※
そうこうしているうちに、周瑜のもとへ、曹操から使者がやってきた。
使者は四十がらみの頑固そうな顔をした男で、死をも決意して曹操のためにやってきたのは一目瞭然だ。
どうするだろうかと、孔明は大勢の将兵たちとともに、周瑜の行動を見守った。
周瑜は使者の持ってきた曹操からの親書に目を通し、ときどき、こらえきれない、というふうに笑みをこぼす。
まったく事情を知らない者がその様子をみたら、親戚が寄越した手紙をひさびさに読んで笑みをこぼしているのではと、まちがった感想を抱いてもおかしくないほどの様子だった。
周瑜があまりに余裕たっぷりの態度なので、手紙の中身を知らない将軍たちが、おなじく馬鹿にしたように笑いを浮かべ始めたほどだ。
使者はそれが我慢ならない様子である。
だんだん、使者のこめかみに青筋がたち始めているのが、孔明の目からも見えた。
「使者どの、わざわざ対岸の烏林《うりん》からご足労いただいたところ申し訳ないのだが、この親書にあるように、わたしが曹丞相と対面するときは、わたしがかれの前に膝を屈した時ではないだろう。
おそらく曹丞相がわが軍に敗れて逃げ散るときか、あるいは、我が勇猛な将の誰かに討たれた丞相の首を実験するときであろう。
せっかく美文で書かれた手紙であるが、内容には、ちと丞相の耄碌《もうろく》ぶりが反映されておるぞ、そこが残念だな」
「言葉が過ぎましょうぞ!」
使者の抗議に、しかし周瑜は動じず、尚もいう。
「すまぬな、わたしは率直なたちでな。
陸にあがった河童も同然の北の老兵に、降伏せよと居丈高に言われて冷静でもいられぬのだ」
そう言って、周瑜は、ぱっと親書を払いのけ、かたわらの魯粛に押し付けた。
魯粛がそれを拾い上げ、読み通してから、また周瑜とおなじように笑う。
「なるほど、たしかに美文ではありますな。
しかし、曹丞相は夢見がちな乙女のようなところがある様子」
「そうだ、ただし、その夢は、悪い夢のようだな。
われらが勝利するこの戦において、降伏することなどありえない」
いささか芝居がかった言い回しをしつつ、周瑜は言って、それからじろりと使者をにらんだ。
「使者どの、戻って伝えよ。周公瑾はけして孫家の者以外に膝を折る人間ではないようだと。
そして、手紙をせっせと書く暇があるのなら、無力な河童でないところを証明してみろとな」
「な、なんと無礼なっ」
使者は顔を赤黒くして震えている。
そして、周瑜をまっすぐにらんで、挑戦するように言った。
「その無礼なことば、たしかに曹丞相に伝えよう。あとで後悔なさるな」
「後悔も何も。現実を分かっていない漢賊に、折る膝を持ち合わせている者は、江東の地にはいないという事実があるだけのこと。
使者どのは、見たこと聞いたことをそのまま伝えればよいのだ」
「きっと後悔なさるぞっ」
捨て台詞を吐いて、使者は背中を向けて帷幕《いばく》から出て行った。
孔明は、周瑜が使者を斬らなかったことに感心していた。
というのも、周瑜と魯粛が読んだ手紙を、そのとなりで同じく目を通していたのだが、内容はまさに慇懃無礼《いんぎんぶれい》な脅迫文と言ったほうが正しいものだったからだ。
寛大な周郎。
その評判は、いままさに証明されたと言ってよい。
あわれなのは曹操の使者で、帰りの船に乗る途中でも、将兵の嘲笑や野次を受けつづけていた。
『これほど嘲弄されて、曹操はどう出るだろうか』
考えていると、周瑜が笑顔のまま、孔明を振り向いた。
「曹操はどう出るか、と考えてらっしゃるな?」
「よく分かりましたな」
「分かります。わたしもおなじことを考えておりましたからな。
まあ、ふたつにひとつ。我慢するか、挑戦を買うか。おそらく曹操は後者を選ぶはず」
「小手調べ、と言うわけですか」
「左様。曹操はこちらの力を測ろうとするでしょう。
そうであれば、こちらも願ったり叶ったり。
鄱陽湖《はようこ》での調練の結果を実戦で見ることができますからな」
そう言って、自信満々に周瑜は高らかに笑う。
「これで案外、決着がついてしまうかもしれませぬな。
そうなれば、孔明どのと劉豫洲の御手を煩わすこともなくなる」
冗談か真剣なのか、いまひとつ判然としないことを言って、周瑜はまた笑った。
『ずいぶんと自信があるのだな』
孔明は愛想笑いを浮かべつつも、周瑜の自信の高さに危険を感じ取っていた。
『たしかに曹操は水軍を操って戦をした経験が浅い。
しかし、いまその水軍を束ねているのは、経験の豊富な蔡瑁《さいぼう》と張允《ちょういん》。
しかも数では圧倒的に向こうが有利なのだ。
仮に曹操が攻めてきたとしても、こちらによほどの戦略がなければ、烏林の要塞に曹操軍を追い払うのが精いっぱいだろう』
周瑜は機嫌がよいようで、魯粛や程普らに、曹操の軍に備えるよう話をしている。
『仮に曹操軍が烏林から長期間も動かなかった場合、疲弊してくるのは江東の軍だ。
曹操は長期戦を見据えて、水軍の調練をすでに行っているにちがいない。
数で勝《まさ》る曹操軍が水軍で江東の軍を撃破したら、もう江東の軍にはあとがない。
柴桑《さいそう》に向けて、北からも軍が押し寄せてくるはずだ。
曹操を舐めてはいけない。百戦錬磨の古強者なのだ。
周都督は、果たして兵を鼓舞するために自信のあるようにふるまっているのだろうか。
そうではないとしたら、危ういぞ』
そう思い、周瑜のほがらかな顔を観察してみるのだが、そこに弱気な陰りはどこにもなく、孔明はますます危うさを感じるのだった。
つづく
そうこうしているうちに、周瑜のもとへ、曹操から使者がやってきた。
使者は四十がらみの頑固そうな顔をした男で、死をも決意して曹操のためにやってきたのは一目瞭然だ。
どうするだろうかと、孔明は大勢の将兵たちとともに、周瑜の行動を見守った。
周瑜は使者の持ってきた曹操からの親書に目を通し、ときどき、こらえきれない、というふうに笑みをこぼす。
まったく事情を知らない者がその様子をみたら、親戚が寄越した手紙をひさびさに読んで笑みをこぼしているのではと、まちがった感想を抱いてもおかしくないほどの様子だった。
周瑜があまりに余裕たっぷりの態度なので、手紙の中身を知らない将軍たちが、おなじく馬鹿にしたように笑いを浮かべ始めたほどだ。
使者はそれが我慢ならない様子である。
だんだん、使者のこめかみに青筋がたち始めているのが、孔明の目からも見えた。
「使者どの、わざわざ対岸の烏林《うりん》からご足労いただいたところ申し訳ないのだが、この親書にあるように、わたしが曹丞相と対面するときは、わたしがかれの前に膝を屈した時ではないだろう。
おそらく曹丞相がわが軍に敗れて逃げ散るときか、あるいは、我が勇猛な将の誰かに討たれた丞相の首を実験するときであろう。
せっかく美文で書かれた手紙であるが、内容には、ちと丞相の耄碌《もうろく》ぶりが反映されておるぞ、そこが残念だな」
「言葉が過ぎましょうぞ!」
使者の抗議に、しかし周瑜は動じず、尚もいう。
「すまぬな、わたしは率直なたちでな。
陸にあがった河童も同然の北の老兵に、降伏せよと居丈高に言われて冷静でもいられぬのだ」
そう言って、周瑜は、ぱっと親書を払いのけ、かたわらの魯粛に押し付けた。
魯粛がそれを拾い上げ、読み通してから、また周瑜とおなじように笑う。
「なるほど、たしかに美文ではありますな。
しかし、曹丞相は夢見がちな乙女のようなところがある様子」
「そうだ、ただし、その夢は、悪い夢のようだな。
われらが勝利するこの戦において、降伏することなどありえない」
いささか芝居がかった言い回しをしつつ、周瑜は言って、それからじろりと使者をにらんだ。
「使者どの、戻って伝えよ。周公瑾はけして孫家の者以外に膝を折る人間ではないようだと。
そして、手紙をせっせと書く暇があるのなら、無力な河童でないところを証明してみろとな」
「な、なんと無礼なっ」
使者は顔を赤黒くして震えている。
そして、周瑜をまっすぐにらんで、挑戦するように言った。
「その無礼なことば、たしかに曹丞相に伝えよう。あとで後悔なさるな」
「後悔も何も。現実を分かっていない漢賊に、折る膝を持ち合わせている者は、江東の地にはいないという事実があるだけのこと。
使者どのは、見たこと聞いたことをそのまま伝えればよいのだ」
「きっと後悔なさるぞっ」
捨て台詞を吐いて、使者は背中を向けて帷幕《いばく》から出て行った。
孔明は、周瑜が使者を斬らなかったことに感心していた。
というのも、周瑜と魯粛が読んだ手紙を、そのとなりで同じく目を通していたのだが、内容はまさに慇懃無礼《いんぎんぶれい》な脅迫文と言ったほうが正しいものだったからだ。
寛大な周郎。
その評判は、いままさに証明されたと言ってよい。
あわれなのは曹操の使者で、帰りの船に乗る途中でも、将兵の嘲笑や野次を受けつづけていた。
『これほど嘲弄されて、曹操はどう出るだろうか』
考えていると、周瑜が笑顔のまま、孔明を振り向いた。
「曹操はどう出るか、と考えてらっしゃるな?」
「よく分かりましたな」
「分かります。わたしもおなじことを考えておりましたからな。
まあ、ふたつにひとつ。我慢するか、挑戦を買うか。おそらく曹操は後者を選ぶはず」
「小手調べ、と言うわけですか」
「左様。曹操はこちらの力を測ろうとするでしょう。
そうであれば、こちらも願ったり叶ったり。
鄱陽湖《はようこ》での調練の結果を実戦で見ることができますからな」
そう言って、自信満々に周瑜は高らかに笑う。
「これで案外、決着がついてしまうかもしれませぬな。
そうなれば、孔明どのと劉豫洲の御手を煩わすこともなくなる」
冗談か真剣なのか、いまひとつ判然としないことを言って、周瑜はまた笑った。
『ずいぶんと自信があるのだな』
孔明は愛想笑いを浮かべつつも、周瑜の自信の高さに危険を感じ取っていた。
『たしかに曹操は水軍を操って戦をした経験が浅い。
しかし、いまその水軍を束ねているのは、経験の豊富な蔡瑁《さいぼう》と張允《ちょういん》。
しかも数では圧倒的に向こうが有利なのだ。
仮に曹操が攻めてきたとしても、こちらによほどの戦略がなければ、烏林の要塞に曹操軍を追い払うのが精いっぱいだろう』
周瑜は機嫌がよいようで、魯粛や程普らに、曹操の軍に備えるよう話をしている。
『仮に曹操軍が烏林から長期間も動かなかった場合、疲弊してくるのは江東の軍だ。
曹操は長期戦を見据えて、水軍の調練をすでに行っているにちがいない。
数で勝《まさ》る曹操軍が水軍で江東の軍を撃破したら、もう江東の軍にはあとがない。
柴桑《さいそう》に向けて、北からも軍が押し寄せてくるはずだ。
曹操を舐めてはいけない。百戦錬磨の古強者なのだ。
周都督は、果たして兵を鼓舞するために自信のあるようにふるまっているのだろうか。
そうではないとしたら、危ういぞ』
そう思い、周瑜のほがらかな顔を観察してみるのだが、そこに弱気な陰りはどこにもなく、孔明はますます危うさを感じるのだった。
つづく
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今後も精進してまいりますv
さて、次回からは、ふたたび烏林の徐庶のエピソードとなります。
次回は水曜日です、どうぞおたのしみに(*^▽^*)