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ドナルド・キーン「正岡子規」を読む(1/2)

2024年12月16日 | 読書

どういうきっかけか忘れたがドナルド・キーン氏の書いた「正岡子規」(新潮文庫)を読んでみた

読後の記憶を整理する意味で、赤線を引きた部分から抜粋して子規の人生の概略をまとめてみた

第1章 士族の子

子規は伊予松山の武士階級の生まれ、外遊びが苦手な子供で、よくいじめられた、家にいて貸本屋から借りた本を読むのが好きで、14才頃から書画会や詩会などをやるようになった

第2章 哲学、詩歌、ベースボール

中学校長の影響で政治集会に参加、叔父の影響で哲学に興味を抱き、西洋に目を向け英語で小説などを読む、その後松山の俳人らの影響もあり詩歌に魅了され、身体の弱さを克服するためにベースボールに熱中する

第3章 畏友漱石との交わり

突然喀血する、大学予備門で偶然に漱石と出会い友達になった、漱石は子規の作品を賞賛したが欠点も指摘した、アイディアを得るためにもっと本を読めと言った、子規は漱石の苦悩を理解しなかった、俳句を生涯の仕事とする自覚をもつ

第4章 小説「銀世界」と「月の都」を物す

小説を読むのが好きだった、馬琴・西鶴・近松・露伴・逍遥・四迷など、詩人より小説家が金になると思い、言文一致の小説に反対し文語体で書いた小説を露伴に送ったが賛辞はなく、詩人で生きていく決意をする

第5章 従軍記者として清に渡る

叔父の紹介で新聞社主の陸羯南(丸山眞男氏がこの人の小論を読めと言っていた人だ→こちら:最後の方のあとがき)が用意した根岸の住宅に引っ越し、新聞「日本」の社員となって詩や紀行文などを投稿し人気を呼ぶ、日清戦争により文化記事を主体にした新聞「小日本」の編集責任者になる、愛国主義者となり従軍するが処遇に落胆し持病を悪化させた

第6章 「写生」の発見

松山に帰り漱石と同居した、「小日本」の挿絵を描く中村不折と知り合い西洋画の写生の重要性を知り自分の俳句の原理にし、無名の俳人蕪村の写生に秀でた句を評価した、脊椎カリエスを発症、弟子の虚子との断絶が起こる、雑誌「ほととぎす」出版を決意

第7章 俳句の革新

「ほととぎす」の発行で俳句芸術の宗匠としての名声を確立し、自分の一派を作ることに熱心になる、子規は感情表現や曖昧さを教えず、自然を忠実に描くことを教えた、子規の健康は悪化し続けた、2度の手術は失敗した

第8章 新体詩と漢詩

17文字では詩人は自分自身を表現できないため、子規は自分の新体詩に詩的魅力を与えないではいられなかった、武士階級に属していた子規は武士の血筋の証として漢詩を作ったが日清戦争の勝利により漢詩は教育の中心的地位を失った

第9章 短歌の改革者となる

晩年になってから短歌に対する関心に目覚め、「歌詠みに与ふる書」で短歌の改革を世に問う、子規は紀貫之の流れを汲むものではなく、宮廷歌人に倣うものでもなく、自分の病気を歌に詠んだ

第10章 途方もない意志力で書き続けた奇跡

子規は随筆により経験と回想を語り詩人や歌人に絶大な影響力を持った、日本画の擁護者となり写生を重視し、伝統的な日本画の教え方を批判する一方、中村不折を称賛した

第11章 随筆「病床六尺」と日記「仰臥漫録」

病状は悪化し、看病をする母や妹の律に癇癪を起すなどつらく当たった、一方看病疲れの律が病気にならないか心配とも書いてある、やがて精神に変調をきたし自殺も考えるようになった

第12章 辞世の句

子規は死の三日前まで新聞「日本」に「病床六尺」を書き続けた、しかし、ついに明治35年9月19日に亡くなる、享年34才

(続く)



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