※
臨烝は水路のうつくしい街だ。
馬車を使うよりも水路を使って、小船で町の様子を眺めたほうが、人の暮らしぶりがよくわかる。
とはいえ、このところの旱魃により、水の量もずいぶん減ってしまっていた。
照りつける日差しを受けて、水面はきらきらと光を跳ね飛ばしている。
連日の酷暑のため、街の人も、馬も、野犬さえも気力がなく、じりじりと照りつける陽光のなか、かげろうのようにゆっくりと動いている。
その動きにあわせるようにして、水路の上を、趙雲と孔明を乗せた舟がすべっていった。
「町がこれでは、里のほうも思いやられます。あたらしい水脈が見つかればよいのだが」
趙雲が、舟から手を出して、水路の水をすくう。
ふと、訝しそうに眉根を寄せて、顔を向けてきた。
「どうなされました?」
「いや…太守の地位が、見事に板についているなと思ったのだよ。あなたほど器用な人も珍しいだろうね」
「器用貧乏という言葉もございますぞ」
「それは言葉をまちがえたな。一騎当千の武将であるあなたが、行政官としても高い能力を見せているのはおどろきだ。普通はどちらかに偏るのだがね」
「それは、いままで運が良かっただけのこと。
文官が足りませぬ。曹操から逃れて南部に避難している人材を集めて、主公の地盤を固めるという策は、あれからどうなりましたか?」
「龐士元のおかげで順調だ。やはり龐家の名はつよい。主公も士元を気に入った様子でね、最近は、そちらはすべて士元に任せている。桂陽にも人が増えるのではないかな」
左様か、と趙雲はつぶやき、浮かぬ顔をする。
孔明は眉をしかめた。
「今度は、あなたがどうしたのだ?」
「いや…元気か?」
急に、ことばが以前のような親しげなものに戻った。
「なんだ、急に。目の前にいるわたしを見れば、すぐに答えの出る話ではないか」
そうだな、と趙雲は、歯切れわるく言って、笑いつつ目を逸らす。
ははあ、これは、出歯亀のくだらぬ噂話を聞いてしまったのだな、と孔明は合点した。
龐統が劉備のあたらしい軍師と加わってから、劉備はなにかにつけ、龐先生、龐先生、である。
そのために、それまで寵愛を一身にあつめていた孔明に対し、あいつは主公にもう見向きもされなくなった、もうあの軍師も用済みだ、という意地の悪い噂が流れている。
司馬徳操の私塾の同門だったというわりに、孔明と龐統は、親しく文を交わすでもない、公務以外ではほとんど疎遠なのが、傍目には目立つのだろう。
孔明としては、龐統と憎みあっているわけではない。
まして寵争いをしているつもりもない。
劉備とて、いまは龐統の…引いては龐家のもつ影響力がひつようだから、いちばんに立てているのであり、けして孔明が用済みになったから、ほったらかしにしているわけではない。
噂とは不愉快なものだ。
とくに、事実とかけ離れた憶測だけのものは。
「まったく、人の弱みにつけこむ輩はどこにでもいるのだな」
「え?」
趙雲の声に、振り仰ぐと、柳の並木のつづく酒家や妓楼があつまっている通りに、人だかりができている。
人の輪の中心には、導士ふうの格好の男がおり、あつまったひとびとに対し、なにやらまくしたてていた。
その手には、獣の皮をうすくなめしたものに、字だか記号だかわからぬものが書きなぐってあるものが握られている。
耳をすますと、どうやら、それは特殊な護符というふれこみであるらしく、家の戸口に貼っておけば、雨は降るわ、自然と水がめに水は溜まるわ、お金は溜まるわ、異性にもてまくるわで大変な騒ぎになるらしい。
「岸に付けてくれ」
趙雲は船頭に言うと、舟が岸に着くとすぐに、道士のもとへ向かった。
あとを孔明が追いかける。
「子龍、暴力沙汰はよせ」
わかっている、と軽く手を振り、趙雲は、人の輪を押しのけて、道士の前に出た。
「その札を貼れば、まことに雨が降る、というのだな?」
いきなりあらわれた、身なりは地味だが風貌のひときわ立派な男の登場に、道士はうろたえながらも、そうだ、と頷いた。
道士といっても、まだ若い。
痩せぎすで背が高く、わずかに垂れた目をした、女に好かれそうな、甘い顔立ちをしている。
「ただし、雨が降るか否かは、これを買われた方の、お心がけ次第、ということで」
「ならば自信がある。一枚買おう。いくらだ」
毎度あり! と道士とは思えない威勢の良さで、道士が顔をほころばせる。
だが、趙雲は金をすぐには渡さず、たずねた。
「これが効かなかった場合はどうなるのだ?」
「さきほども申し上げたとおり、買われた方の信心が足らなかった、ということとなりますな」
「では信心があれば、すぐに降るのか。今日にでも?」
道士はちらりと、天上の、かんかんと照りつける太陽を見上げてから、
「ええっと…心がけ次第かと」
と、モゴモゴしつつ答えた。
「俺ならば今日中に降るだろう。もし降らねば、これが、いかさまであったということになる」
「ご冗談を。これはまことに霊験あらたかな、泰山の仙人が丹精こめて作り上げた、特別限定先着10名様のための雨乞いの護符。
いかさま、などということはございませぬ。この護符によって幸せを掴んだ各地の皆様の、体験談もございます。お話して差し上げましょうか」
孔明は、道士が柳の枝にひっかけて並べている札の数を数えた。十枚ある。
「先着10名の限定品で、各地にすでに購入者がいるというのに、札はいまここに十枚ある。ということは、一部は偽物なのか?」
新手の登場に、道士がするどい視線を投げてきた。
「なんてことをおっしゃる。各地で皆様が幸福を掴んだことを喜ばれた仙人が、旱天にくるしむ臨烝の街の方のために、あらたに特別に札を書き下ろしてくださったのですぞ! こーれだから田舎の書生さんはいけません」
いまだに書生臭さが抜けていないのかな、とがっかりしつつ、孔明はたずねた。
「泰山の仙人が書いた、という話だが、なんという名前なのかね」
「太極老師とおっしゃる、泰山周辺では、其の名を知らぬ者はない、帝はもちろん、かの曹公も、親以上にこの老師には尽くされている、というほどの高名なお方ですぞ」
「泰山周辺? へえ、わたしは琅邪の出なのだがね、ついぞ其の名は耳にしたことがなかったな」
えっ、と道士が一瞬、答えにつまる。
そうしてから、温和な顔を、急に追いつめられたネズミのように険しくして、顔をまともにこちらに向けてきた。
「知る人ぞ知る、という意味なのですよ、この旱天で町中苦しんでいるさなかに、高価な香油をぷんぷんさせているお方。あなたみたいな人には、このお札のありがたさはわからないでしょう…」
と、言葉の途中で、どんどん声がちいさくなっていく。
道士は、はじめて孔明の面貌を真正面から見たのだ。
格好だけから判断すれば、たしかに書生のような地味なナリをして、若いけれども、その中身は、書生、などと形容するにはもったいない、思わず呑まれてしまいそうな絢爛たる雰囲気をもつ男だとはじめて判ったらしかった。
道士は、それまでろくに孔明の面貌を観察していなかったのである。
道士はうろたえつつも、顔をそむけて、言う。
「ええっと…ともかく、札が穢れます。あちらへ行ってください」
趙雲が身を乗り出しかけたのが、道士の肩越しに見えた。
孔明はそれを目で制する。
「申し訳なかったね。しかしそちらの方に札を売るのはよいが、もし雨が降らなかったら、大変なことになると思うよ」
「ほお? 怖い関係の方々に追いかけられるとか? それならば恐ろしくともなんともございません。わたくしには太極老師という強い味方が…」
「怖い関係の方々とやらを取り締まる人間なのだよ、このお方は。桂陽太守の趙子龍だ」
どよっ、と周囲がどよめき立つ。
道士は絶句し、たちまちその顔色は青くなった。
その後ろで、趙雲が付け加える。
「おまえの言う、田舎の書生とやらが、軍師中郎将の諸葛孔明だ」
道士はますます顔を青くして、孔明と趙雲の顔を交互に見比べる。
趙雲が、一歩、前に進み出た。
「さて、その札を売ってもらおうか」
「売れません! 品切れでございます!」
道士は叫ぶと、そのまま品物を置き去りにして、風のようにぴゅう、と駆け去ってしまった。
その背中を見送りつつ、趙雲が言った。
「出過ぎた真似をしましたかな」
「いいや、ありがとう。あとで屯所へ手配を回しておく。やれやれ、旱天のために詐欺まで横行するとは。ところで子龍、堅苦しいのはやめて、前のようにしてくれないか。役所にいるわけではないのだし」
そうだな、という返事を期待した孔明であるが、趙雲はにべもない。
きっぱり答える。
「出来かねます。前にもお話したはずですぞ。貴殿は劉玄徳の軍師にして、この荊州三郡の統括であられる。そのお方に対し、いくら親しいとはいえ、礼儀に反した態度で接するわけにはまいりませぬ。上が礼儀を守らねば、下もそれに倣い、貴殿を侮るでしょう」
「わたしは侮られているのかね」
「さきほどの詐欺師にも言われたでしょう、書生、と。それがしはそうは思いませぬが、貴殿は若すぎるので、人を見る目のない者からは、ただの白面郎に見えるのです」
理路整然と、核心を突いているだけに、反論がむずかしい。
孔明は、たまに趙雲が武官であることを忘れる。
これで趙雲に愛想があれば、おそらく使者としても十分に通用するだろう。
ただし宣戦布告用。
「桂陽の太守になってから、さらに磨きがかかったな」
と、つぶやいたところへ、見知った顔が、こちらを見ているのに気が付いた。
例の、今朝方、髪を結ってくれた少女であった。
ちいさな驢馬にまたがり、柳の下に立っているのが孔明かどうか、確認しようと身を乗り出している。
名前がないのは不便なものだな、と思いつつ、孔明は大きく手を振って、知らせてやった。
すると少女は、恥ずかしそうに俯きつつ、驢馬と一緒にこちらにやってきた。
「お忙しいのに申し訳ありません。家令さんが、旦那さまにこちらをお持ちするように、と」
それは更衣のための着物一式であった。
今朝方は髪を結うのに時間がかかってしまったため、出掛けにばたばたしてしまい、いろいろ忘れ物をしていたのである。
李じいさんは、孔明が出て行ったあと、それに気付いて、名無しの少女に追いかけさせたのだ。
少女は、着物を渡しつつ、上目遣いで孔明の頭を見た。
「髪…」
いかん。
「ああ、これは、木の枝に髪をひっかけてしまってね」
「え? 今朝から…」
変わらないでしょう、といつものごとく、物事を糺そうとする朴念仁の趙雲の袖を引っ張り、孔明は言葉を止めさせた。
少女は、すこしほっとしたようだった。
そうして、孔明をふたたび上目遣いで見て、眉根を寄せる。
「その御札は…旦那さまが書かれたものなのですか?」
孔明の頭上には、さきほどのニセ道士が柳にひっかけたまま、ほったらかしにしていた札がひらひらとそよ風に舞っている。
「これは詐欺師の忘れ物だ。もしかしたら雨が降るかもしれない。試しに一枚持って帰って、戸口に貼っておいたらどうかな」
趙雲がしかめ面をして、孔明のことばを諌める。
「戯言を。軍師中郎将ともあろう者が、くだらぬ詐欺にひっかかったと、よからぬ噂が立ちますぞ」
「冒険心の賜物とは見てもらえないかな」
からからと笑う孔明に、少女は顔を伏せたまま、言った。
「でも、効くかもしれません…一枚、ください。わたしの部屋に貼ってみます」
迷信深い子なのかなと思いつつ、孔明は柳にぶらさがっている御札を一枚、少女に与えた。
すると少女は、大事そうにそれを抱えると、ぺこりと頭を下げて驢馬を引いて去っていった。
「いまの娘は、貴殿の屋敷の者ですか?」
「厨で働いている飯炊き女でね。名前がないので現在考案中だ」
ふむ、と言ったきり、趙雲は少女の去っていったほうをじっと眺めている。
武器をもたぬ者に感心をもつなど、珍しいこともあるものだ。
孔明は趙雲に尋ねた。
「なにか気にかかることでも?」
「そうではないが…愛らしいと思いましたので」
「…は?」
間抜けな声が、つい漏れた。
「愛らしい?」
鸚鵡返しにした孔明に、趙雲が気味悪そうに顔を向ける。
「如何しました、なぜそんな素っ頓狂な顔をしておられる?」
「わからないか」
「わかりませぬ」
趙雲は誤魔化しているのではなく、ほんとうに判らないらしい。
同じ主公を掲げて働き、すでに二年ちかく。
劉備の配下のなかでは…いや、劉備を除いては、いままで出会った中では、もっとも気心のしれている人間だと思っている。
しかしいままで、可愛らしいだの、美しいだの、華麗だのといった女性に対する美辞麗句が、この男の口から出たのを聞いたことは一度もない。
今日は本当に雨が降るのではないか、と孔明は炎天下に思った。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)
臨烝は水路のうつくしい街だ。
馬車を使うよりも水路を使って、小船で町の様子を眺めたほうが、人の暮らしぶりがよくわかる。
とはいえ、このところの旱魃により、水の量もずいぶん減ってしまっていた。
照りつける日差しを受けて、水面はきらきらと光を跳ね飛ばしている。
連日の酷暑のため、街の人も、馬も、野犬さえも気力がなく、じりじりと照りつける陽光のなか、かげろうのようにゆっくりと動いている。
その動きにあわせるようにして、水路の上を、趙雲と孔明を乗せた舟がすべっていった。
「町がこれでは、里のほうも思いやられます。あたらしい水脈が見つかればよいのだが」
趙雲が、舟から手を出して、水路の水をすくう。
ふと、訝しそうに眉根を寄せて、顔を向けてきた。
「どうなされました?」
「いや…太守の地位が、見事に板についているなと思ったのだよ。あなたほど器用な人も珍しいだろうね」
「器用貧乏という言葉もございますぞ」
「それは言葉をまちがえたな。一騎当千の武将であるあなたが、行政官としても高い能力を見せているのはおどろきだ。普通はどちらかに偏るのだがね」
「それは、いままで運が良かっただけのこと。
文官が足りませぬ。曹操から逃れて南部に避難している人材を集めて、主公の地盤を固めるという策は、あれからどうなりましたか?」
「龐士元のおかげで順調だ。やはり龐家の名はつよい。主公も士元を気に入った様子でね、最近は、そちらはすべて士元に任せている。桂陽にも人が増えるのではないかな」
左様か、と趙雲はつぶやき、浮かぬ顔をする。
孔明は眉をしかめた。
「今度は、あなたがどうしたのだ?」
「いや…元気か?」
急に、ことばが以前のような親しげなものに戻った。
「なんだ、急に。目の前にいるわたしを見れば、すぐに答えの出る話ではないか」
そうだな、と趙雲は、歯切れわるく言って、笑いつつ目を逸らす。
ははあ、これは、出歯亀のくだらぬ噂話を聞いてしまったのだな、と孔明は合点した。
龐統が劉備のあたらしい軍師と加わってから、劉備はなにかにつけ、龐先生、龐先生、である。
そのために、それまで寵愛を一身にあつめていた孔明に対し、あいつは主公にもう見向きもされなくなった、もうあの軍師も用済みだ、という意地の悪い噂が流れている。
司馬徳操の私塾の同門だったというわりに、孔明と龐統は、親しく文を交わすでもない、公務以外ではほとんど疎遠なのが、傍目には目立つのだろう。
孔明としては、龐統と憎みあっているわけではない。
まして寵争いをしているつもりもない。
劉備とて、いまは龐統の…引いては龐家のもつ影響力がひつようだから、いちばんに立てているのであり、けして孔明が用済みになったから、ほったらかしにしているわけではない。
噂とは不愉快なものだ。
とくに、事実とかけ離れた憶測だけのものは。
「まったく、人の弱みにつけこむ輩はどこにでもいるのだな」
「え?」
趙雲の声に、振り仰ぐと、柳の並木のつづく酒家や妓楼があつまっている通りに、人だかりができている。
人の輪の中心には、導士ふうの格好の男がおり、あつまったひとびとに対し、なにやらまくしたてていた。
その手には、獣の皮をうすくなめしたものに、字だか記号だかわからぬものが書きなぐってあるものが握られている。
耳をすますと、どうやら、それは特殊な護符というふれこみであるらしく、家の戸口に貼っておけば、雨は降るわ、自然と水がめに水は溜まるわ、お金は溜まるわ、異性にもてまくるわで大変な騒ぎになるらしい。
「岸に付けてくれ」
趙雲は船頭に言うと、舟が岸に着くとすぐに、道士のもとへ向かった。
あとを孔明が追いかける。
「子龍、暴力沙汰はよせ」
わかっている、と軽く手を振り、趙雲は、人の輪を押しのけて、道士の前に出た。
「その札を貼れば、まことに雨が降る、というのだな?」
いきなりあらわれた、身なりは地味だが風貌のひときわ立派な男の登場に、道士はうろたえながらも、そうだ、と頷いた。
道士といっても、まだ若い。
痩せぎすで背が高く、わずかに垂れた目をした、女に好かれそうな、甘い顔立ちをしている。
「ただし、雨が降るか否かは、これを買われた方の、お心がけ次第、ということで」
「ならば自信がある。一枚買おう。いくらだ」
毎度あり! と道士とは思えない威勢の良さで、道士が顔をほころばせる。
だが、趙雲は金をすぐには渡さず、たずねた。
「これが効かなかった場合はどうなるのだ?」
「さきほども申し上げたとおり、買われた方の信心が足らなかった、ということとなりますな」
「では信心があれば、すぐに降るのか。今日にでも?」
道士はちらりと、天上の、かんかんと照りつける太陽を見上げてから、
「ええっと…心がけ次第かと」
と、モゴモゴしつつ答えた。
「俺ならば今日中に降るだろう。もし降らねば、これが、いかさまであったということになる」
「ご冗談を。これはまことに霊験あらたかな、泰山の仙人が丹精こめて作り上げた、特別限定先着10名様のための雨乞いの護符。
いかさま、などということはございませぬ。この護符によって幸せを掴んだ各地の皆様の、体験談もございます。お話して差し上げましょうか」
孔明は、道士が柳の枝にひっかけて並べている札の数を数えた。十枚ある。
「先着10名の限定品で、各地にすでに購入者がいるというのに、札はいまここに十枚ある。ということは、一部は偽物なのか?」
新手の登場に、道士がするどい視線を投げてきた。
「なんてことをおっしゃる。各地で皆様が幸福を掴んだことを喜ばれた仙人が、旱天にくるしむ臨烝の街の方のために、あらたに特別に札を書き下ろしてくださったのですぞ! こーれだから田舎の書生さんはいけません」
いまだに書生臭さが抜けていないのかな、とがっかりしつつ、孔明はたずねた。
「泰山の仙人が書いた、という話だが、なんという名前なのかね」
「太極老師とおっしゃる、泰山周辺では、其の名を知らぬ者はない、帝はもちろん、かの曹公も、親以上にこの老師には尽くされている、というほどの高名なお方ですぞ」
「泰山周辺? へえ、わたしは琅邪の出なのだがね、ついぞ其の名は耳にしたことがなかったな」
えっ、と道士が一瞬、答えにつまる。
そうしてから、温和な顔を、急に追いつめられたネズミのように険しくして、顔をまともにこちらに向けてきた。
「知る人ぞ知る、という意味なのですよ、この旱天で町中苦しんでいるさなかに、高価な香油をぷんぷんさせているお方。あなたみたいな人には、このお札のありがたさはわからないでしょう…」
と、言葉の途中で、どんどん声がちいさくなっていく。
道士は、はじめて孔明の面貌を真正面から見たのだ。
格好だけから判断すれば、たしかに書生のような地味なナリをして、若いけれども、その中身は、書生、などと形容するにはもったいない、思わず呑まれてしまいそうな絢爛たる雰囲気をもつ男だとはじめて判ったらしかった。
道士は、それまでろくに孔明の面貌を観察していなかったのである。
道士はうろたえつつも、顔をそむけて、言う。
「ええっと…ともかく、札が穢れます。あちらへ行ってください」
趙雲が身を乗り出しかけたのが、道士の肩越しに見えた。
孔明はそれを目で制する。
「申し訳なかったね。しかしそちらの方に札を売るのはよいが、もし雨が降らなかったら、大変なことになると思うよ」
「ほお? 怖い関係の方々に追いかけられるとか? それならば恐ろしくともなんともございません。わたくしには太極老師という強い味方が…」
「怖い関係の方々とやらを取り締まる人間なのだよ、このお方は。桂陽太守の趙子龍だ」
どよっ、と周囲がどよめき立つ。
道士は絶句し、たちまちその顔色は青くなった。
その後ろで、趙雲が付け加える。
「おまえの言う、田舎の書生とやらが、軍師中郎将の諸葛孔明だ」
道士はますます顔を青くして、孔明と趙雲の顔を交互に見比べる。
趙雲が、一歩、前に進み出た。
「さて、その札を売ってもらおうか」
「売れません! 品切れでございます!」
道士は叫ぶと、そのまま品物を置き去りにして、風のようにぴゅう、と駆け去ってしまった。
その背中を見送りつつ、趙雲が言った。
「出過ぎた真似をしましたかな」
「いいや、ありがとう。あとで屯所へ手配を回しておく。やれやれ、旱天のために詐欺まで横行するとは。ところで子龍、堅苦しいのはやめて、前のようにしてくれないか。役所にいるわけではないのだし」
そうだな、という返事を期待した孔明であるが、趙雲はにべもない。
きっぱり答える。
「出来かねます。前にもお話したはずですぞ。貴殿は劉玄徳の軍師にして、この荊州三郡の統括であられる。そのお方に対し、いくら親しいとはいえ、礼儀に反した態度で接するわけにはまいりませぬ。上が礼儀を守らねば、下もそれに倣い、貴殿を侮るでしょう」
「わたしは侮られているのかね」
「さきほどの詐欺師にも言われたでしょう、書生、と。それがしはそうは思いませぬが、貴殿は若すぎるので、人を見る目のない者からは、ただの白面郎に見えるのです」
理路整然と、核心を突いているだけに、反論がむずかしい。
孔明は、たまに趙雲が武官であることを忘れる。
これで趙雲に愛想があれば、おそらく使者としても十分に通用するだろう。
ただし宣戦布告用。
「桂陽の太守になってから、さらに磨きがかかったな」
と、つぶやいたところへ、見知った顔が、こちらを見ているのに気が付いた。
例の、今朝方、髪を結ってくれた少女であった。
ちいさな驢馬にまたがり、柳の下に立っているのが孔明かどうか、確認しようと身を乗り出している。
名前がないのは不便なものだな、と思いつつ、孔明は大きく手を振って、知らせてやった。
すると少女は、恥ずかしそうに俯きつつ、驢馬と一緒にこちらにやってきた。
「お忙しいのに申し訳ありません。家令さんが、旦那さまにこちらをお持ちするように、と」
それは更衣のための着物一式であった。
今朝方は髪を結うのに時間がかかってしまったため、出掛けにばたばたしてしまい、いろいろ忘れ物をしていたのである。
李じいさんは、孔明が出て行ったあと、それに気付いて、名無しの少女に追いかけさせたのだ。
少女は、着物を渡しつつ、上目遣いで孔明の頭を見た。
「髪…」
いかん。
「ああ、これは、木の枝に髪をひっかけてしまってね」
「え? 今朝から…」
変わらないでしょう、といつものごとく、物事を糺そうとする朴念仁の趙雲の袖を引っ張り、孔明は言葉を止めさせた。
少女は、すこしほっとしたようだった。
そうして、孔明をふたたび上目遣いで見て、眉根を寄せる。
「その御札は…旦那さまが書かれたものなのですか?」
孔明の頭上には、さきほどのニセ道士が柳にひっかけたまま、ほったらかしにしていた札がひらひらとそよ風に舞っている。
「これは詐欺師の忘れ物だ。もしかしたら雨が降るかもしれない。試しに一枚持って帰って、戸口に貼っておいたらどうかな」
趙雲がしかめ面をして、孔明のことばを諌める。
「戯言を。軍師中郎将ともあろう者が、くだらぬ詐欺にひっかかったと、よからぬ噂が立ちますぞ」
「冒険心の賜物とは見てもらえないかな」
からからと笑う孔明に、少女は顔を伏せたまま、言った。
「でも、効くかもしれません…一枚、ください。わたしの部屋に貼ってみます」
迷信深い子なのかなと思いつつ、孔明は柳にぶらさがっている御札を一枚、少女に与えた。
すると少女は、大事そうにそれを抱えると、ぺこりと頭を下げて驢馬を引いて去っていった。
「いまの娘は、貴殿の屋敷の者ですか?」
「厨で働いている飯炊き女でね。名前がないので現在考案中だ」
ふむ、と言ったきり、趙雲は少女の去っていったほうをじっと眺めている。
武器をもたぬ者に感心をもつなど、珍しいこともあるものだ。
孔明は趙雲に尋ねた。
「なにか気にかかることでも?」
「そうではないが…愛らしいと思いましたので」
「…は?」
間抜けな声が、つい漏れた。
「愛らしい?」
鸚鵡返しにした孔明に、趙雲が気味悪そうに顔を向ける。
「如何しました、なぜそんな素っ頓狂な顔をしておられる?」
「わからないか」
「わかりませぬ」
趙雲は誤魔化しているのではなく、ほんとうに判らないらしい。
同じ主公を掲げて働き、すでに二年ちかく。
劉備の配下のなかでは…いや、劉備を除いては、いままで出会った中では、もっとも気心のしれている人間だと思っている。
しかしいままで、可愛らしいだの、美しいだの、華麗だのといった女性に対する美辞麗句が、この男の口から出たのを聞いたことは一度もない。
今日は本当に雨が降るのではないか、と孔明は炎天下に思った。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)