蔡瑁は、拷問部屋に入ってくるなり、張允《ちょういん》に踏みつけられている徐庶を無感動な顔で見つめてきた。
「訴状は取り上げたのか」
「もちろんでございます。こんなものが丞相の手元に渡ったら……」
「わかっておる。さすがにわしもおまえも御終いじゃ。
しかし面倒な。出撃の前に、こやつに、おのが罪を認めさせねばならんとはな」
出撃、と聞いて、張允が徐庶を踏みつけていた足を止めた。
「出撃と申しますと?」
「聞いておらぬのか、のんきな奴め。おまえもすぐに支度をせよ。
丞相は夜明けとともに江東へ出撃することを決められたのだ」
「なんと。では、いよいよ決戦で?」
問われて、蔡瑁は訳知り顔になって、よく手入れのされたあごひげを手で弄んだ。
「そうではあるまい。じつはさきほど、陸口《りくこう》に派遣されていた使者が帰って来たのだ。
それが、周瑜のやつにかなり愚弄されて帰って来たようでな。
さすがの丞相も怒り心頭で、目にもの見せてくれると出撃を決められたのだ。だがな」
「だが?」
「お怒りなのは、おそらくそうわれらに見せているだけのもので、本心は、単に江東の軍の実力を測りたいというところではないのかな」
「なるほど。江東の水軍の実力がどれほどのものか、曹丞相はご存じありませぬからなあ。
さすがは徳珪《とくけい》(蔡瑁)どの、そこまで丞相のお心を理解されているとは」
と、張允はみごとな腰ぎんちゃくぶりを見せて、蔡瑁の明察を褒めあげた。
蔡瑁はまんざらでもない様子で、笑みを浮かべつつ、徐庶を見下ろす。
「われらはこの戦で、だれにも替えが効かない人間だと軍中に知らしめねばならぬ。
こやつに邪魔されるわけにはいかんのだ」
「おれを消したところで、流行り病が広がるのは、止められぬぞ」
徐庶がうめくように言うと、蔡瑁は厳しい顔で応じた。
「おまえを生かしたら、おまえは丞相にあることないことを吹き込むであろうが!」
「事実しか言わぬ。おまえたちが、あの建屋に病人を押し込めて、流行り病を隠蔽していることをな」
「黙れっ! 流行り病なんぞ、ないのだ!」
叫べば、言葉がそのまま真実になると信じているような勢いだった。
「呆れるぜ、あんたら、ろくな死に方しないぞ」
徐庶が憎まれ口をたたくと、それを黙らせるべく、張允がまた徐庶を痛烈に蹴飛ばしてきた。
その痛みに耐えかねて、徐庶がうめくと、蔡瑁は唇をゆがめて笑う。
そして、部屋の隅っこで成り行きを見つめていた医者の鍾獏に命じた。
「鍾獏《しょうばく》よ、こやつが『おのれの罪』を認めるまで、拷問にかけよ。
自白するならそれでよし、自白せぬようならば……わかっておるな?」
「心得ております」
鍾獏が慇懃《いんぎん》に礼を取ると、蔡瑁と張允はそれぞれ拷問部屋から出て行った。
ふたりの背中をじっと見つめていた鍾獏が、徐庶を振り返る。
その目は冷たく、徐庶のために面倒ごとを抱えたことを恨んでいるのは、あきらかであった。
鍾獏は、さきほどの卑屈なまでの低姿勢をあらため、大男に命じた。
「聞いていたな? こいつを適当に痛めつけろ」
「適当って、どういうふうですかね?」
やはり、あまり賢くない様子の大男が、きょとんとした様子で尋ねるのを、医者の鍾獏は苛立って答える。
「そこの火桶にある焼き鏝で、肌を焼いてみろ。たいがいはそれで吐く!
すこしは知恵を働かせろ、馬鹿者めっ」
「おいおい、おれは牛や豚じゃないんだぜ」
徐庶がまぜっかえすと、鍾獏は鼻の上に皺を寄せて、憎々し気に言った。
「黙れ! 貴様のせいで叱られる羽目になったではないかっ!
わたしとて、こんな役目はしたくないのだ」
「じゃあ、やらなけりゃいいだろう」
「やらねば、わたしに害がおよぶ。蔡都督に逆らって、この荊州でうまくやってこられた人間はおらぬ」
「あんたが最初のうまくやれた人間になりゃいいじゃないか」
「減らず口を。わしを心変わりさせようとしても無理だぞ。
ほれ、ぼおっとしておらんで、そこの焼き鏝《ごて》を持ってこい! そいつをこいつの腕に押し付けるのだ!」
大男は妙に素直に、焼き鏝をじっくり火桶であたためてから、その真っ赤に熱された鉄のかたまりを徐庶のからだに近づけてくる。
その熱さは、衣のうえからもはっきりわかるほどだった。
『くそっ、こんな目に遭うとはな!』
さすがに焼き鏝を押し付けられたことは、生涯で一度もない。
徐庶はぎゅっと目をつむり、やってくるだろう激しい痛みに耐えることにした。
しかし、さいわいというべきか。
その真っ赤に熱せられた焼き鏝は、徐庶の身体に押し当てられることはなかった。
拷問部屋の表で、騒ぎが起こったのである。
鍾獏と大男は、騒ぎにつられて、顔を外に向けた。
きん、がん、と金属のぶつかり合う音が聞こえてくる。
はっきりした声で、だれかが「敵襲だっ」と叫んでいるのが聞こえた。
「敵だと? なぜこんな要塞の内部に?」
鍾獏がおろおろしているのを見て、大男もまた、どうしたらよいかわからなくなったらしく、焼き鏝を持ったまま、つぶやいた。
「困ったな、それじゃあ、敵が来る前に、さっさと仕事を片付けちまわないと、また叱られちまう」
ありがたくないことに、鍾獏が外に気を取られているというのに、大男のほうは、粛々と拷問のつづきをしようとする。
徐庶は今度は目を開き、芋虫のように地面に這いずって、男の手から逃れようとした。
しかし、なかなか体が思うように動かない。
足だけを頼りに、けんめいに後ずさる。
大男は、
「逃げるなよ、面倒なやつめ」
と悪態をついて追いかけてくる。
つづく
「訴状は取り上げたのか」
「もちろんでございます。こんなものが丞相の手元に渡ったら……」
「わかっておる。さすがにわしもおまえも御終いじゃ。
しかし面倒な。出撃の前に、こやつに、おのが罪を認めさせねばならんとはな」
出撃、と聞いて、張允が徐庶を踏みつけていた足を止めた。
「出撃と申しますと?」
「聞いておらぬのか、のんきな奴め。おまえもすぐに支度をせよ。
丞相は夜明けとともに江東へ出撃することを決められたのだ」
「なんと。では、いよいよ決戦で?」
問われて、蔡瑁は訳知り顔になって、よく手入れのされたあごひげを手で弄んだ。
「そうではあるまい。じつはさきほど、陸口《りくこう》に派遣されていた使者が帰って来たのだ。
それが、周瑜のやつにかなり愚弄されて帰って来たようでな。
さすがの丞相も怒り心頭で、目にもの見せてくれると出撃を決められたのだ。だがな」
「だが?」
「お怒りなのは、おそらくそうわれらに見せているだけのもので、本心は、単に江東の軍の実力を測りたいというところではないのかな」
「なるほど。江東の水軍の実力がどれほどのものか、曹丞相はご存じありませぬからなあ。
さすがは徳珪《とくけい》(蔡瑁)どの、そこまで丞相のお心を理解されているとは」
と、張允はみごとな腰ぎんちゃくぶりを見せて、蔡瑁の明察を褒めあげた。
蔡瑁はまんざらでもない様子で、笑みを浮かべつつ、徐庶を見下ろす。
「われらはこの戦で、だれにも替えが効かない人間だと軍中に知らしめねばならぬ。
こやつに邪魔されるわけにはいかんのだ」
「おれを消したところで、流行り病が広がるのは、止められぬぞ」
徐庶がうめくように言うと、蔡瑁は厳しい顔で応じた。
「おまえを生かしたら、おまえは丞相にあることないことを吹き込むであろうが!」
「事実しか言わぬ。おまえたちが、あの建屋に病人を押し込めて、流行り病を隠蔽していることをな」
「黙れっ! 流行り病なんぞ、ないのだ!」
叫べば、言葉がそのまま真実になると信じているような勢いだった。
「呆れるぜ、あんたら、ろくな死に方しないぞ」
徐庶が憎まれ口をたたくと、それを黙らせるべく、張允がまた徐庶を痛烈に蹴飛ばしてきた。
その痛みに耐えかねて、徐庶がうめくと、蔡瑁は唇をゆがめて笑う。
そして、部屋の隅っこで成り行きを見つめていた医者の鍾獏に命じた。
「鍾獏《しょうばく》よ、こやつが『おのれの罪』を認めるまで、拷問にかけよ。
自白するならそれでよし、自白せぬようならば……わかっておるな?」
「心得ております」
鍾獏が慇懃《いんぎん》に礼を取ると、蔡瑁と張允はそれぞれ拷問部屋から出て行った。
ふたりの背中をじっと見つめていた鍾獏が、徐庶を振り返る。
その目は冷たく、徐庶のために面倒ごとを抱えたことを恨んでいるのは、あきらかであった。
鍾獏は、さきほどの卑屈なまでの低姿勢をあらため、大男に命じた。
「聞いていたな? こいつを適当に痛めつけろ」
「適当って、どういうふうですかね?」
やはり、あまり賢くない様子の大男が、きょとんとした様子で尋ねるのを、医者の鍾獏は苛立って答える。
「そこの火桶にある焼き鏝で、肌を焼いてみろ。たいがいはそれで吐く!
すこしは知恵を働かせろ、馬鹿者めっ」
「おいおい、おれは牛や豚じゃないんだぜ」
徐庶がまぜっかえすと、鍾獏は鼻の上に皺を寄せて、憎々し気に言った。
「黙れ! 貴様のせいで叱られる羽目になったではないかっ!
わたしとて、こんな役目はしたくないのだ」
「じゃあ、やらなけりゃいいだろう」
「やらねば、わたしに害がおよぶ。蔡都督に逆らって、この荊州でうまくやってこられた人間はおらぬ」
「あんたが最初のうまくやれた人間になりゃいいじゃないか」
「減らず口を。わしを心変わりさせようとしても無理だぞ。
ほれ、ぼおっとしておらんで、そこの焼き鏝《ごて》を持ってこい! そいつをこいつの腕に押し付けるのだ!」
大男は妙に素直に、焼き鏝をじっくり火桶であたためてから、その真っ赤に熱された鉄のかたまりを徐庶のからだに近づけてくる。
その熱さは、衣のうえからもはっきりわかるほどだった。
『くそっ、こんな目に遭うとはな!』
さすがに焼き鏝を押し付けられたことは、生涯で一度もない。
徐庶はぎゅっと目をつむり、やってくるだろう激しい痛みに耐えることにした。
しかし、さいわいというべきか。
その真っ赤に熱せられた焼き鏝は、徐庶の身体に押し当てられることはなかった。
拷問部屋の表で、騒ぎが起こったのである。
鍾獏と大男は、騒ぎにつられて、顔を外に向けた。
きん、がん、と金属のぶつかり合う音が聞こえてくる。
はっきりした声で、だれかが「敵襲だっ」と叫んでいるのが聞こえた。
「敵だと? なぜこんな要塞の内部に?」
鍾獏がおろおろしているのを見て、大男もまた、どうしたらよいかわからなくなったらしく、焼き鏝を持ったまま、つぶやいた。
「困ったな、それじゃあ、敵が来る前に、さっさと仕事を片付けちまわないと、また叱られちまう」
ありがたくないことに、鍾獏が外に気を取られているというのに、大男のほうは、粛々と拷問のつづきをしようとする。
徐庶は今度は目を開き、芋虫のように地面に這いずって、男の手から逃れようとした。
しかし、なかなか体が思うように動かない。
足だけを頼りに、けんめいに後ずさる。
大男は、
「逃げるなよ、面倒なやつめ」
と悪態をついて追いかけてくる。
つづく
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どうなる徐庶?
次回は水曜日です、どうぞおたのしみにー(*^▽^*)