黙っている孔明に対し、魯粛は身を乗り出してくる。
「おれもおなじ構想を孫将軍に披露したことがある。
あのときは、漢王朝に代われとはっきり言いすぎて、孫将軍の不興を買っただけだった」
「当たり前だ。不遜な。われらも、漢王朝に代わろうとなどしておらぬぞ、なあ、軍師」
趙雲に問われて、孔明はうなずいたが、魯粛の妙に輝いている目が気になった。
魯粛は、その光を帯びた瞳を、まっすぐに趙雲に向ける。
「あんたたちの主君である劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)は、たしかに漢王朝の末裔かもしれぬ。
しかし、われらが将軍は、漢王朝にとっては、全くの他人だ。
将軍が天下を取ることに大義名分はない。
曹操のように、今上帝《きんじょうてい》を擁して、代わりに天下に号令をかけるという方法もあるだろうが、そんなまだるっこしい手を使って愚図愚図しているあいだにも、良民の苦しみはつづいている。ちがうか?」
「たしかに、そのとおりでしょう」
「軍師」
趙雲がたしなめようとしてくるのを、孔明は手ぶりで止めた。
「子敬どのは、きれいごとなどいらないと思っておられる。
万民のためならば、有能な仁君が天下を取ればよいと、そう言いたいのですね」
「そのとおり」
「では、わたしからも問わせてもらいましょう。
孫将軍は、天下を取るに値するほどの人物なのですか」
「おれはそう思っている」
「本気で?」
「もちろん。でなければ、はるばる千里を越えて孫将軍のために荊州へ向かいはしない。
孫将軍に天下を掴ませるためにも、あんたたちの力が必要なのだ。
おれはこれほど乱れ切った世の中は、漢王朝復活なんて、ぬるい理想を掲げて直すわけにはいかないと思っている。
天下を治めるのは、あんたの言うとおり、力のある、有能なものがするべきだと信じているのさ。
そのほうが、民のためだ、ちがうか。
その点、曹操は漢王朝の庇護者という看板をなかなか手放そうとしない。
いろいろしがらみもあるんだろうが、辛酸を舐め切っている民を救うためなら、本来はのんびりしてはいられないはずだ。
結局やつも、簒奪者の汚名をかぶりたくない、つまり、自分の面子が大事なんだろうさ」
孔明は魯粛の大胆なことばのひとつひとつを頭の中で反芻していた。
曹操への批判の部分はともかく、たしかに、魯粛の言うことにも一理ある。
これほど世が乱れ切ったのだから、漢王朝復興というお題目抜きで、まったく新しい王朝をたてるべきではないのか……その気持ちは理解できた。
だが、だからといって、『きれいごと』抜きで天下を目指そうとハッキリ言われると、どうも違和感がある。
その違和感の正体がなにかといえば、やはり劉備の掲げる理想と、魯粛の理想とがずれているからということに落ち着くだろう。
天下を三つに分けるという構想は同じ。
だが最終的に目指すものがまったくちがう。
劉備が天下を取るか、孫権が天下を取るか。
孔明としては、劉備以外の人間に天下を取ってもらいたくない。
いや、取らせてはならないと考えている。
「つまり子敬どのは、孫将軍に天下を取らせたい。
そのために、われらを利用できるだけ利用しようと、そうおっしゃる」
ずばり孔明が指摘すると、魯粛は苦笑した。
「あんたもハッキリ言うねえ。まあ、そういうことになってしまうかな。
だが、いまは利害が一致しているだろう?」
「たしかに、そのとおり」
「お互いに、いまは、開戦して勝たなくちゃいけない。あとのことは、あとで考えればいいのさ。
まあ、無理に考えてみるとしてもだ、仮にこちらが勝ったとして、おれたちに出来るのは、せいぜい曹操を北へ追いやることくらい。
残った荊州をどうするかで、おそらく問題が起こってくる。
おれとしては、揚州《ようしゅう》と荊州《けいしゅう》を足がかりに、孫将軍の国を建てたい。
だが、あんたたちはちがうだろう。
ただ、ちがっててもいいのさ、曹操にともに当たってくれるなら、な」
「われらとて、後れを取るつもりはありませぬぞ」
孔明が目を細めて挑戦的に言うと、魯粛は「そうだろうさ」と笑った。
「孫将軍が荊州と揚州をとると言ったな? われらの本拠地も荊州だぞ。荊州を分けるつもりか」
趙雲が息巻くと、魯粛はあっさりと答える。
「激しい競争になるだろうが、お互いに力を尽くせばいいじゃないか。
それに、忘れているかもしれないが、まだ益州《えきしゅう》と涼州《りょうしゅう》がある」
「おれたちに、山奥に引っ込めと?」
「そうじゃない。益州から北上し漢中《かんちゅう》を落とす。
漢中は、かの高祖《こうそ》が天下をうかがった土地で縁起もいい。
そこから長安を目指すなり、涼州を併呑するなり、状況次第で戦略を変える。それがいいと思うがね」
つづく
「おれもおなじ構想を孫将軍に披露したことがある。
あのときは、漢王朝に代われとはっきり言いすぎて、孫将軍の不興を買っただけだった」
「当たり前だ。不遜な。われらも、漢王朝に代わろうとなどしておらぬぞ、なあ、軍師」
趙雲に問われて、孔明はうなずいたが、魯粛の妙に輝いている目が気になった。
魯粛は、その光を帯びた瞳を、まっすぐに趙雲に向ける。
「あんたたちの主君である劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)は、たしかに漢王朝の末裔かもしれぬ。
しかし、われらが将軍は、漢王朝にとっては、全くの他人だ。
将軍が天下を取ることに大義名分はない。
曹操のように、今上帝《きんじょうてい》を擁して、代わりに天下に号令をかけるという方法もあるだろうが、そんなまだるっこしい手を使って愚図愚図しているあいだにも、良民の苦しみはつづいている。ちがうか?」
「たしかに、そのとおりでしょう」
「軍師」
趙雲がたしなめようとしてくるのを、孔明は手ぶりで止めた。
「子敬どのは、きれいごとなどいらないと思っておられる。
万民のためならば、有能な仁君が天下を取ればよいと、そう言いたいのですね」
「そのとおり」
「では、わたしからも問わせてもらいましょう。
孫将軍は、天下を取るに値するほどの人物なのですか」
「おれはそう思っている」
「本気で?」
「もちろん。でなければ、はるばる千里を越えて孫将軍のために荊州へ向かいはしない。
孫将軍に天下を掴ませるためにも、あんたたちの力が必要なのだ。
おれはこれほど乱れ切った世の中は、漢王朝復活なんて、ぬるい理想を掲げて直すわけにはいかないと思っている。
天下を治めるのは、あんたの言うとおり、力のある、有能なものがするべきだと信じているのさ。
そのほうが、民のためだ、ちがうか。
その点、曹操は漢王朝の庇護者という看板をなかなか手放そうとしない。
いろいろしがらみもあるんだろうが、辛酸を舐め切っている民を救うためなら、本来はのんびりしてはいられないはずだ。
結局やつも、簒奪者の汚名をかぶりたくない、つまり、自分の面子が大事なんだろうさ」
孔明は魯粛の大胆なことばのひとつひとつを頭の中で反芻していた。
曹操への批判の部分はともかく、たしかに、魯粛の言うことにも一理ある。
これほど世が乱れ切ったのだから、漢王朝復興というお題目抜きで、まったく新しい王朝をたてるべきではないのか……その気持ちは理解できた。
だが、だからといって、『きれいごと』抜きで天下を目指そうとハッキリ言われると、どうも違和感がある。
その違和感の正体がなにかといえば、やはり劉備の掲げる理想と、魯粛の理想とがずれているからということに落ち着くだろう。
天下を三つに分けるという構想は同じ。
だが最終的に目指すものがまったくちがう。
劉備が天下を取るか、孫権が天下を取るか。
孔明としては、劉備以外の人間に天下を取ってもらいたくない。
いや、取らせてはならないと考えている。
「つまり子敬どのは、孫将軍に天下を取らせたい。
そのために、われらを利用できるだけ利用しようと、そうおっしゃる」
ずばり孔明が指摘すると、魯粛は苦笑した。
「あんたもハッキリ言うねえ。まあ、そういうことになってしまうかな。
だが、いまは利害が一致しているだろう?」
「たしかに、そのとおり」
「お互いに、いまは、開戦して勝たなくちゃいけない。あとのことは、あとで考えればいいのさ。
まあ、無理に考えてみるとしてもだ、仮にこちらが勝ったとして、おれたちに出来るのは、せいぜい曹操を北へ追いやることくらい。
残った荊州をどうするかで、おそらく問題が起こってくる。
おれとしては、揚州《ようしゅう》と荊州《けいしゅう》を足がかりに、孫将軍の国を建てたい。
だが、あんたたちはちがうだろう。
ただ、ちがっててもいいのさ、曹操にともに当たってくれるなら、な」
「われらとて、後れを取るつもりはありませぬぞ」
孔明が目を細めて挑戦的に言うと、魯粛は「そうだろうさ」と笑った。
「孫将軍が荊州と揚州をとると言ったな? われらの本拠地も荊州だぞ。荊州を分けるつもりか」
趙雲が息巻くと、魯粛はあっさりと答える。
「激しい競争になるだろうが、お互いに力を尽くせばいいじゃないか。
それに、忘れているかもしれないが、まだ益州《えきしゅう》と涼州《りょうしゅう》がある」
「おれたちに、山奥に引っ込めと?」
「そうじゃない。益州から北上し漢中《かんちゅう》を落とす。
漢中は、かの高祖《こうそ》が天下をうかがった土地で縁起もいい。
そこから長安を目指すなり、涼州を併呑するなり、状況次第で戦略を変える。それがいいと思うがね」
つづく
※ 再連載後、多くのお客さんに来ていただいているようです。
とってもありがたいことです!(^^)!
作品はたくさんありますので、ゆっくり見て行ってくださいね。
さて、天下三分の計をめぐる論議……魯粛氏のドライさと先見の明があきらかになる回でございます。
赤壁の戦いの裏で、こんな話し合いもじつはされていたかもしれない?
なんてことを想像しながら書きました。
さて、明日はどんな展開になるでしょうか?
どうぞお楽しみにー(*^▽^*)