、51才)
  2. ボッティチェルリ(伊、1444-1510、66才)
  3. レオナルド・ダ・ビンチ(伊、1452-1519、67才)
  4. ラファエルロ(伊、1483-1520、37才)
  5. デューラー(独、1471-1528、57才)
  6. ベラスケス(スペイン、1599-1660、61才)
  7. レンブラント(蘭、1606-1669、63才)
  8. プーサン(仏、1594-1665、71才)
  9. フェルメール(蘭、1632-1675、43才)
  10. ワトー(仏、1684-1721、37才)
  11. ゴヤ(スペイン、1746-1828、82才)
  12. ドラクロワ(仏、1798-1863、65才)
  13. ターナー(英、1775-1851、76才)
  14. クールベ(仏、1819-1877、58才)
  15. マネ(仏、1832-1883、51才)

本書を読み終わって改めて高階氏の絵画に関する見識に感心した。本書は新書版のわずか200ページちょっとのボリュームであるけど、氏が選んだ15名の画家たちが描いた絵の専門的なポイント、歴史的背景などを簡潔にわかりやすく説明されていて非常に勉強になった。次からまた絵を観るのが楽しみになった。

難しいこともわかりやすく説明できてこそ本当の専門家だと思う。難しいことを難しくしか説明できない人は、その難しいことを本当は理解していないからだろう。そういう意味で本書での高階氏の説明に改めて感心した。

さて、今回は、氏の解説で参考になった点からいくつか取り上げて以下に書いてみた。

ラファエルロ

聖母マリアの服装は、教義上特別な意味がある場合を除き、普通は赤い上衣に青いマントを羽織ることになっている

デューラー

人間の身体の四性論、人間の身体の中には血液、胆汁、粘液、黒胆汁の四種類の液体が流れており、黒胆汁の多い人は憂鬱質になり、内向的、消極的で孤独を好むあまり歓迎されない性質とされていた。それが15世紀後半から大きく変わって、多くの優れた人間はみな憂鬱質であるとされるようになった。少なくとも知的活動や芸術的創造に向いていると考えられるようになった。ただ、社交的で活発な多血質と正反対の性格である憂鬱質の人間に世俗的な成功は望めない、人々には認められずに、ただ一人、自己の創造の道を歩むというのが創造的芸術家の運命である。ミケランジェロは「憂鬱こそはわが心の友」と言っている。

レンブラント

彼の人生は明暗ふたつの部分にはっきりと分けられる、地位も名声もあった華やかな前半と失意と貧困の後半、彼の絵もそれに応じて著しく変化した

ゴヤ

彼は1792年ころから次第に聴力を失い、遂には完全に耳が聞こえなくなってしまった。それまで外面的なものに向けられてきたゴヤの目が、人間の心の内部に向けられるようになったのは、それからのことである。

ドラクロワ

彼はロマン派絵画の代表的存在とみなされ、当時新古典派主義の理想美を追求するため先例の模倣のみをこととする形式的な「アカデミズム」から激しい非難や攻撃を受けた。彼が正式にアカデミーの会員になったのは十数年も待たされた挙句、死のわずか5年前であった、しかし歴史の歩みは個性美を主張したドラクロワの美学の勝利を語っている。

クールベ

クールベの作品は当時の市民社会を告発するような社会主義的作品であり、思想的に急進派であったが、画家としてはルネサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派であった。

マネ

彼の「オランピア」はルネサンス以来の西洋絵画に真っ向から疑問を突き付けた、すなわち西洋400年の歴史に対する反逆だった、彼の絵は全く平面的な装飾性を持ったトランプの絵模様みたいで、この二次元的表現は、対象の奥行や厚み、丸みを表そうとしたルネサンス以来の写実主義的表現と正反対のものであった、それでいて絵に立体感があるのは彼の鋭い色彩感覚のため、マネ以降、近代絵画は三次元的表現の否定と平面性の強調という方向に進む

とても勉強になった。


川越「山崎美術館」に行く

2024年10月24日 | 美術

川越に行った際、嫁さんが前から訪問したいと言っていた山崎美術館に初めて行ってみた、場所は蔵造りの町並みの入口・仲町交差点にある、私はどんな美術館か何も知らずに入った

前回川越を訪問したときに昼食をとった鰻の小川藤の方から歩いていくとメインストリートに差しかかるところに山崎美術館の看板が見えてきたので、そこから中に入ると、受付があり、入場料500円を払う、館内は撮影禁止

蔵造りの建物があり、一番手前に和菓子作りの木型が飾ってある建物となっている、先ずはそこを見学、お茶席などで出される色彩豊かで複雑な造形の和菓子の木型がいろいろ飾ってあり、興味深く鑑賞した

そこを出て奥に行くと直ぐに美術館の本館とでも言うべき建物があり、靴を脱いで中に入ると、そこには橋本雅邦画伯らの日本画が展示してあった

美術館の説明では、「橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、明治時代における我が国画壇の最長老。郷土川越の有志が集まり、明治32年に画宝会を結成し、雅邦の力作の頒布を受ける。山崎家4代目故山崎豊は、同会の幹事として画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたが、その後社会公益の為、雅邦画伯の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足した」とある、美術館は公益財団法人となっている

雅邦は、

  • 狩野派絵師として腕を磨き、その腕前は狩野芳崖とともに、門下の二神足と讃えられた。
  • その後、フェノロサと岡倉天心との出会いが大きな転機なり、日本画に西洋の空間表現、光の効果、構図の要素を取り入れ、狩野芳崖と共に画壇の中心となる。
  • 明治22年に東京美術学校が開校したとき、日本画の主任教授となる。生徒の個性を尊重したとされ、横山大観、下村観山、菱田春草などが雅邦のもとから巣立っていった。また、若かりし川合玉堂も、雅邦の門下となり指導を受けている。

先日読んだ「日本の近代美術」(土方定一著)でも橋本雅邦のことが多く取り上げられていた、ただ、土方氏は雅邦の日本画を必ずしも評価してないようだが。

展示室は一部屋だけであり、展示作品もそれほど多くないが、これだけの作品をきちんと保存して公共の用に供しているとはすごいものだと感心した。

展示室を出ると座るところがあり、お茶と最中のサービスがあった、嫁さんと座っておいしく頂いているとき、係りの人と雑談になり、壁に山崎家の歴代の当主の名前などが書いてあったので、「山崎家というのは今は何をやっているのか」と聞いてみると、何と川越の有名な和菓子屋の「龜屋」の当主であるというから驚いた、知らなかった、出された最中も龜屋の亀の形をした最中だった

龜屋は天明三年(1783)の創業より 代々川越藩御用達の和菓子屋であり、最中やこがね芋が有名である。私も何回か買って帰ったことがある。係りの人に、龜屋に寄るならその狭い通路を行くと店に出ます、と言われ行ってみると、何とそこは仲町交差点にある龜屋本店の店舗であった、聞いてみると店舗奥の美術館は昔は菓子工場であったとのこと、それで和菓子の木型が展示してあったのかと合点した

明日から川越祭りなので紅白の幕が町全体の商店街にかかっていた、せっかく店舗にでたので、亀の形をしたどら焼きとこがね芋、豆大福を買って帰った

お疲れ様でした、勉強になりました