そしていま、孔明は趙雲と共に魯粛に先導され、柴桑城内《さいそうじょうない》にいる孫権との面会に向かっている。
柴桑城に居並ぶ家臣たちの、よそ者に対する敵愾心《てきがいしん》に満ちた顔。
「新野城《しんやじょう》に初めて来たときのことを思い出すよ」
孔明がそっと趙雲に軽口をたたく。
趙雲はあきれた顔を一瞬見せたが、孔明が微笑んでいるのを見ると、自分も笑って、こう応じた。
「そうだ、笑っておれ。あの時と同じだ」
「そう、臥龍の前に敵はない」
声こそ立てなかったが、この張り詰めた空気の中で、あえて笑ってみせる。
すると、場を占めている悪意と苛立ちが、ますます凝縮されて自分に向かってくるような感覚をあじわった。
なにを笑うか、よそ者め、というところか。
とはいえ、孔明は恐れない。
となりに趙雲がいることが大きかったし、なにより、本当に自分には敵などいないと思っていたからだ。
魯粛もまた、堂々としたもので、満座の中で怖じるでもなく、|媚《こ》びるでもなく、大胆に歩をすすめている。
そして、大音声で、言うのだった。
「荊州《けいしゅう》より、劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)の使者を連れて来たぞ! 曹賊と戦った、劉豫洲の使者だ!」
その声に、ざわめきが最高潮に達する。
それまで苛立ちにも似た顔を見せていた家臣たちが、いまやほんとうに怒り出した。
「子敬どの、討虜将軍《とうりょしょうぐん》の許しもなく、勝手に劉豫洲の使者を連れてきたのか!」
だれかが魯粛以上の大声で決めつけてきた。
しかし魯粛は動じず、悠然と答える。
「このふたりは曹操軍のことを良く知っている。
われらが将軍が、開戦か降伏かを判断する、よい材料を与えてくれるだろう」
「だれなのだ、そいつらは!」
「臥龍の号を受けた荊州の俊才、諸葛孔明どのと、主騎の趙子龍どのだ」
満座がどよめいた。
孔明は、自分の名が知れ渡っているのかと意外に思ったが、家臣たちの反応で、それだけではないことに気づく。
かれらは口々にこんなことを話し始めた。
「諸葛というと、子瑜《しゆ》どのの弟か。まったく似ておらぬな」
「臥龍という号を得たことは知っておるが、それも、俊才というのも、自称ではないのか」
「主騎というと、劉豫洲の子を助けて曹操軍を引っ掻き回した男がいると聞いたが、そいつがそうなのかな?」
「どちらにしろ、曹操から逃げてきたやつらだろう。話にならん」
やがて、どよめきの中に失笑が混じり始めて、さすがの孔明も頭に血が上りかけた。
とはいえ、この程度で顔色を変えていては、この先を乗り越えられない。
となりの子龍は大丈夫かなと見れば、よくしたもので、平然としている。
おそらく、劉備のお供をつづけているうちに、いろいろ評価されるのに慣れてしまったらしい。
連れてきたのが、趙雲以外だったら、自分もかえって落ち着いていられなかっただろう。
いい人選をしたなと、あらためて思った。
「その使者どのらを、将軍に引き合わせるつもりか」
と、前に進み出てきた品の良い初老の男に、魯粛は丁寧に礼を取った。
「これはこれは、子布《しふ》どの。お元気そうで、なによりですな」
「つまらぬ嫌味を言うな」
ぴしゃりと言って、子布……張昭《ちょうしょう》は、孔明をつま先から、頭のてっぺんまで、じろりとながめてくる。
孔明をながめ終わると、ちらっと趙雲を見、そして、その腰に佩《お》びている宝剣を見て、目を瞠《みは》った。
わかりやすいほどに、権威に弱そうな人物だなと、孔明は思った。
「将軍は頭痛がするとおっしゃって、いま奥堂で休んでおられる。
使者どのには客館にて待機していただいてはどうか」
「その頭痛を取り除くために、使者どのを連れてきたのです。取り次ぎの者はどこです」
「わからぬやつ。将軍は使者にはお会いせぬと言っておるのだ」
「それは将軍が決められることで、子布どのが決めることではないでしょう。
何度でもお尋ねしますぞ。取り次ぎの者はどこです」
張昭の白いかおが、さっと朱に染まる。
この文官の頭《かしら》といってもいい人物は、反抗されることに慣れていないようだった。
と、そこへ、満座の中から手を挙げて立ち上がった人物がいる。
取り次ぎかなと思えば、そうではなかった。
「子敬どの、高名な臥龍先生に、ぜひお尋ねしたいことがある!」
中年の風采の立派な男が口火を切ったことで、ほかにもそれまで黙っていた者たちが、首を伸ばしながら、
「そうだ、わたしも聴きたいことがあるぞ」
「わしもだ。臥龍先生に質問させてくれ」
と口々に言い始めた。
かれらは情報が欲しいのではない。
名の知れた孔明を喝破することで、自分たちの名を高めたいという腹積もりなのである。
孔明は、かれらのほうに向きなおると、両方の口の端をぐっと上げて、応じた。
「よいでしょう、質問を承ります。この孔明で答えられることがあれば、なんなりと」
「時間がないのだが」
魯粛が文句を言ったが、孔明はほがらかに牽制した。
「ここにいる方々を納得させないかぎり、われら前に進めないでしょう。
ならば、みなさまを納得させるまで」
つづく
※ 挑戦を受けた孔明、いよいよ論戦開始!
柴桑城に居並ぶ家臣たちの、よそ者に対する敵愾心《てきがいしん》に満ちた顔。
「新野城《しんやじょう》に初めて来たときのことを思い出すよ」
孔明がそっと趙雲に軽口をたたく。
趙雲はあきれた顔を一瞬見せたが、孔明が微笑んでいるのを見ると、自分も笑って、こう応じた。
「そうだ、笑っておれ。あの時と同じだ」
「そう、臥龍の前に敵はない」
声こそ立てなかったが、この張り詰めた空気の中で、あえて笑ってみせる。
すると、場を占めている悪意と苛立ちが、ますます凝縮されて自分に向かってくるような感覚をあじわった。
なにを笑うか、よそ者め、というところか。
とはいえ、孔明は恐れない。
となりに趙雲がいることが大きかったし、なにより、本当に自分には敵などいないと思っていたからだ。
魯粛もまた、堂々としたもので、満座の中で怖じるでもなく、|媚《こ》びるでもなく、大胆に歩をすすめている。
そして、大音声で、言うのだった。
「荊州《けいしゅう》より、劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)の使者を連れて来たぞ! 曹賊と戦った、劉豫洲の使者だ!」
その声に、ざわめきが最高潮に達する。
それまで苛立ちにも似た顔を見せていた家臣たちが、いまやほんとうに怒り出した。
「子敬どの、討虜将軍《とうりょしょうぐん》の許しもなく、勝手に劉豫洲の使者を連れてきたのか!」
だれかが魯粛以上の大声で決めつけてきた。
しかし魯粛は動じず、悠然と答える。
「このふたりは曹操軍のことを良く知っている。
われらが将軍が、開戦か降伏かを判断する、よい材料を与えてくれるだろう」
「だれなのだ、そいつらは!」
「臥龍の号を受けた荊州の俊才、諸葛孔明どのと、主騎の趙子龍どのだ」
満座がどよめいた。
孔明は、自分の名が知れ渡っているのかと意外に思ったが、家臣たちの反応で、それだけではないことに気づく。
かれらは口々にこんなことを話し始めた。
「諸葛というと、子瑜《しゆ》どのの弟か。まったく似ておらぬな」
「臥龍という号を得たことは知っておるが、それも、俊才というのも、自称ではないのか」
「主騎というと、劉豫洲の子を助けて曹操軍を引っ掻き回した男がいると聞いたが、そいつがそうなのかな?」
「どちらにしろ、曹操から逃げてきたやつらだろう。話にならん」
やがて、どよめきの中に失笑が混じり始めて、さすがの孔明も頭に血が上りかけた。
とはいえ、この程度で顔色を変えていては、この先を乗り越えられない。
となりの子龍は大丈夫かなと見れば、よくしたもので、平然としている。
おそらく、劉備のお供をつづけているうちに、いろいろ評価されるのに慣れてしまったらしい。
連れてきたのが、趙雲以外だったら、自分もかえって落ち着いていられなかっただろう。
いい人選をしたなと、あらためて思った。
「その使者どのらを、将軍に引き合わせるつもりか」
と、前に進み出てきた品の良い初老の男に、魯粛は丁寧に礼を取った。
「これはこれは、子布《しふ》どの。お元気そうで、なによりですな」
「つまらぬ嫌味を言うな」
ぴしゃりと言って、子布……張昭《ちょうしょう》は、孔明をつま先から、頭のてっぺんまで、じろりとながめてくる。
孔明をながめ終わると、ちらっと趙雲を見、そして、その腰に佩《お》びている宝剣を見て、目を瞠《みは》った。
わかりやすいほどに、権威に弱そうな人物だなと、孔明は思った。
「将軍は頭痛がするとおっしゃって、いま奥堂で休んでおられる。
使者どのには客館にて待機していただいてはどうか」
「その頭痛を取り除くために、使者どのを連れてきたのです。取り次ぎの者はどこです」
「わからぬやつ。将軍は使者にはお会いせぬと言っておるのだ」
「それは将軍が決められることで、子布どのが決めることではないでしょう。
何度でもお尋ねしますぞ。取り次ぎの者はどこです」
張昭の白いかおが、さっと朱に染まる。
この文官の頭《かしら》といってもいい人物は、反抗されることに慣れていないようだった。
と、そこへ、満座の中から手を挙げて立ち上がった人物がいる。
取り次ぎかなと思えば、そうではなかった。
「子敬どの、高名な臥龍先生に、ぜひお尋ねしたいことがある!」
中年の風采の立派な男が口火を切ったことで、ほかにもそれまで黙っていた者たちが、首を伸ばしながら、
「そうだ、わたしも聴きたいことがあるぞ」
「わしもだ。臥龍先生に質問させてくれ」
と口々に言い始めた。
かれらは情報が欲しいのではない。
名の知れた孔明を喝破することで、自分たちの名を高めたいという腹積もりなのである。
孔明は、かれらのほうに向きなおると、両方の口の端をぐっと上げて、応じた。
「よいでしょう、質問を承ります。この孔明で答えられることがあれば、なんなりと」
「時間がないのだが」
魯粛が文句を言ったが、孔明はほがらかに牽制した。
「ここにいる方々を納得させないかぎり、われら前に進めないでしょう。
ならば、みなさまを納得させるまで」
つづく
※ 挑戦を受けた孔明、いよいよ論戦開始!
前作より、すこしばかり読みやすいシーンとなっているかと思います。
次回もどうぞお楽しみにー(*^▽^*)