行神亭《こうじんてい》は、新野《しんや》の市場のすぐそばに展開する商店街の一角にあった。
二階建ての建物が連なるなかでも、なかなか立派な構えをしており、看板には、ほかの店よりひときわ大きな文字で『行神亭』と書かれていた。
無関係らしい町人たちが、遠巻きに野次馬になっている。
孔明たちが到着したころには、すでに大立ち回りは始まっていて、入口には壊れた瓶子や皿、椅子に机などが散乱していた。
赤い提灯が連ねられているなかでも、一部が引きちぎられて落ちていて、そのせいで、なかのあかりが地面のうえでちろちろ燃えている。
「派手にやりましたなあ」
と、陳到《ちんとう》が緊張感のない声で言った。
中をもっとよく覗くと、すでに殴り倒された男たちが床にいくつも転がっている。
陳到はそれを見ると、連れてきた兵士たちに命令した。
「おまえたち、ここに倒れている者たちをふん縛って、城の牢に入れてしまえ。
気絶しているからと言って油断するなよ、こいつらは、曹操の手の者だからな」
孔明は思わず陳到の、のっぺりとした顔を見返した。
「そこまでわかっていて、子龍どのは行神亭に通っていたのか?」
「話すと長くなるので省きますが、子龍どのは、直感で、蘇果とその兄を疑っておったのです。
そこで、自分が誤解されるのもいとわず、この行神亭の常連になって、出入りする者たちを見張っていたのですよ」
「さすがだな」
思わず感心していると、上のほうで、どたんばたんと音がする。
何事かとおもって首をあげて、おどろいた。
屋根の上で、趙雲と男が刃を向け合っているのが見えたのだ。
それは野次馬たちにも見えたようで、かれらは無責任に歓声を上げている。
と、視界のすみの暗がりに、孔明は光るものを見た。
「軍師どのっ、あぶない!」
叫びつつ、陳到が孔明と、孔明に突進してきた者のあいだに、恐ろしい速さで滑り込む。
目にも止まらぬ早さで陳到は刀を抜くと、小刀を持つ襲撃者の小手を斬りつける。
ぱっと血の花が咲いた。
相手が怯んだすきを逃さず、陳到はあっという間に相手の間合いに飛び込み、その腕を背中にねじりあげ、武器をとりあげた。
「畜生ッ、放せっ」
悪態をつくのは、蘇果《そか》であった。
結った髪も派手に曲がり、衣ははだけ、形相もまるで夜叉のようになっている。
じたばた暴れる蘇果に、しかし陳到は平然としていた。
腰縄を取り出すと、手際よく、蘇果をぐるぐるに縛り上げてしまう。
「たいしたものだ。さすが、わが君がそなたを武芸に関しては一番だとほめあげるだけある」
孔明が感嘆すると、陳到は照れもせず、
「それがしは武芸しか能がないのですよ」
と、言ってのけた。
一方で、にらみ合う趙雲と男のほうは、しばらく動きがなかった。
そうこうしているあいだに、行神亭に踏み込んだ兵たちが、叫び声をあげる。
「叔至さま、物置に周慶《しゅうけい》さんたちがいましたっ」
「生きておるか!」
「はい、無事です!」
間に合ったなと孔明はホッとしつつ、趙雲の勝負の行方を見守る。
屋根の上という足場の悪さもものともせず、趙雲は全く動じていない。
かれの全身から放たれる殺気に、おそらく行神亭の亭主であろう相手が、気おされているのが、遠目でもわかった。
風がびゅうと吹き、互いの衣の袖をなぶる。
とうとう間に耐え兼ねて、動いたのは亭主のほうだった。
うおお、と奇声をあげて、上段から趙雲の脳天めがけて刀を振り下ろす。
趙雲は振り下ろされた刃をがんっ、と剣で受け止めると、そのまま力いっぱい、男を弾き返した。
亭主が、屋根のうえで均衡を崩す。
その機を逃さず、趙雲は亭主の胴体を|袈裟懸《けさが》けにして切り伏せた。
甲高い悲鳴が上がり、つづいて亭主は屋根から転げ落ちると、悲惨な音をたてて、さらに地面に落ちた。
「あんたっ! あんたあっ!」
それを見て、蘇果が絶叫する。
孔明は思わず、陳到と顔を見合わせた。
どうやら、蘇果と兄、というのはあくまで自称で、二人は夫婦だったようだ。
畜生、畜生ッ、と繰り返す蘇果を横に、孔明は屋根の上の趙雲に手を振った。
趙雲は眼下に友の姿を見て、満足したように微笑んだ。
※
城に引っ立てられた蘇果とその一味は、すぐさま牢に入れられた。
その途上、劉封《りゅうほう》が飛んできて、
「おまえが『黒鴉』だったのか!」
と蘇果に詰問したが、蘇果のほうは小ばかにしたように唇をゆがめ、
「わかってないね、甘ちゃんの坊ちゃん!」
とせせら笑って、そのまま劉封が何を言っても無視して行ってしまった。
つづく
二階建ての建物が連なるなかでも、なかなか立派な構えをしており、看板には、ほかの店よりひときわ大きな文字で『行神亭』と書かれていた。
無関係らしい町人たちが、遠巻きに野次馬になっている。
孔明たちが到着したころには、すでに大立ち回りは始まっていて、入口には壊れた瓶子や皿、椅子に机などが散乱していた。
赤い提灯が連ねられているなかでも、一部が引きちぎられて落ちていて、そのせいで、なかのあかりが地面のうえでちろちろ燃えている。
「派手にやりましたなあ」
と、陳到《ちんとう》が緊張感のない声で言った。
中をもっとよく覗くと、すでに殴り倒された男たちが床にいくつも転がっている。
陳到はそれを見ると、連れてきた兵士たちに命令した。
「おまえたち、ここに倒れている者たちをふん縛って、城の牢に入れてしまえ。
気絶しているからと言って油断するなよ、こいつらは、曹操の手の者だからな」
孔明は思わず陳到の、のっぺりとした顔を見返した。
「そこまでわかっていて、子龍どのは行神亭に通っていたのか?」
「話すと長くなるので省きますが、子龍どのは、直感で、蘇果とその兄を疑っておったのです。
そこで、自分が誤解されるのもいとわず、この行神亭の常連になって、出入りする者たちを見張っていたのですよ」
「さすがだな」
思わず感心していると、上のほうで、どたんばたんと音がする。
何事かとおもって首をあげて、おどろいた。
屋根の上で、趙雲と男が刃を向け合っているのが見えたのだ。
それは野次馬たちにも見えたようで、かれらは無責任に歓声を上げている。
と、視界のすみの暗がりに、孔明は光るものを見た。
「軍師どのっ、あぶない!」
叫びつつ、陳到が孔明と、孔明に突進してきた者のあいだに、恐ろしい速さで滑り込む。
目にも止まらぬ早さで陳到は刀を抜くと、小刀を持つ襲撃者の小手を斬りつける。
ぱっと血の花が咲いた。
相手が怯んだすきを逃さず、陳到はあっという間に相手の間合いに飛び込み、その腕を背中にねじりあげ、武器をとりあげた。
「畜生ッ、放せっ」
悪態をつくのは、蘇果《そか》であった。
結った髪も派手に曲がり、衣ははだけ、形相もまるで夜叉のようになっている。
じたばた暴れる蘇果に、しかし陳到は平然としていた。
腰縄を取り出すと、手際よく、蘇果をぐるぐるに縛り上げてしまう。
「たいしたものだ。さすが、わが君がそなたを武芸に関しては一番だとほめあげるだけある」
孔明が感嘆すると、陳到は照れもせず、
「それがしは武芸しか能がないのですよ」
と、言ってのけた。
一方で、にらみ合う趙雲と男のほうは、しばらく動きがなかった。
そうこうしているあいだに、行神亭に踏み込んだ兵たちが、叫び声をあげる。
「叔至さま、物置に周慶《しゅうけい》さんたちがいましたっ」
「生きておるか!」
「はい、無事です!」
間に合ったなと孔明はホッとしつつ、趙雲の勝負の行方を見守る。
屋根の上という足場の悪さもものともせず、趙雲は全く動じていない。
かれの全身から放たれる殺気に、おそらく行神亭の亭主であろう相手が、気おされているのが、遠目でもわかった。
風がびゅうと吹き、互いの衣の袖をなぶる。
とうとう間に耐え兼ねて、動いたのは亭主のほうだった。
うおお、と奇声をあげて、上段から趙雲の脳天めがけて刀を振り下ろす。
趙雲は振り下ろされた刃をがんっ、と剣で受け止めると、そのまま力いっぱい、男を弾き返した。
亭主が、屋根のうえで均衡を崩す。
その機を逃さず、趙雲は亭主の胴体を|袈裟懸《けさが》けにして切り伏せた。
甲高い悲鳴が上がり、つづいて亭主は屋根から転げ落ちると、悲惨な音をたてて、さらに地面に落ちた。
「あんたっ! あんたあっ!」
それを見て、蘇果が絶叫する。
孔明は思わず、陳到と顔を見合わせた。
どうやら、蘇果と兄、というのはあくまで自称で、二人は夫婦だったようだ。
畜生、畜生ッ、と繰り返す蘇果を横に、孔明は屋根の上の趙雲に手を振った。
趙雲は眼下に友の姿を見て、満足したように微笑んだ。
※
城に引っ立てられた蘇果とその一味は、すぐさま牢に入れられた。
その途上、劉封《りゅうほう》が飛んできて、
「おまえが『黒鴉』だったのか!」
と蘇果に詰問したが、蘇果のほうは小ばかにしたように唇をゆがめ、
「わかってないね、甘ちゃんの坊ちゃん!」
とせせら笑って、そのまま劉封が何を言っても無視して行ってしまった。
つづく
※ 「黒鴉の爪痕」、おかげさまで、無事に、のこり2回となりました。
次回は謎解き編です。
みなさまの推理は当たっているでしょうか?
どうぞおたのしみにー(*^▽^*)