※
漢水《かんすい》のわたしで、あれほどの恐怖を味わっていたのが嘘のように、船に乗ったひとびとは、穏やかな航路をたのしんでいた。
曹操軍はまだ荊州の水軍を把握しきれていないようすで、追ってこない。
趙雲は、なみだで腫れた顔を冷まして、真水で顔を洗い、それから劉備の元へ向かった。
途中、なつかしい顔と再会した。
夏に樊城《はんじょう》で別れた切りになっていた、胡済《こさい》である。
地味な衣をまとっているが、その目もさめるような美貌は変わっていなかった。
「生きていらしたのですね、よかったです」
と、なかなか可愛らしいことをいうな、こいつも成長したなと思っていると、中身はまったく変わっておらず、つづけた。
「あなたがたが心配だったようで、軍師は連日徹夜ですよ。
倒れるんじゃないかとひやひやしていましたが、今日でそれもおしまい。
まったく、人を心配させるにもほどがあるというものです」
孔明を心配してのことばなのだろうが、照れがあるらしく、素直になれないところが、やはり胡済である。
「おまえは相変わらずだな、偉度《いど》……でよかったか。
軍師にも、休むように俺からも言っておく」
「そうしてくださると助かります。
あの方に倒れられたら、この軍はおしまいですよ」
「これ、おしまい、などと軽々しく言うな」
割って入ってきたのは、ほかならぬ孔明だった。
「心配してくれるのは嬉しいのだけれどね、おまえはまだ口は禍の元というのを学習していないようだ。わたしが倒れたくらいで、回らなくなるようなわが軍ではないぞ」
「まったくです、口が過ぎましょうぞ」
と、孔明のとなりでぷりぷり怒っているのは陳到だった。
「ところで、この小僧は何者です」
「おまえは初対面か。これが義陽の胡偉度だ。ほら、劉公子(劉琦)のご学友だよ」
「ああ、なるほど……」
陳到は、すこし同情の色を見せたが、かんじんの胡済が陳到の目線をぷいっとよけたので、ますます
「生意気ですな」
とムッとしてしまった。
「仲良くしてくれ、二人とも。ところで叔至《しゅくし》、わが君はどちらだ」
孔明の問いに、陳到は、急にしゅんとして答えた。
「船室に籠って、泣いてらっしゃいます」
「そうか……」
趙雲としても、ことばが出ない。
だが、孔明は劉備に相談したいことがあると言って、船室に向かう。
趙雲もまた、その背中を追いかけた。
胡済もなぜだか、ちょこちょことついてくる。
船室の中で、劉備は背を丸めていた。
その劉備のかたわらには、張飛の姿はなく、代わりになぜか、使わなかっただろう大剣を抱いて座っている、例の旅装の大男の姿があった。
大男は、あいかわらずおどけた調子で言う。
「髭の大将は、船酔いだそうだよ」
「あいつめ。それで貴殿に代わりを?」
「ここじゃあ、敵も襲いようがないだろうしね。
ところで、みなそろって、どうしたのだい」
大男の声に反応するように、うつむいていた劉備が猫背のまま振り返る。
その顔は涙でくしゃくしゃで、鼻水も垂れっぱなしだった。
よほど麋夫人の死がこたえたのだろう。
劉備にあまりに申し訳なく、趙雲が口を開こうとしたところ、さきに劉備のほうが言った。
「おまえのせいじゃない、子龍。悲しいことだが、あれの死は、だれのせいでもない。
しいて言うなら、曹操のせいだ」
「しかし」
「そうなのだとおもってくれ。わしは自分に力がなかったことが悔しい。
もっと強ければ、あれを失うこともなかったろうに……何もできなかった!」
絞り出した声にだれもが答えられないでいる。
劉備はつづけて趙雲に言った。
「子龍よ、これからもしわしが、またおかしな判断をするようなことがあったら、おまえは必ずわしを止めてくれ」
「仰せのとおりにいたします。必ずや」
「わしは馬鹿だった。みなから慕われたことに有頂天になって、結局みなを地獄に連れて行ってしまったのだ。
悔やんでも悔やみきれぬ!」
すると、かたわらにいた大男が、おだやかにたずねた。
「玄徳さま、これからどうされるおつもりですかい」
どうするか、と問われて、劉備はのろのろと答えた。
「正直、どうしたらよいのか、わからぬ。これからもっと南の交州に行って、顔見知りの士燮《ししょう》に匿《かくま》ってもらうか……あるいは、そのまま益州に抜けて、同族のよしみを頼って、劉璋どのにすがるか……」
「益州の劉璋は頼りになりますまい。かれは強い者には巻かれる男。
つぎは自分の番かもしれぬというのに、曹操に慶賀の使者を送ったそうですから」
その情報に、趙雲と孔明は、おもわず顔を見合わせる。
この大男がただ者ではなさそうだと思ってはいたが、これほどの情報を持っているとは、意外であった。
「益州もダメとなると、交州にいくほかないな」
劉備が気が進まない様子でぽつりと漏らす。
それはそうだろう。
交州となると中華の最南端。
しかも、風土病が蔓延する過酷な土地だという話も聞く。
代案がないだろうかと趙雲が思案していると、また大男が言葉を添えた。
「劉豫洲、孫討虜将軍と結ばれてはいかがか?」
「孫討虜将軍……孫権どのか。江東の?」
「左様。将軍もまた、曹操の侵略を警戒し、ともに戦う仲間を求めているのです」
こいつ、何者だ。
趙雲が構えるのと同時に、孔明が問う。
「貴殿は、何者だ?」
すると大男は大剣を下ろし、それから孔明と劉備のほうに丁寧に向き直ると、礼を取った。
「われは魯粛。あざなを子敬ともうす。
あるじ孫討虜将軍の使者として江東より参った」
「魯粛! あの、大富豪が、君か」
劉備がおどろいているのをしり目に、魯子敬はふところから爵里刺《しゃくりし》をしめして、その名が確かであると見せた。
魯子敬……魯粛は、孔明のほうを見ると、にっと歯を見せて笑った。
「おれはあんたの兄上の友人だ」
「貴殿のはなしは兄から聞いたことがある。
兄によれば、孫将軍に、天下を取れとはっきり明言した、変わり者の富豪がいると」
魯粛はそれを聞くと、豪快に笑った。
「子瑜どのはあんたにそう伝えたか。たしかに、まちがってはいない。
おれとしても、天下を三つに分けてから統一をはかるというあんたの戦略には驚いたよ。
似たような考えを持つやつが、ほかにいたのかとな」
魯粛はそこで言葉をきり、あらためて劉備と孔明に向き直った。
「玄徳どの、この孔明どのを使者として、わが陣営に遣わす気はありませぬか」
「孔明を? なぜ」
「曹操は、つぎはまちがいなくわれら江東の勢力の一掃を狙うでしょう。
それを受けて、いま国では論がふたつに分かれているのです。
降伏か、開戦か……おれとしては、なんとしてもわが将軍には、曹操と戦って勝っていただきたい。
玄徳どのとて、このままでは終われないはず。
わが将軍と同盟を組んで、曹操に対抗するのです。
そのための使者として、孔明どのがほしい。いかがですかな」
「同盟、か」
劉備はそれを聞き、しばらく腕を組み思案していた。
趙雲がちらりと孔明のほうを見ると、こころがすでに決まっているらしく、さきほどまで青白かった頬に、赤みがさしている。
「よし、わかった」
劉備は目をひらくと、魯粛に言った。
「子敬どの、話は承った。孔明を使者にやるので、よろしく同盟の件、取り結んでいただきたい」
「わかり申した。では、さっそく孔明どのとともに江東へ向かいます……そうこなくちゃ!」
「ただし、孔明ひとりを行かせるわけにはいかん。
子龍を主騎につけたい。それでよろしいか」
「もちろん」
すると、孔明が進み出て、言った。
「わが君、もうひとり、同道させたい者がおります。ここに控える胡偉度を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「なんですって!」
孔明の提案に不平を鳴らしたのは、ほからなぬ胡済本人であった。
「どうしてわたしが!」
「おまえの矯正をするためだ。あざなを授けた者として、反論はゆるさぬ」
「めちゃくちゃだ。では、劉琦さまはそのあいだ、どうなるというのです」
「劉琦君は、わしらと一緒にいればいい。かならずやお守りするゆえ、問題はないぞ」
劉備にそう言われては、胡済もわかりましたと答えるほかはない様子だ。
不満そうにぶちぶち言いつづけているが、孔明はまったく無視して、言った。
「忙しくなるな。江東か……どのような人々がいるのだろう」
孔明のことばには、期待が多く含まれているように聞こえた。
みじんも不安を抱えていない様子なのは、さすがに強気な孔明らしい。
趙雲もまた、気を引き締めて江東へ向かう支度をはじめるのだった。
かくて、二匹の龍は、大戦に向かって飛躍する。
その働きと顛末は、またべつの話として語ることになる。
いまはただ、船は夏口へと、波間をぬって、しずかに向かっていくのだった。
地這う龍 おわり
漢水《かんすい》のわたしで、あれほどの恐怖を味わっていたのが嘘のように、船に乗ったひとびとは、穏やかな航路をたのしんでいた。
曹操軍はまだ荊州の水軍を把握しきれていないようすで、追ってこない。
趙雲は、なみだで腫れた顔を冷まして、真水で顔を洗い、それから劉備の元へ向かった。
途中、なつかしい顔と再会した。
夏に樊城《はんじょう》で別れた切りになっていた、胡済《こさい》である。
地味な衣をまとっているが、その目もさめるような美貌は変わっていなかった。
「生きていらしたのですね、よかったです」
と、なかなか可愛らしいことをいうな、こいつも成長したなと思っていると、中身はまったく変わっておらず、つづけた。
「あなたがたが心配だったようで、軍師は連日徹夜ですよ。
倒れるんじゃないかとひやひやしていましたが、今日でそれもおしまい。
まったく、人を心配させるにもほどがあるというものです」
孔明を心配してのことばなのだろうが、照れがあるらしく、素直になれないところが、やはり胡済である。
「おまえは相変わらずだな、偉度《いど》……でよかったか。
軍師にも、休むように俺からも言っておく」
「そうしてくださると助かります。
あの方に倒れられたら、この軍はおしまいですよ」
「これ、おしまい、などと軽々しく言うな」
割って入ってきたのは、ほかならぬ孔明だった。
「心配してくれるのは嬉しいのだけれどね、おまえはまだ口は禍の元というのを学習していないようだ。わたしが倒れたくらいで、回らなくなるようなわが軍ではないぞ」
「まったくです、口が過ぎましょうぞ」
と、孔明のとなりでぷりぷり怒っているのは陳到だった。
「ところで、この小僧は何者です」
「おまえは初対面か。これが義陽の胡偉度だ。ほら、劉公子(劉琦)のご学友だよ」
「ああ、なるほど……」
陳到は、すこし同情の色を見せたが、かんじんの胡済が陳到の目線をぷいっとよけたので、ますます
「生意気ですな」
とムッとしてしまった。
「仲良くしてくれ、二人とも。ところで叔至《しゅくし》、わが君はどちらだ」
孔明の問いに、陳到は、急にしゅんとして答えた。
「船室に籠って、泣いてらっしゃいます」
「そうか……」
趙雲としても、ことばが出ない。
だが、孔明は劉備に相談したいことがあると言って、船室に向かう。
趙雲もまた、その背中を追いかけた。
胡済もなぜだか、ちょこちょことついてくる。
船室の中で、劉備は背を丸めていた。
その劉備のかたわらには、張飛の姿はなく、代わりになぜか、使わなかっただろう大剣を抱いて座っている、例の旅装の大男の姿があった。
大男は、あいかわらずおどけた調子で言う。
「髭の大将は、船酔いだそうだよ」
「あいつめ。それで貴殿に代わりを?」
「ここじゃあ、敵も襲いようがないだろうしね。
ところで、みなそろって、どうしたのだい」
大男の声に反応するように、うつむいていた劉備が猫背のまま振り返る。
その顔は涙でくしゃくしゃで、鼻水も垂れっぱなしだった。
よほど麋夫人の死がこたえたのだろう。
劉備にあまりに申し訳なく、趙雲が口を開こうとしたところ、さきに劉備のほうが言った。
「おまえのせいじゃない、子龍。悲しいことだが、あれの死は、だれのせいでもない。
しいて言うなら、曹操のせいだ」
「しかし」
「そうなのだとおもってくれ。わしは自分に力がなかったことが悔しい。
もっと強ければ、あれを失うこともなかったろうに……何もできなかった!」
絞り出した声にだれもが答えられないでいる。
劉備はつづけて趙雲に言った。
「子龍よ、これからもしわしが、またおかしな判断をするようなことがあったら、おまえは必ずわしを止めてくれ」
「仰せのとおりにいたします。必ずや」
「わしは馬鹿だった。みなから慕われたことに有頂天になって、結局みなを地獄に連れて行ってしまったのだ。
悔やんでも悔やみきれぬ!」
すると、かたわらにいた大男が、おだやかにたずねた。
「玄徳さま、これからどうされるおつもりですかい」
どうするか、と問われて、劉備はのろのろと答えた。
「正直、どうしたらよいのか、わからぬ。これからもっと南の交州に行って、顔見知りの士燮《ししょう》に匿《かくま》ってもらうか……あるいは、そのまま益州に抜けて、同族のよしみを頼って、劉璋どのにすがるか……」
「益州の劉璋は頼りになりますまい。かれは強い者には巻かれる男。
つぎは自分の番かもしれぬというのに、曹操に慶賀の使者を送ったそうですから」
その情報に、趙雲と孔明は、おもわず顔を見合わせる。
この大男がただ者ではなさそうだと思ってはいたが、これほどの情報を持っているとは、意外であった。
「益州もダメとなると、交州にいくほかないな」
劉備が気が進まない様子でぽつりと漏らす。
それはそうだろう。
交州となると中華の最南端。
しかも、風土病が蔓延する過酷な土地だという話も聞く。
代案がないだろうかと趙雲が思案していると、また大男が言葉を添えた。
「劉豫洲、孫討虜将軍と結ばれてはいかがか?」
「孫討虜将軍……孫権どのか。江東の?」
「左様。将軍もまた、曹操の侵略を警戒し、ともに戦う仲間を求めているのです」
こいつ、何者だ。
趙雲が構えるのと同時に、孔明が問う。
「貴殿は、何者だ?」
すると大男は大剣を下ろし、それから孔明と劉備のほうに丁寧に向き直ると、礼を取った。
「われは魯粛。あざなを子敬ともうす。
あるじ孫討虜将軍の使者として江東より参った」
「魯粛! あの、大富豪が、君か」
劉備がおどろいているのをしり目に、魯子敬はふところから爵里刺《しゃくりし》をしめして、その名が確かであると見せた。
魯子敬……魯粛は、孔明のほうを見ると、にっと歯を見せて笑った。
「おれはあんたの兄上の友人だ」
「貴殿のはなしは兄から聞いたことがある。
兄によれば、孫将軍に、天下を取れとはっきり明言した、変わり者の富豪がいると」
魯粛はそれを聞くと、豪快に笑った。
「子瑜どのはあんたにそう伝えたか。たしかに、まちがってはいない。
おれとしても、天下を三つに分けてから統一をはかるというあんたの戦略には驚いたよ。
似たような考えを持つやつが、ほかにいたのかとな」
魯粛はそこで言葉をきり、あらためて劉備と孔明に向き直った。
「玄徳どの、この孔明どのを使者として、わが陣営に遣わす気はありませぬか」
「孔明を? なぜ」
「曹操は、つぎはまちがいなくわれら江東の勢力の一掃を狙うでしょう。
それを受けて、いま国では論がふたつに分かれているのです。
降伏か、開戦か……おれとしては、なんとしてもわが将軍には、曹操と戦って勝っていただきたい。
玄徳どのとて、このままでは終われないはず。
わが将軍と同盟を組んで、曹操に対抗するのです。
そのための使者として、孔明どのがほしい。いかがですかな」
「同盟、か」
劉備はそれを聞き、しばらく腕を組み思案していた。
趙雲がちらりと孔明のほうを見ると、こころがすでに決まっているらしく、さきほどまで青白かった頬に、赤みがさしている。
「よし、わかった」
劉備は目をひらくと、魯粛に言った。
「子敬どの、話は承った。孔明を使者にやるので、よろしく同盟の件、取り結んでいただきたい」
「わかり申した。では、さっそく孔明どのとともに江東へ向かいます……そうこなくちゃ!」
「ただし、孔明ひとりを行かせるわけにはいかん。
子龍を主騎につけたい。それでよろしいか」
「もちろん」
すると、孔明が進み出て、言った。
「わが君、もうひとり、同道させたい者がおります。ここに控える胡偉度を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「なんですって!」
孔明の提案に不平を鳴らしたのは、ほからなぬ胡済本人であった。
「どうしてわたしが!」
「おまえの矯正をするためだ。あざなを授けた者として、反論はゆるさぬ」
「めちゃくちゃだ。では、劉琦さまはそのあいだ、どうなるというのです」
「劉琦君は、わしらと一緒にいればいい。かならずやお守りするゆえ、問題はないぞ」
劉備にそう言われては、胡済もわかりましたと答えるほかはない様子だ。
不満そうにぶちぶち言いつづけているが、孔明はまったく無視して、言った。
「忙しくなるな。江東か……どのような人々がいるのだろう」
孔明のことばには、期待が多く含まれているように聞こえた。
みじんも不安を抱えていない様子なのは、さすがに強気な孔明らしい。
趙雲もまた、気を引き締めて江東へ向かう支度をはじめるのだった。
かくて、二匹の龍は、大戦に向かって飛躍する。
その働きと顛末は、またべつの話として語ることになる。
いまはただ、船は夏口へと、波間をぬって、しずかに向かっていくのだった。
地這う龍 おわり
※ 「地這う龍」、最後まで読んでくださったすべてのみなさまに感謝申し上げます!
どうもありがとうございました!(^^)!
おかげさまでなんとか終わりました……
次回は「あとがき」、その次が「番外編・甘寧の物語」となります。
あわせてどうぞおたのしみに!
それと、ブログ村に投票してくださった方、ありがとうございましたー!
とっても励みになります(^^♪
ただいま「赤壁編」を急ピッチで制作中です。
まだまだお話はつづきますので、これからも引き続き応援していただけるとさいわいですv
ではでは、また次回にお会いしましょう('ω')ノ