やがて、馬をかっ飛ばしてきたらしい魯粛が、挨拶もそこそこにやってきた。
従者も連れていない。
いや、連れていたのかもしれないが、あまりに急いだので、脱落したのかもしれなかった。
「おい、孔明どの、本気かっ」
前置きもなく魯粛は怒鳴るように言った。
孔明はそれに対し、しらっとして答える。
「本気も何も、劉玄徳の軍師に二言はございませぬ。
この甲冑を見ていただければ、わたしの覚悟がわかるはず。
周都督に聚鉄山《じゅてつざん》を攻めろと言われ、出来ますと答えたのですから、やらねばなりますまい」
「ばかな、死ぬぞ」
「そうでしょうな」
「なに?」
「わたしには、たしかに軍略があります。
だが、ざんねんながら大軍を率いて戦った経験は一度もない。
それでもなお、周都督はわたしに五千もの尊い命を預けて戦えとおっしゃった。
周都督の厚い信頼には答えねばなりますまい」
「だから、それは無茶だというのだ」
「無茶でも仕方ありますまい。それが都督の決断の結果なのですから、なあ、子龍」
趙雲は、合点がいったようで、にまにまと笑いながら、孔明に合わせ始めた。
「そうさ。おれたちが聚鉄山で死んだ場合は、都督は人を見る目がなかったということになるな」
「子龍のいうとおり。評判になるでしょうな。悪い意味で」
「そう、悪い意味で評判になる。
都督は、軍事の采配は素人だと、烏林《うりん》にまで聞こえていくかもしれぬ」
「周都督の名誉は傷つけられるでしょう」
「軍の士気もがた落ちだろうな。戦は勢いが大事だというのに」
魯粛はそれを聞き、顔をゆがめる。
「そ、それはそうかもしれんが」
と、そこまで言って、甲冑姿の孔明と、意味ありげに人の悪い笑みを浮かべている趙雲を見くらべて、急に、ふっと肩から力を抜いた。
「読めた。あんたら、おれがここにきて、あんたらを止めるだろうことまで読んでいたのだな?」
だが、孔明はとぼけてみせる。
「さて、どうでしょう?」
「おとぼけは、なしだ。人の悪い。あんたらを死なせたら、同盟が壊れてしまう。それはさせんよ」
「しかし、子敬どの、あなたはこう言い含められていたはずだ。
『諸葛孔明がいまごろどうしているか……嘆いているか、混乱して怯《おび》えているか……実際に見て、すべてを報告せよ』と」
「そのとおりだ。都督はあんたの動向をとても気にしておられる」
「では、都督にこうお伝えください。諸葛亮は混乱している、と。
なにせ、味方であるはずの都督が、わたしを害そうとする理由が、さっぱりわからないのですからね」
魯粛は、困惑しきりといった表情を浮かべた。
「都督があんたを気に入らなかったのはわかっている。
あんたもとうに気づいているだろう?
だが、殺意を抱くまでになるっていうのは、おれもどうしてかわからんのだ」
「都督は先を読みすぎなのでは?
確かに、この戦が終わったなら、わたしたちは味方ではいられなくなる。
しかし、まずはあの強大な曹操に勝たなければならない。
それを小さく見積もって、わたしという目の上のたん瘤《こぶ》を取り除こうと急ぎ過ぎているのは、いささか先走りのように思えます」
「たしかに。あんたの言うとおりだ」
「子敬どの、都督にはありのままをご報告なさい。
孔明が軍を率いて出撃するということは、都督の采配の能力のなさ……つまりは軍略の才のなさを証明しようとしていることと同然だと言っていたと」
「それはできる。そう言えば、都督の性分からして、誇りを傷つけられるのをおそれて命令を撤回するだろう。
だが、しかし、そうなると、あんたはますます憎まれるぞ」
「いま以上に憎まれたとしても、わたしには知恵と言う甲冑がある。なんとかしますよ。
いまは、わたしの言うとおりになさってください」
「おれの立場を慮《おもんぱか》ってくれているのかい?」
「それもありますが、わたしがちょっと意趣返しをしたいだけです」
孔明が歯を見せて笑うと、魯粛もまた、困ったように笑みを浮かべた。
「仕方ない、ではあんたの言うとおりにしよう。
だが、ほんとうにいいんだな? 都督はこれくらいで諦める方ではないぜ」
「覚悟のうえです。そうだろう、子龍」
同意を求められた趙雲は、おおきくうなずいた。
「軍師のいうとおりだ。同じ死ぬにしても、犬死はごめんだ。
周都督にも、男らしく堂々と正面からぶつかってこいと言ってくれ」
「子敬どの、分かっておられるとは思うが、子龍が言ったことは内密に」
「もちろんだ。まったく、あんたらは命知らずだよ、ほんとうに」
そうぶつくさ言いつつ、魯粛は去っていった。
あとに残された趙雲はなにかを言いかけたが、またも孔明は手ぶりでそれを止めさせた。
「言いたいことはだいたいわかる。危ない橋を渡ったな。ひやひやさせてすまなかった、謝るよ」
「危ない橋。まったくだ。これからもこんなことの連続だろうな。
知恵の甲冑があるって? そいつは本物の刃は防げまい。
都督が刺客を送ってきたらどうするつもりなのだ」
「その時は、主騎たるあなたが防いでくれるだろう。
それに、いまのことでわかったろう。
都督はわたしを狙ってはいるが、こそこそと刺客を送ってくる可能性はかなり低いとみていい。
かれはもっとこう、複雑な手腕をとるほうを好むのだ。
思うに、都督にはわたしが心を読むような態度をとるのが気に入らないのではないのかな」
「腹の読みあいをしなければ、こちらとて生き残れぬ。それを許せぬというのか」
「そうなのだろうさ。それより、せっかく結んでくれたこの背中の紐だが、今度はほどいてくれないか。
甲冑が重すぎて、肩が凝ってしまいそうだ」
その後、急使がやってきて、孔明の狙いどおり、聚鉄山への進撃はとりやめとなった。
魯粛は孔明の願いのまま、周瑜の自尊心を突くことを報告したらしい。
五千の老兵とその将である洪啓《こうけい》は、死を回避できて、こころから安堵しているようだった。
翌日、周瑜は寛大なところを見せて、昨日の命令は行き過ぎだったと詫《わ》びてきた。
だからと言って、その双眸の奥から冷たい悪意が消えることはなかった。
つづく
従者も連れていない。
いや、連れていたのかもしれないが、あまりに急いだので、脱落したのかもしれなかった。
「おい、孔明どの、本気かっ」
前置きもなく魯粛は怒鳴るように言った。
孔明はそれに対し、しらっとして答える。
「本気も何も、劉玄徳の軍師に二言はございませぬ。
この甲冑を見ていただければ、わたしの覚悟がわかるはず。
周都督に聚鉄山《じゅてつざん》を攻めろと言われ、出来ますと答えたのですから、やらねばなりますまい」
「ばかな、死ぬぞ」
「そうでしょうな」
「なに?」
「わたしには、たしかに軍略があります。
だが、ざんねんながら大軍を率いて戦った経験は一度もない。
それでもなお、周都督はわたしに五千もの尊い命を預けて戦えとおっしゃった。
周都督の厚い信頼には答えねばなりますまい」
「だから、それは無茶だというのだ」
「無茶でも仕方ありますまい。それが都督の決断の結果なのですから、なあ、子龍」
趙雲は、合点がいったようで、にまにまと笑いながら、孔明に合わせ始めた。
「そうさ。おれたちが聚鉄山で死んだ場合は、都督は人を見る目がなかったということになるな」
「子龍のいうとおり。評判になるでしょうな。悪い意味で」
「そう、悪い意味で評判になる。
都督は、軍事の采配は素人だと、烏林《うりん》にまで聞こえていくかもしれぬ」
「周都督の名誉は傷つけられるでしょう」
「軍の士気もがた落ちだろうな。戦は勢いが大事だというのに」
魯粛はそれを聞き、顔をゆがめる。
「そ、それはそうかもしれんが」
と、そこまで言って、甲冑姿の孔明と、意味ありげに人の悪い笑みを浮かべている趙雲を見くらべて、急に、ふっと肩から力を抜いた。
「読めた。あんたら、おれがここにきて、あんたらを止めるだろうことまで読んでいたのだな?」
だが、孔明はとぼけてみせる。
「さて、どうでしょう?」
「おとぼけは、なしだ。人の悪い。あんたらを死なせたら、同盟が壊れてしまう。それはさせんよ」
「しかし、子敬どの、あなたはこう言い含められていたはずだ。
『諸葛孔明がいまごろどうしているか……嘆いているか、混乱して怯《おび》えているか……実際に見て、すべてを報告せよ』と」
「そのとおりだ。都督はあんたの動向をとても気にしておられる」
「では、都督にこうお伝えください。諸葛亮は混乱している、と。
なにせ、味方であるはずの都督が、わたしを害そうとする理由が、さっぱりわからないのですからね」
魯粛は、困惑しきりといった表情を浮かべた。
「都督があんたを気に入らなかったのはわかっている。
あんたもとうに気づいているだろう?
だが、殺意を抱くまでになるっていうのは、おれもどうしてかわからんのだ」
「都督は先を読みすぎなのでは?
確かに、この戦が終わったなら、わたしたちは味方ではいられなくなる。
しかし、まずはあの強大な曹操に勝たなければならない。
それを小さく見積もって、わたしという目の上のたん瘤《こぶ》を取り除こうと急ぎ過ぎているのは、いささか先走りのように思えます」
「たしかに。あんたの言うとおりだ」
「子敬どの、都督にはありのままをご報告なさい。
孔明が軍を率いて出撃するということは、都督の采配の能力のなさ……つまりは軍略の才のなさを証明しようとしていることと同然だと言っていたと」
「それはできる。そう言えば、都督の性分からして、誇りを傷つけられるのをおそれて命令を撤回するだろう。
だが、しかし、そうなると、あんたはますます憎まれるぞ」
「いま以上に憎まれたとしても、わたしには知恵と言う甲冑がある。なんとかしますよ。
いまは、わたしの言うとおりになさってください」
「おれの立場を慮《おもんぱか》ってくれているのかい?」
「それもありますが、わたしがちょっと意趣返しをしたいだけです」
孔明が歯を見せて笑うと、魯粛もまた、困ったように笑みを浮かべた。
「仕方ない、ではあんたの言うとおりにしよう。
だが、ほんとうにいいんだな? 都督はこれくらいで諦める方ではないぜ」
「覚悟のうえです。そうだろう、子龍」
同意を求められた趙雲は、おおきくうなずいた。
「軍師のいうとおりだ。同じ死ぬにしても、犬死はごめんだ。
周都督にも、男らしく堂々と正面からぶつかってこいと言ってくれ」
「子敬どの、分かっておられるとは思うが、子龍が言ったことは内密に」
「もちろんだ。まったく、あんたらは命知らずだよ、ほんとうに」
そうぶつくさ言いつつ、魯粛は去っていった。
あとに残された趙雲はなにかを言いかけたが、またも孔明は手ぶりでそれを止めさせた。
「言いたいことはだいたいわかる。危ない橋を渡ったな。ひやひやさせてすまなかった、謝るよ」
「危ない橋。まったくだ。これからもこんなことの連続だろうな。
知恵の甲冑があるって? そいつは本物の刃は防げまい。
都督が刺客を送ってきたらどうするつもりなのだ」
「その時は、主騎たるあなたが防いでくれるだろう。
それに、いまのことでわかったろう。
都督はわたしを狙ってはいるが、こそこそと刺客を送ってくる可能性はかなり低いとみていい。
かれはもっとこう、複雑な手腕をとるほうを好むのだ。
思うに、都督にはわたしが心を読むような態度をとるのが気に入らないのではないのかな」
「腹の読みあいをしなければ、こちらとて生き残れぬ。それを許せぬというのか」
「そうなのだろうさ。それより、せっかく結んでくれたこの背中の紐だが、今度はほどいてくれないか。
甲冑が重すぎて、肩が凝ってしまいそうだ」
その後、急使がやってきて、孔明の狙いどおり、聚鉄山への進撃はとりやめとなった。
魯粛は孔明の願いのまま、周瑜の自尊心を突くことを報告したらしい。
五千の老兵とその将である洪啓《こうけい》は、死を回避できて、こころから安堵しているようだった。
翌日、周瑜は寛大なところを見せて、昨日の命令は行き過ぎだったと詫《わ》びてきた。
だからと言って、その双眸の奥から冷たい悪意が消えることはなかった。
つづく
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次回も孔明のお話です。
それから、またしばらく徐庶のエピソードとなります。
徐庶のエピソードはちょっと長いですが、楽しんでいただけたならと思います。
ではでは、次回もどうぞお楽しみにー(*^▽^*)