母はここで、一生を過ごす覚悟を決めているのだなと、その姿を見て、雲は思った。
母の幸福がなんなのか、それはよくわからない。
ただ、母の幸福に、あまり自分が関わっていないだろうことはわかった。
母の視野のほとんどを第一夫人が占めいている。
夫人もまた、雲の母を頼りにしているようだ。
その手を取って、しきりに切々と何かを訴えており、雲の母は我慢強く、それを聞いている。
ほかの夫人たちを向こうにまわし、母は母なりに、第一夫人と、奇妙な友情を育んでいるのだ。
「そのとなり」
言われるまま、雲が視線を移すと、そこでは義姉が、自分の姪にあたる赤子を、やさしくあやしている姿があった。
昼間は姑にいびられている兄嫁だが、夜は、こうして娘たちと、おだやかな時間をすごすことができる。
灯火のもと、ささやかな幸福をこころから味わっているようだ。
やはり兄嫁もまた、自分の幸福を娘たちのなかに見つけているのだろう。
「さらにもっと奥。いちばん奥の部屋だ、ほら」
父のいる母屋のすぐ隣の棟である。
ひときわ明かりを抑えた部屋に、だれかがいる。
雲は、もっとよく見ようと、引き込まれるようにして、その部屋に目を凝らした。
部屋にいるのは、長兄であった。
長兄がだれかと話をしている。
声までは聞こえないが、その醸し出す穏やかな雰囲気は、雲が長兄から、いままでに感じたことのない種類のものであった。
すると、窓に滑り込むようにして、女の背中があらわれた。
雲がおどろいたことには、その女は一糸もまとっていなかった。
美しくもなまめかしい体の線を、薄明かりににじませて、長兄に正面を向いている。
すべてを晒しているのだ。
父の妾だ。
裸女の正体がわかったとき、頭をいきなりぶん殴られたような錯覚をおぼえた。
妾は、帳の向こうに待つ長兄に、しなだれかかるようにする。
こちら側に背を向けているために、その表情はわからないが、二人がたがいに、心待ちにしていた逢瀬を楽しんでいることは、遠目からもあきらかであった。
不意に、目の前が真っ暗闇になった。
「はい、ここまでだ。十五歳未満は見てはならぬ。
つづきは、自分が女を相手にするときの、お楽しみにしておけ」
敬が雲の目に、手のひらで目隠しをしたのだ。
その腕を振りほどいて、ふたたび窓に目を遣ったときには、もう部屋の明かりは消え、二人の姿は夢幻のように闇に溶けていた。
雲は立ち上がった。
許せなかった。
勘気をこうむるのが嫌だと、おのれの妻を母親からのいびりからかばうこともなく、自分は、あろうことか父親の妾と通じているのだ。
「こらこら、待て。あの二人の関係を知ったのは、おそらくここでは、おまえがいちばん最後だ。
いま踏み込むと、えらいことになっているぞ」
みんなが知っている、という事実にも、雲は衝撃をおぼえた。
知っていながら、なぜ糾弾しないのか。
長兄の情事は、雲の道徳観から真っ向に反するものであったし、なにより兄嫁が気の毒だ、と思った。
「兄上を軽蔑するか?」
敬の問いに、雲は、大きくうなずいた。
当然ではないか。
敬はそれを見ると、嘆かわしい、というふうに首を振った。
「世間的な道徳に照らし合わせれば、兄上は、父の妾をぬすみ、情を通わせている。
これほど不忠はない。
だが、長兄の人生は、未来のおまえの姿かもしれぬぞ。
この息苦しい家で、まるでちくちくと、針で突き刺されつづけているかのような毎日を送らねばならぬ身の上を想像してみろ。
長兄は、わたしのように、逃げ出すこともできぬのだ。
それでもおまえは、兄上を糾弾するのか」
未来の自分の姿。
そういわれて、雲は、明かりの消えた、長兄のいた部屋を振り返った。
長兄と妾の関係が、たんなる遊戯なのか、それとも本気なのか、それはわからない。
ただ、敬が言ったとおりだと、どこかで納得してしまったようで、いつのまにか、激しい怒りが収まっている自分に気づいてしまった。
「どんな立派な一族にも、ひとつやふたつは、秘密がある。
それでも不思議と家というものは続いていくのさ。さまざまな秘密をかかえたまま、な。
家長になるということは、家という荷車の車輪になる、ということだ。
車輪が腐れば車は回らなくなる。突っ走ったら、荷が崩れ落ちてしまう。
みなと共に、地道にゆっくりと歩をすすめていかねばならない。
これはこれで大変な作業だ。兄上を尊敬するよ」
次兄は、長兄をゆるしているのだ。
そう思うと、雲のなかにまだあった、嘔吐感にも似た長兄への軽蔑の念も鎮まった。
たしかに、長兄の背負うものは大きい。
その大きさに耐えかねて、不義に走らざるを得なくなっているのかもしれない。
妾にしても、自分を愛していない老人の世話を見続けなければいけない立場だ。
どちらもひどく重苦しい日々を過ごしている。
そう思えば、ふたりは悲しい。
不義はゆるされぬ罪だが、糾弾するのは、末弟の自分ではなく、ほかの人間がすればいいではないか。
つづく
母の幸福がなんなのか、それはよくわからない。
ただ、母の幸福に、あまり自分が関わっていないだろうことはわかった。
母の視野のほとんどを第一夫人が占めいている。
夫人もまた、雲の母を頼りにしているようだ。
その手を取って、しきりに切々と何かを訴えており、雲の母は我慢強く、それを聞いている。
ほかの夫人たちを向こうにまわし、母は母なりに、第一夫人と、奇妙な友情を育んでいるのだ。
「そのとなり」
言われるまま、雲が視線を移すと、そこでは義姉が、自分の姪にあたる赤子を、やさしくあやしている姿があった。
昼間は姑にいびられている兄嫁だが、夜は、こうして娘たちと、おだやかな時間をすごすことができる。
灯火のもと、ささやかな幸福をこころから味わっているようだ。
やはり兄嫁もまた、自分の幸福を娘たちのなかに見つけているのだろう。
「さらにもっと奥。いちばん奥の部屋だ、ほら」
父のいる母屋のすぐ隣の棟である。
ひときわ明かりを抑えた部屋に、だれかがいる。
雲は、もっとよく見ようと、引き込まれるようにして、その部屋に目を凝らした。
部屋にいるのは、長兄であった。
長兄がだれかと話をしている。
声までは聞こえないが、その醸し出す穏やかな雰囲気は、雲が長兄から、いままでに感じたことのない種類のものであった。
すると、窓に滑り込むようにして、女の背中があらわれた。
雲がおどろいたことには、その女は一糸もまとっていなかった。
美しくもなまめかしい体の線を、薄明かりににじませて、長兄に正面を向いている。
すべてを晒しているのだ。
父の妾だ。
裸女の正体がわかったとき、頭をいきなりぶん殴られたような錯覚をおぼえた。
妾は、帳の向こうに待つ長兄に、しなだれかかるようにする。
こちら側に背を向けているために、その表情はわからないが、二人がたがいに、心待ちにしていた逢瀬を楽しんでいることは、遠目からもあきらかであった。
不意に、目の前が真っ暗闇になった。
「はい、ここまでだ。十五歳未満は見てはならぬ。
つづきは、自分が女を相手にするときの、お楽しみにしておけ」
敬が雲の目に、手のひらで目隠しをしたのだ。
その腕を振りほどいて、ふたたび窓に目を遣ったときには、もう部屋の明かりは消え、二人の姿は夢幻のように闇に溶けていた。
雲は立ち上がった。
許せなかった。
勘気をこうむるのが嫌だと、おのれの妻を母親からのいびりからかばうこともなく、自分は、あろうことか父親の妾と通じているのだ。
「こらこら、待て。あの二人の関係を知ったのは、おそらくここでは、おまえがいちばん最後だ。
いま踏み込むと、えらいことになっているぞ」
みんなが知っている、という事実にも、雲は衝撃をおぼえた。
知っていながら、なぜ糾弾しないのか。
長兄の情事は、雲の道徳観から真っ向に反するものであったし、なにより兄嫁が気の毒だ、と思った。
「兄上を軽蔑するか?」
敬の問いに、雲は、大きくうなずいた。
当然ではないか。
敬はそれを見ると、嘆かわしい、というふうに首を振った。
「世間的な道徳に照らし合わせれば、兄上は、父の妾をぬすみ、情を通わせている。
これほど不忠はない。
だが、長兄の人生は、未来のおまえの姿かもしれぬぞ。
この息苦しい家で、まるでちくちくと、針で突き刺されつづけているかのような毎日を送らねばならぬ身の上を想像してみろ。
長兄は、わたしのように、逃げ出すこともできぬのだ。
それでもおまえは、兄上を糾弾するのか」
未来の自分の姿。
そういわれて、雲は、明かりの消えた、長兄のいた部屋を振り返った。
長兄と妾の関係が、たんなる遊戯なのか、それとも本気なのか、それはわからない。
ただ、敬が言ったとおりだと、どこかで納得してしまったようで、いつのまにか、激しい怒りが収まっている自分に気づいてしまった。
「どんな立派な一族にも、ひとつやふたつは、秘密がある。
それでも不思議と家というものは続いていくのさ。さまざまな秘密をかかえたまま、な。
家長になるということは、家という荷車の車輪になる、ということだ。
車輪が腐れば車は回らなくなる。突っ走ったら、荷が崩れ落ちてしまう。
みなと共に、地道にゆっくりと歩をすすめていかねばならない。
これはこれで大変な作業だ。兄上を尊敬するよ」
次兄は、長兄をゆるしているのだ。
そう思うと、雲のなかにまだあった、嘔吐感にも似た長兄への軽蔑の念も鎮まった。
たしかに、長兄の背負うものは大きい。
その大きさに耐えかねて、不義に走らざるを得なくなっているのかもしれない。
妾にしても、自分を愛していない老人の世話を見続けなければいけない立場だ。
どちらもひどく重苦しい日々を過ごしている。
そう思えば、ふたりは悲しい。
不義はゆるされぬ罪だが、糾弾するのは、末弟の自分ではなく、ほかの人間がすればいいではないか。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます(^^♪
今日は急用でいますぐ出かけなくてはならず、これにて失礼いたしまーす。
ではでは、よい一日をお過ごしくださいねー('ω')ノ