※
長阪橋を燃やしたのがまずかったらしく、いったんは罠をおそれて退いた曹操軍は、すぐにまた追撃を再開してきた。
橋を燃やすということは、むしろ罠などないのだと曹操が看破したためであろう。
その点は、張飛を責められない。
張飛は張飛で、せいいっぱい時間を稼いだのだ。
相手が曹操でなければ、あるいは、もうすこし展開がちがったのかもしれないが。
そんなことをかんがえても詮無《せんな》いなと、趙雲はふたたび馬上のひととなりながら、おもう。
残っていた手勢は、しつこく曹操軍に追い散らされつづけているうちに、さらに減っていた。
逃げに逃げて、いま、漢水のほとりに追い詰められている。
ちょうど趙雲たちの北に、漢水《かんすい》は流れていた。
夜明けとともに川面に靄が発生し、おかげで劉備たちは守られている格好だ。
足元は、馬にとっては戦いづらい、ぬかるみ。
生き残った者は、葦のしげみに身をひそめるようにして、曹操軍の襲来にそなえている。
だれもが、もはや生き残ることしか考えていない。
それぞれの目は、真っ白くぎらぎらと輝いていた。
その輝きがあるうちは、抵抗ができるだろうと、趙雲は踏んでいた。
民の数もおそろしく減った。
それを見ると、さすがの趙雲の臓腑もきりりと痛んだ。
もっと自分たちがしっかりしていれば、民を救うことができたのではと、その思いが消えない。
漢水の渡しにあるのは、朽ちかけた小舟ばかりで、とてもではないが、劉備たち軍隊と、残された民を対岸に運べるようなものではなかった。
靄の向こうから船影が近づいてきたなら、どれだけよいだろう。
関羽や孔明たちは、いったいどうしてしまったのか……
「せめて、わが君とご家族だけでも小舟に乗せるべきでは?」
麋芳《びほう》が趙雲と目線を合わせないまま、言う。
麋芳は、趙雲が裏切ったと言いふらしたことを気まずく思っているらしく、趙雲が帰還して以来、まともに顔を合わせようとしない。
たしかに麋芳は、出来の良い兄とくらべて凡愚である。
ただ、その提案は悪くないと、趙雲は思った。
「子方《しほう》(麋芳)どのの言うとおりです、わが君、奥方様がたと、お早く小舟へお移りください」
劉備にうながす。
しかし、劉備は気が進まないようで、
「御辺らと別れてわれらだけ生き延びて、何の意味があろうか。
第一、子龍、おまえはどうする」
「ここで死に花を咲かせるもの一興さ」
と、趙雲の代わりに、張飛が答えた。
「死ぬつもりか、ならぬぞ、益徳! 子龍もだ。
ここまでせっかく生き延びたのだ、ともに生き延びる方策を考えようではないか」
すると張飛は、いさぎよく首を左右に振った。
「策なんて、考えているひまはねぇよ、兄者。
俺たちの一番の望みは、兄者に生き乗って、再起してもらうこと。それだけだ。
曹操の追撃は、おれと子龍でなんとかする。
櫓《ろ》は叔至が受け持つから、兄者たちは早く小舟に乗り換えてくれ」
「しかし」
「ほら、なんだかんだ言っているあいだに、奴さんたち、御到着だぜ」
すこしでも江夏に近づこうと、長坂橋のある当陽から東へ向かっていた趙雲らに、とうとう曹操軍が追いかけてきた。
土煙《つちけむり》をあげて、余裕すら感じさせる足並みで近づいてくる敵の数は、おそらく一万は超える。
趙雲は、まめだらけの手でぐっと槍の柄をにぎった。
先だっての戦いの影響はまだ残っていて、からだのあちこちがすでに悲鳴をあげている。
だが、だからなんだという。
張飛のいうとおり、ここで死に花を咲かせてみせる。
そして、劉備たち家族をなんとしても対岸へ渡す、その時間を稼ぐのだ。
「やれやれ、結局こうなっちまったか。おれたちは、船に乗れないだろうねえ」
と、ぼやいたのは、例の旅装の大男であった。
いつの間にひろったのか、大剣を手にして、敵に備えているのだが、顔には苦いものが走っている。
「運が悪かったな。俺たちと同道せず、とちゅうで別れるべきだった」
「そうはいっても、おれとしても、こちらの殿様がどこまで生き残れるか、興味があったものでね」
「その物好きが命取りだ……すまんな」
「なぜ謝るのだい」
「謝ったほうがいいような気がした。だからだ」
趙雲の脳裏には、孔明の顔が浮かんでいる。
決して死ぬなと孔明は言った。
だがこうなっては、もう約束は守れそうにない。
これから先、だれがあいつを、そしてわが君を守っていくのだろう。
ちらっと振り返って陳到のほうを見る。
あいつもたしかに強いが、あいつの場合、自分の家族を優先させがちなところがあるからな。
心配だ……そう思って見ていると、その陳到が、上空を見て、あっ、と叫んでいる。
それにつられて、劉備たち家族も、上空を見て、何かを見つけ、口々におどろきの声をあげていた。
すでに曹操の騎兵は、すぐ目と鼻の先にまで迫っていた。
それぞれの名だたる武将たちの姓を染め上げた旗が、はっきり認識できるほどの距離だ。
こちらの恐怖を煽ろうとしているわけでもなかろうが、ゆったりと前進してきている。
生き残った者たちのうち、兵たちは誇りをかけて劉備の盾にならんと身構え、民たちは息をのんで、葦原に隠れる。
その背後で空を指す劉備たちのうごきにつられ、趙雲もまた、空を見上げた。
つづく
長阪橋を燃やしたのがまずかったらしく、いったんは罠をおそれて退いた曹操軍は、すぐにまた追撃を再開してきた。
橋を燃やすということは、むしろ罠などないのだと曹操が看破したためであろう。
その点は、張飛を責められない。
張飛は張飛で、せいいっぱい時間を稼いだのだ。
相手が曹操でなければ、あるいは、もうすこし展開がちがったのかもしれないが。
そんなことをかんがえても詮無《せんな》いなと、趙雲はふたたび馬上のひととなりながら、おもう。
残っていた手勢は、しつこく曹操軍に追い散らされつづけているうちに、さらに減っていた。
逃げに逃げて、いま、漢水のほとりに追い詰められている。
ちょうど趙雲たちの北に、漢水《かんすい》は流れていた。
夜明けとともに川面に靄が発生し、おかげで劉備たちは守られている格好だ。
足元は、馬にとっては戦いづらい、ぬかるみ。
生き残った者は、葦のしげみに身をひそめるようにして、曹操軍の襲来にそなえている。
だれもが、もはや生き残ることしか考えていない。
それぞれの目は、真っ白くぎらぎらと輝いていた。
その輝きがあるうちは、抵抗ができるだろうと、趙雲は踏んでいた。
民の数もおそろしく減った。
それを見ると、さすがの趙雲の臓腑もきりりと痛んだ。
もっと自分たちがしっかりしていれば、民を救うことができたのではと、その思いが消えない。
漢水の渡しにあるのは、朽ちかけた小舟ばかりで、とてもではないが、劉備たち軍隊と、残された民を対岸に運べるようなものではなかった。
靄の向こうから船影が近づいてきたなら、どれだけよいだろう。
関羽や孔明たちは、いったいどうしてしまったのか……
「せめて、わが君とご家族だけでも小舟に乗せるべきでは?」
麋芳《びほう》が趙雲と目線を合わせないまま、言う。
麋芳は、趙雲が裏切ったと言いふらしたことを気まずく思っているらしく、趙雲が帰還して以来、まともに顔を合わせようとしない。
たしかに麋芳は、出来の良い兄とくらべて凡愚である。
ただ、その提案は悪くないと、趙雲は思った。
「子方《しほう》(麋芳)どのの言うとおりです、わが君、奥方様がたと、お早く小舟へお移りください」
劉備にうながす。
しかし、劉備は気が進まないようで、
「御辺らと別れてわれらだけ生き延びて、何の意味があろうか。
第一、子龍、おまえはどうする」
「ここで死に花を咲かせるもの一興さ」
と、趙雲の代わりに、張飛が答えた。
「死ぬつもりか、ならぬぞ、益徳! 子龍もだ。
ここまでせっかく生き延びたのだ、ともに生き延びる方策を考えようではないか」
すると張飛は、いさぎよく首を左右に振った。
「策なんて、考えているひまはねぇよ、兄者。
俺たちの一番の望みは、兄者に生き乗って、再起してもらうこと。それだけだ。
曹操の追撃は、おれと子龍でなんとかする。
櫓《ろ》は叔至が受け持つから、兄者たちは早く小舟に乗り換えてくれ」
「しかし」
「ほら、なんだかんだ言っているあいだに、奴さんたち、御到着だぜ」
すこしでも江夏に近づこうと、長坂橋のある当陽から東へ向かっていた趙雲らに、とうとう曹操軍が追いかけてきた。
土煙《つちけむり》をあげて、余裕すら感じさせる足並みで近づいてくる敵の数は、おそらく一万は超える。
趙雲は、まめだらけの手でぐっと槍の柄をにぎった。
先だっての戦いの影響はまだ残っていて、からだのあちこちがすでに悲鳴をあげている。
だが、だからなんだという。
張飛のいうとおり、ここで死に花を咲かせてみせる。
そして、劉備たち家族をなんとしても対岸へ渡す、その時間を稼ぐのだ。
「やれやれ、結局こうなっちまったか。おれたちは、船に乗れないだろうねえ」
と、ぼやいたのは、例の旅装の大男であった。
いつの間にひろったのか、大剣を手にして、敵に備えているのだが、顔には苦いものが走っている。
「運が悪かったな。俺たちと同道せず、とちゅうで別れるべきだった」
「そうはいっても、おれとしても、こちらの殿様がどこまで生き残れるか、興味があったものでね」
「その物好きが命取りだ……すまんな」
「なぜ謝るのだい」
「謝ったほうがいいような気がした。だからだ」
趙雲の脳裏には、孔明の顔が浮かんでいる。
決して死ぬなと孔明は言った。
だがこうなっては、もう約束は守れそうにない。
これから先、だれがあいつを、そしてわが君を守っていくのだろう。
ちらっと振り返って陳到のほうを見る。
あいつもたしかに強いが、あいつの場合、自分の家族を優先させがちなところがあるからな。
心配だ……そう思って見ていると、その陳到が、上空を見て、あっ、と叫んでいる。
それにつられて、劉備たち家族も、上空を見て、何かを見つけ、口々におどろきの声をあげていた。
すでに曹操の騎兵は、すぐ目と鼻の先にまで迫っていた。
それぞれの名だたる武将たちの姓を染め上げた旗が、はっきり認識できるほどの距離だ。
こちらの恐怖を煽ろうとしているわけでもなかろうが、ゆったりと前進してきている。
生き残った者たちのうち、兵たちは誇りをかけて劉備の盾にならんと身構え、民たちは息をのんで、葦原に隠れる。
その背後で空を指す劉備たちのうごきにつられ、趙雲もまた、空を見上げた。
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます!(^^)!
昨日はたくさんの方に見ていただけたようで、うれしいです(^^♪
このブログには新旧あわせて、いろいろありますので、ゆっくり見ていってくださいねー!
さて、例の「箱書き」ですが、小箱を除いて、ほぼ形になりました。
あとは、細かいところを調整すればなんとかなりそうです。
まさに突貫工事といったところ;
なるべく連載の間をあけてしまわないよう、努力してまいりますー。
ではでは、次回をおたのしみにー(*^▽^*)