はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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「奇想三国志 英華伝」のなりたち

2023年11月26日 10時10分27秒 | 奇想三国志 英華伝 設定集
「奇想三国志 英華伝《えいかでん》」は、趙雲と孔明を主役にした三国志シリーズ。


そもそも、どうして趙雲と孔明のコンビの話を作ろうと思ったのかというと。
まず孔明の話を書きたかったことから、すべては始まった。
基本は柴田錬三郎の「英雄ここにあり」の清雅の極みといった孔明像。
吉川英治版三国志の孔明とも、三国志演義の孔明ともちがう、存在していそうで、絶対に存在しえない唯一無二のキャラクターにあこがれ、自分も書いてみたいなあと思ったため。
「英雄ここにあり」は、女性たちがだいたい不憫《ふびん》だが、そのぶん、孔明の潔《いさぎよ》さが際立っていた。


孔明ひとりが主人公というのは、ちょっと寂しい。
相棒がいたら面白いなと思った。
相棒にふさわしいキャラクターってどんなキャラクターだろうと想像を働かせ、行きついたのが、やっぱり趙雲だった。
柴錬《しばれん》の趙雲も、まさに理想の美丈夫。
まず失敗をしないキャラクターで、孔明の理解者としてぴったり。
それに趙雲は、劉備にすら物おじせず、直言できる立ち位置にいる。
孔明相手なら、じっさいの趙雲も直言をしていたかもしれない。
そこで、趙雲が相棒に決まった。
ビジュアル的にも、清雅な孔明と、凛々しい趙雲で、なかなか華やかである。


そんな二人を書きたいなと思い始めたのは学生時代で、そのころは、まだ三国志に正史と演義がある、ということもわからず、三国志演義の話は本当の話だと思っていた。
やがて自分も趣味で小説を書くようになり、それと並行して、わりと容易に正史三国志の情報も入手できるようになってきた。
ビジネス雑誌などで、歴史特集をよくやるようになった時代だった。
そこではっきりわかったことがある。
どうやら、自分の思い込みはまちがっていて、正史三国志とやらのほうが、史実に近いらしい……
正史三国志の記述は素っ気ないうえ、柴錬のイメージで出来上がっていた頭の中の空想の「三国志」世界に、じわじわひびを入れてくれた。
もちろん正史三国志が「歴史」に近い、というか、そのものなのだろうけれど……
「蜀書 董和《とうわ》伝」で孔明が語る「気の合う人物」に趙雲が含まれていないことにガッカリしたのは事実。


とはいえ、それでめげはしなかった。
三国志演義で、「孔明が死んだとき、趙雲の葬られた山が崩れるという夢を劉禅が見る」といった挿話が示すとおり、「趙雲と孔明は仲が良かったんだ」説を唱えているし、そうであってほしいという願望が自分の頭の中にも棲みつづけていた。
演義は、作者が趙雲をひいきしている→主役級の孔明との仲の良さを語ることで、さらに趙雲を輝かせた、という説もあるようだが……
一方で、趙雲と孔明の仲の良さを示すなんらかの史料が羅貫中の時代に残っていたのかも! という希望も捨てきれないでいた(いまもそう)。


あれこれ想像して、ものがたりを膨らませるのは面白かった。
「趙雲と孔明とはどんな人物だったろう?」
「やっぱり柴錬三国志の趙雲と孔明みたいだったのかなあ?」
想像していくと、それまで漠然と恰好いいというだけの趙雲のイメージも、具体的にアップしていった。
そして、趙雲のイメージが完璧に整ってくると、それに見合うバランスの取れた人物として、孔明もまたイメージが高まっていった。


そのうち、頭の中で、二人は神さまみたいになってしまった。
そうなると、こんどは小説を書く上で面白くない。
神さまは、神さまゆえに、なんでも出来てしまうし、なんでもお見通しだからである。
なにより、神さまのような人物が二人もそろっているのに、「天下を取れなかった」という事実と整合性がとれない。
だいたい、完璧超人ふたりの主である劉備は、それを上回るすごい人、と設定しないといけなくなる。
頭の中で、劉備はお釈迦様みたいになってしまった。
人物設定のインフレである。


完璧超人たちが激しく攻防戦を繰り広げる話も面白いだろうなとは思うが……それを書く力量は自分にはない。


そこで、孔明に影の部分を作ることも考えた。
学生時代にはじめて書いた三国志の作品では、「右手に神の目を宿している不思議な青年」として孔明を登場させた。
こう書くと、なにを言い出した、と思われるかもしれないが、当時は真剣に考えた設定である。
どこが「影」なのかというと、孔明は徐州で一回、命を落としており、生き返らせる代償として、神が身体を乗っ取っている、という設定なんである。
その小説内では、孔明は三顧の礼を受けるまえから趙雲と知り合って、ともに妖怪退治をしたことで、よしみを通じ合う、という展開だった。
トンデモ設定をわざわざつけて、真正面から時代劇として書かなかったのは、自分の知識不足を誤魔化すためである。


三国志を全く知らない友人に読んでもらったところ、
「ちゃんと小説になっているよ!」
と微妙なお褒めの言葉を頂戴《ちょうだい》した。
それで気をよくして続きを書いていれば、もっと面白い展開になっていたかもしれない。
だが、受験、転居、そして、就職と、いろいろあり、三国志そのものを書くことがしばらく出来ない時代がつづいた。


それでも、趙雲と孔明のコンビをどう描くかのシミュレーションは、つねに頭の中でしていた。
とはいえ、ともかく知識不足で、田舎の学生には、この壮大なテーマをどう料理していいかはわからなかった。
ただ漠然と、書きたいなと思う程度。
ぼんやりとした願望を抱えたまま、社会人になったばかりのころは、正史三国志も三国志演義にも、どちらにも触れられなかった。
いま思うと、ちゃんと三国志を勉強していれば、ビジネスに役立ったかもしれないとも思うが……
しかし、いったん離れた、というのが、かえってよかったのかもしれない。


光栄(現コーエーテクモ)さんの出版した雑誌「光栄ゲームパラダイス」が発売された。
この読者投稿型の雑誌におおいに刺激を受け、
「自分も投稿しよう!」
と思い立ち、「孔明が趙雲の死を嘆く短編」を送った。
そしたら掲載してもらえて、編集のKさんから「感動した」という言葉ももらえた(旧ペンネーム鋏野仲真《はさみのなかま》で掲載してもらった)。
どうやら、本当に自分の書いたものは本当に「小説になっている」ようである。


はずみがついて、三国志ものを本格的に書いてみようか? と思いはじめ、
「趙雲と孔明を軸にしたオリジナル三国志」
の設定をあらためて作り始めた。


柴錬三国志や正史三国志の影響が薄くなっていたころにはじめたので、
今度はきちんと、自分なりに、
「趙雲と孔明は、ほんとうにどういう人たちだったのだろう?」
と考えるようになっていった。
孔明の造形については、柴錬のイメージのほか、父の教えてくれた実在の政治家の様子や、他国の英雄の目力の話などを参考に、より膨らませた。


三国志というジャンルはとても人気のあるジャンルなので、いつか自分と似たアイデアを持つ作家さんが、趙雲と孔明を軸にしたお話を書くことがあるかな、とも思っていた。
ところが、待てど暮らせど、同じか、あるいは類似の作品は出てこない。
自分が知らなかっただけかもしれない……
ただ、近い作品もあったが、決定的なところがどうしてもちがうのである。
次第に、自分で書いたほうがいいな、と思うようになった。


だが、ほかの作家さんの書かれたものと接したときに感じた「自分の想像とはちがう」という感情は、悪いものではなく、いいものだった。
おかげで、ぼんやりしていた自分の頭の中の趙雲像と孔明像が鮮明になった。
孔明は優しく、厳しく、凛々しい人物で、喜怒哀楽がはっきりある。
決して完ぺきではなく、試行錯誤しながらも、けんめいに前に進んでいく。
趙雲は、そんな孔明を助けていくなかで、自分自身の眠れる資質……寛大さ、穏やかさ……を見つけていき、雄々しいだけではない、思慮深い武人として成長していく。
という、物語の骨格ができた。


趙雲と孔明の設定ができると、ドミノ倒しのように、ほかの設定も決まっていった。
とはいえ、決まったのは人物設定と、おおまかな「あらすじ」だけ。
なにより、震災前までは、自分には正史の知識が不足しすぎていた。
ほんとうにすべてが形になって頭に表れたのは、つい最近のこと。
gooブログや個人サイトで書いていた作品を書き直し、タイトルのなかった作品群に「奇想三国志」という名をつけて、まとめることにした。


「英華伝《えいかでん》」というのは、漢和辞典を調べていたら見つけた言葉で、英雄たちの華やかな才覚を描く、という意味でつけた。
じつは、「双龍伝《そうりゅうでん》」が最初だったが、こちらはBook Walkerさんから出した同人誌のタイトルに使ってしまったため、変えた次第である。


孔明はどういう人物だったのか?
もしかしたら、ものすごく頑固で、自分の理想のために国を、軍を、民衆を犠牲にした人物かもしれない。
趙雲もじつは似たり寄ったりで、自分は「趙雲別伝」に惑わされているだけなのかもしれない。
史実の二人を知る由《よし》はない。
あらたになにか史料が発掘でもされないかぎり。


とはいえ、なにか、「こうじゃないかなあ」という理想というか、像が頭にあって、それがなかなか覆《くつがえ》らない。
歴史小説を書こうとしているのではなく、時代小説を書こうとしているのだし、あんまり厳密に「史実とは」と考え込まなくてもいいのではと思い始めている。
かといって、自分の欲を優先させ過ぎず、面白おかしい虚実いりまじったお話を作って、みなさんに、これまた、
「小説になっているよ! 面白いね!」
と喜んでもらえたなら、さいわいである。



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