のちに蜀漢の皇帝となる劉備が髀肉之嘆をかこっていたころであり、荊州牧の劉表の客分として、荊州の最北にある新野を守っていたころでもある、後漢末の建安九年(西暦204年)の春のできごと。
劉備に呼ばれた趙雲、字を子龍が新野城の応接間に行ってみると、劉備は椅子にななめにすわって、けんめいにこめかみを揉んでいた。
応接間には、劉備の義兄弟である関羽、張飛のほか、簡雍、孫乾、糜竺といった毎度お馴染みの面々もいない。
侍従も仕女もそばにいないので、おそらく人払いをしていたのだろう。
趙雲が、お呼びですかと声をかけると、劉備は、うう、と小さくうめいて、それから言った。
「曹操のやつが頭痛に悩まされているのは、あんまり色んなやつと会うからじゃないかねえ。人に酔うのだよ、きっと」
言いたいことがよくわからなかったので、趙雲が答えないでいると、劉備はゆっくり姿勢を正した。
劉備というひとは、喜怒哀楽をめったなことでは表に出さないことで評判をとっている。
それこそ大人の気風だというのである。
だが、趙雲のまえでは、素直に表情をあらわにした。
口が固く、よほどのことがないかぎり余計な口をきかない趙雲を信用しているし、また、趙雲からも信用されているとわかっているからだ。
主従のあいだには絶対的な絆があり、それを分かつことはだれにもできないようである。
趙雲には、いまの劉備は、かなり参っているように見えた。
わかりやすいことに、眉間に皺がよっている。
こめかみを揉んでいるのは、軽い頭痛がするためだろう。
それに気づいた趙雲が大丈夫でございますかとたずねると、劉備は肩を落として息を吐いた。
「悪意がある人間のほうが相手にするときは楽なときがあるな。善意の塊の人間が相手だと、どんなに莫迦でも、怒るに怒れん」
そうして、待てよ? 怒るに怒れんこの状況、あの先生は、もしかして、上善は水の如し、あれを会得している強者なのかもしれないな、と劉備は首をひねる。
首をうごかすたび、劉備の長い耳たぶもいっしょに揺れた。
やはり趙雲は、話がわからないので相槌を打つこともできない。
黙っていると、劉備はさらに言った。
「子龍、おまえに頼みたいことがある。いま帰った若い客は張伸というのだが、わるいがそいつを樊城まで送っていってくれないか」
わかり申した、と返事をすると、劉備は、すこし声をひそめた。
「ちょいとばかり癖のある先生だからな、道々、おまえを怒らせることもあるかもしれないが、我慢して付き合ってやってくれ。ほかのやつに頼んだらまちがいなく喧嘩になる。おまえだったらだいじょうぶだろう」
おおい、水をくれ、と劉備が言うと、陰でひかえていた仕女がささっとあらわれて、杯になみなみと水を注いだ。
劉備はそれを、のどを鳴らして飲み干す。
それでも劉備の表情は晴れないままだ。
そこからして、張伸と劉備が、あまりいい話をしなかったことが察せられた。
「張伸というのは変わった若造だ。樊城ではちょっと名の知れた家の三男坊ということなのだが、今日、ふらりと新野にあらわれて、儂にどうしても話をしたいことがあると面会を求めてきた。取次ぎの人間が、見た目は悪くないし、態度は颯爽としているし、弁舌にしても淀みがないし、もしかしたら、つねづね儂が探している軍師に適当な人物かもしれませぬ、というので、儂も期待をして会ってみたのだよ。そうしたら、まあまあ、たしかに見た目はいい、ちょっとなよなよした感じだが、あれは美丈夫の部類に入るだろう。美丈夫といっても、おまえほどではないけれどな」
と劉備はさりげなくうれしがらせを言う。
たしかに趙雲は身の丈八尺ある均整のとれた体躯と、かなり配置のよい目鼻立ちの顔をもっていた。
そのうえ、育ちもそこそこ悪くないので、雰囲気に気品があり、そのうえ天下無双の武者というので、主騎(ボディーガード)として常にそばに置くには、最適であった。
劉備を初めて見る者は、これほど風貌のすぐれた人物がそばに侍っているとなると、劉備という人物にはそうとうな魅力があるにちがいないと、いいふうにかんがえるのである。
つづく…
劉備に呼ばれた趙雲、字を子龍が新野城の応接間に行ってみると、劉備は椅子にななめにすわって、けんめいにこめかみを揉んでいた。
応接間には、劉備の義兄弟である関羽、張飛のほか、簡雍、孫乾、糜竺といった毎度お馴染みの面々もいない。
侍従も仕女もそばにいないので、おそらく人払いをしていたのだろう。
趙雲が、お呼びですかと声をかけると、劉備は、うう、と小さくうめいて、それから言った。
「曹操のやつが頭痛に悩まされているのは、あんまり色んなやつと会うからじゃないかねえ。人に酔うのだよ、きっと」
言いたいことがよくわからなかったので、趙雲が答えないでいると、劉備はゆっくり姿勢を正した。
劉備というひとは、喜怒哀楽をめったなことでは表に出さないことで評判をとっている。
それこそ大人の気風だというのである。
だが、趙雲のまえでは、素直に表情をあらわにした。
口が固く、よほどのことがないかぎり余計な口をきかない趙雲を信用しているし、また、趙雲からも信用されているとわかっているからだ。
主従のあいだには絶対的な絆があり、それを分かつことはだれにもできないようである。
趙雲には、いまの劉備は、かなり参っているように見えた。
わかりやすいことに、眉間に皺がよっている。
こめかみを揉んでいるのは、軽い頭痛がするためだろう。
それに気づいた趙雲が大丈夫でございますかとたずねると、劉備は肩を落として息を吐いた。
「悪意がある人間のほうが相手にするときは楽なときがあるな。善意の塊の人間が相手だと、どんなに莫迦でも、怒るに怒れん」
そうして、待てよ? 怒るに怒れんこの状況、あの先生は、もしかして、上善は水の如し、あれを会得している強者なのかもしれないな、と劉備は首をひねる。
首をうごかすたび、劉備の長い耳たぶもいっしょに揺れた。
やはり趙雲は、話がわからないので相槌を打つこともできない。
黙っていると、劉備はさらに言った。
「子龍、おまえに頼みたいことがある。いま帰った若い客は張伸というのだが、わるいがそいつを樊城まで送っていってくれないか」
わかり申した、と返事をすると、劉備は、すこし声をひそめた。
「ちょいとばかり癖のある先生だからな、道々、おまえを怒らせることもあるかもしれないが、我慢して付き合ってやってくれ。ほかのやつに頼んだらまちがいなく喧嘩になる。おまえだったらだいじょうぶだろう」
おおい、水をくれ、と劉備が言うと、陰でひかえていた仕女がささっとあらわれて、杯になみなみと水を注いだ。
劉備はそれを、のどを鳴らして飲み干す。
それでも劉備の表情は晴れないままだ。
そこからして、張伸と劉備が、あまりいい話をしなかったことが察せられた。
「張伸というのは変わった若造だ。樊城ではちょっと名の知れた家の三男坊ということなのだが、今日、ふらりと新野にあらわれて、儂にどうしても話をしたいことがあると面会を求めてきた。取次ぎの人間が、見た目は悪くないし、態度は颯爽としているし、弁舌にしても淀みがないし、もしかしたら、つねづね儂が探している軍師に適当な人物かもしれませぬ、というので、儂も期待をして会ってみたのだよ。そうしたら、まあまあ、たしかに見た目はいい、ちょっとなよなよした感じだが、あれは美丈夫の部類に入るだろう。美丈夫といっても、おまえほどではないけれどな」
と劉備はさりげなくうれしがらせを言う。
たしかに趙雲は身の丈八尺ある均整のとれた体躯と、かなり配置のよい目鼻立ちの顔をもっていた。
そのうえ、育ちもそこそこ悪くないので、雰囲気に気品があり、そのうえ天下無双の武者というので、主騎(ボディーガード)として常にそばに置くには、最適であった。
劉備を初めて見る者は、これほど風貌のすぐれた人物がそばに侍っているとなると、劉備という人物にはそうとうな魅力があるにちがいないと、いいふうにかんがえるのである。
つづく…