「それはもちろん、現世でつらい思いをした者たちです。もいれば、農奴もいるし、妓女もいるし、徴兵から逃れた若者もいる。大老のおゆるしさえ出れば、病人以外はだれでもこの里に入ることができます。ここは争いや競争のない世界です」
「さっき殺されかけたが」
「それは仕方ありませぬ。みな、腹をすかせておりますゆえ。ご不快におもわれたのなら、かれらの代わりにわたしが謝ります」
「大老、とは?」
孔明の問いに、張伸は謳うように答えた。
「この世界を創られた方です。とても寛大で偉大なお方ですよ。伝説の仙人の李少君よりさずかったという術で、水と食糧をわれらにあたえてくださいます。面倒な農作業は、ここでは必要ありませぬ」
趙雲は仕事をしなくてもいいということばに、かえって納得した。
水と食糧をただでもらえるなら、だれが好き好んで働くものだろう。
ハマグリの中の人間が、家のことすらかまわず怠惰になるのは当然である。
「しかし水と食糧は、あまり行き渡っていないようだな」
「仕方ありませぬ。さいきん、外の世界では戸籍の問題で、徴兵逃れをしようと、わたしを頼ってくる者が一気に増えました。あまりにその数が増えたので、大老も水や食糧を人数分出せなくなったのです。そのうえ、力が必要なので、しょっちゅう「ひもろぎ」を求められますが」
「ひもろぎとはなんだ」
「それはあなた方が知らなくてもよいことです。ほら、大老は、あの堂に住んでらっしゃいます」
張伸が指さした先には、集落のなかでもひときわ立派なお堂があった。
カンカンと照る一寸も動こうとしない太陽の光を受けて、その瑠璃瓦がぴかぴかと光っている。
だが、そのまわりに人はいない。しんと静かな世界のなかで、咲き誇る桃の花の花びらだけが、桃色の雪のように散って、気味がわるいくらいに美しい。
風もなく、雲もなく、鳥もいなければ虫もいない、しんとしたなかで、見渡す限り桃色ばかり。
これが張伸のいう、「夢の里」なのだろうか。
だとしたら、かれの心象風景は、ずいぶん貧しいものだったということになる。
趙雲は、張伸が病弱で、ほとんど家のなかで暮らしていたということを思い出した。
張伸にとっては、偉大な自然が、むしろうとましい、災いをもたらすものに見えているのかもしれない。
やがて、趙雲たちは集落の隅っこにある、見た目だけは立派で清潔そうな家に案内された。
白い漆喰の壁に、赤い屋根の家である。
やはり家畜の類はなく、大地はからからに干からび、水ッ気はまったくない。
桃の木以外の植物という植物はしおれるか、あるいは無残に葉が千切られるかしている。
真上にきている太陽は、まったく位置を変える気配がない。
風すらもない状態の世界で、趙雲は、だんだん危機感をおぼえはじめていた。
自然を擬した、異様な世界の中に暮らしていたら、だれだって少しずつおかしくなるのではないか。
まして、水も食糧もないとなれば、判断力など容易に狂う。
つづく…
「さっき殺されかけたが」
「それは仕方ありませぬ。みな、腹をすかせておりますゆえ。ご不快におもわれたのなら、かれらの代わりにわたしが謝ります」
「大老、とは?」
孔明の問いに、張伸は謳うように答えた。
「この世界を創られた方です。とても寛大で偉大なお方ですよ。伝説の仙人の李少君よりさずかったという術で、水と食糧をわれらにあたえてくださいます。面倒な農作業は、ここでは必要ありませぬ」
趙雲は仕事をしなくてもいいということばに、かえって納得した。
水と食糧をただでもらえるなら、だれが好き好んで働くものだろう。
ハマグリの中の人間が、家のことすらかまわず怠惰になるのは当然である。
「しかし水と食糧は、あまり行き渡っていないようだな」
「仕方ありませぬ。さいきん、外の世界では戸籍の問題で、徴兵逃れをしようと、わたしを頼ってくる者が一気に増えました。あまりにその数が増えたので、大老も水や食糧を人数分出せなくなったのです。そのうえ、力が必要なので、しょっちゅう「ひもろぎ」を求められますが」
「ひもろぎとはなんだ」
「それはあなた方が知らなくてもよいことです。ほら、大老は、あの堂に住んでらっしゃいます」
張伸が指さした先には、集落のなかでもひときわ立派なお堂があった。
カンカンと照る一寸も動こうとしない太陽の光を受けて、その瑠璃瓦がぴかぴかと光っている。
だが、そのまわりに人はいない。しんと静かな世界のなかで、咲き誇る桃の花の花びらだけが、桃色の雪のように散って、気味がわるいくらいに美しい。
風もなく、雲もなく、鳥もいなければ虫もいない、しんとしたなかで、見渡す限り桃色ばかり。
これが張伸のいう、「夢の里」なのだろうか。
だとしたら、かれの心象風景は、ずいぶん貧しいものだったということになる。
趙雲は、張伸が病弱で、ほとんど家のなかで暮らしていたということを思い出した。
張伸にとっては、偉大な自然が、むしろうとましい、災いをもたらすものに見えているのかもしれない。
やがて、趙雲たちは集落の隅っこにある、見た目だけは立派で清潔そうな家に案内された。
白い漆喰の壁に、赤い屋根の家である。
やはり家畜の類はなく、大地はからからに干からび、水ッ気はまったくない。
桃の木以外の植物という植物はしおれるか、あるいは無残に葉が千切られるかしている。
真上にきている太陽は、まったく位置を変える気配がない。
風すらもない状態の世界で、趙雲は、だんだん危機感をおぼえはじめていた。
自然を擬した、異様な世界の中に暮らしていたら、だれだって少しずつおかしくなるのではないか。
まして、水も食糧もないとなれば、判断力など容易に狂う。
つづく…