※
関羽が江夏《こうか》へむかってから十日ほどたつが、かれが船を連れてくる気配はまったくなかった。
当初は楽観的だった人々も、だんだんじりじりしてきているのが、趙雲にもわかる。
難民たちのなかで、いさかいが増えているのだ。
食糧や水をめぐるものだったり、歩き方が悪いだのと言ったくだらない原因のもの、赤ん坊がうるさいといったことまで、喧嘩の原因はさまざまだった。
それらをこまごまと仲裁しつつ、一方で、難民たちに先行して、行く先の土地の豪族と交渉し、休む場所と水を提供してもらうための交渉をした。
孔明がこまかく記載していた、井戸と水脈のありかの地図が、たいへんものを言った。
おかげで、時間をあまりかけずに、難民たちは水を得ることができたのである。
もちろん、交渉が平易に進まないときもあった。
だが、それでも孔明が出てくると、豪族のほうがおどろいて、あっさり退《ひ》くことが多かった。
それだけではなく、孔明がその場にいなくても、
「臥龍先生のおっしゃることならば」
で通用することが多々あるのには、趙雲も感心してしまった。
これほどに、孔明の名は荊州中にくまなく鳴り響いていたのだ。
ところが、とある豪族の屋敷に孔明とともに行った際に、ちょっとちがうな、と気づいた。
その豪族は、いかにも大人《たいじん》といったふうの、風韻《ふういん》の大きそうな中年男だったが、孔明が現れると目をほそめて、
「これはこれは、お久しゅうございます、臥龍先生。
いつぞやの『盲目の軽業師の事件』以来ですな」
と、謎めいたことを口にした。
なんのことだろうと趙雲がぽかんとしていると、脇に控えていた豪族の奥方らしい女が口をはさんできた。
「『南風村の消失騒動』のときも従兄弟がお世話になったようで、お礼を言いそびれておりました、ありがとうございます」
なんだそれは、とますます混乱していると、さらに豪族本人が言う。
「『からくり水車』のときも、いろいろご尽力いただきました。
臥龍先生がお求めならば、われらとしても、出来うるかぎり、みなさんのお力になりたいとおもっております」
言われて孔明は、照れているような、困惑しているような、複雑な顔をしつつ、ちらちらと趙雲のほうに目を向けてくる。
どうやら、軽業師だの、消失騒動だの、からくり水車だのといったことは、あまり知られたくない種類のことだったようだ。
豪族たちといったん別れて劉備たちのもとへ戻る道すがら、趙雲は孔明にたずねた。
「さっきの豪族が言っていた、からくりだの軽業師だの消失騒動だのとは、いったいなんのことだ?」
孔明は、覚えているのか、とでもいわんばかりに迷惑そうな表情になった。
「まあ、ちょっと、いろいろあったのだよ」
「いろいろ、とは」
「わが君にお仕えする以前に、豪族たちのもめ事を解決したことがあったのだ。
かれらはそれを言っている」
「なんだか奇妙な単語がポンポン出ていたが」
「複雑な事件がいくつかあって、それを解決したので、喜ばれたという話さ。
もういいじゃないか、過去のことだし」
「気になる」
「おたがい、この難局を切り抜けて生き残れて、そのうえであなたがおぼえていたら、いつか話してあげよう。でも、いまはだめだ」
ケチ、とちょっぴりおもったが、たしかに切迫した事態がつづいているなかで、のんびり思い出話をしている場合ではない。
それで話は終わりかとおもいきや、孔明がさらに言った。
「子龍、いま聞いた話は、内密にな。あまり人に知られたくないのだ」
「人助けをしたという話だろう。どうして知られたくないのだ」
「人助けはたしかにしたさ。でも、その手法は、あまり口外できないものも含まれているのだよ」
「たとえば?」
「そうさな、これも内密にしてほしいが、廷吏のまねごとをしてみたこともあるし、県令の部下をうまく操作して、事態をおさめたこともあるのだ」
「そ、そうか」
なるほど、それはあまり『清廉な軍師』には似合わない行動だった。
しかし、趙雲は孔明が理想より実利を取る場合もある、行動力のある男だと知っている。
孔明のいったとおり、『いろいろ』あったのだろう。
「たしかに喜ばれはしたし、丸くもおさまったが、かといって、手段が正しかったかというと、そうではない。
若かったから、知恵も足りなかったので、だいぶ強引な手も使ったからな。
みな黙ってくれているが、なかには、わたしのやりように疑問を覚えている人もいるかもしれない」
つづく
関羽が江夏《こうか》へむかってから十日ほどたつが、かれが船を連れてくる気配はまったくなかった。
当初は楽観的だった人々も、だんだんじりじりしてきているのが、趙雲にもわかる。
難民たちのなかで、いさかいが増えているのだ。
食糧や水をめぐるものだったり、歩き方が悪いだのと言ったくだらない原因のもの、赤ん坊がうるさいといったことまで、喧嘩の原因はさまざまだった。
それらをこまごまと仲裁しつつ、一方で、難民たちに先行して、行く先の土地の豪族と交渉し、休む場所と水を提供してもらうための交渉をした。
孔明がこまかく記載していた、井戸と水脈のありかの地図が、たいへんものを言った。
おかげで、時間をあまりかけずに、難民たちは水を得ることができたのである。
もちろん、交渉が平易に進まないときもあった。
だが、それでも孔明が出てくると、豪族のほうがおどろいて、あっさり退《ひ》くことが多かった。
それだけではなく、孔明がその場にいなくても、
「臥龍先生のおっしゃることならば」
で通用することが多々あるのには、趙雲も感心してしまった。
これほどに、孔明の名は荊州中にくまなく鳴り響いていたのだ。
ところが、とある豪族の屋敷に孔明とともに行った際に、ちょっとちがうな、と気づいた。
その豪族は、いかにも大人《たいじん》といったふうの、風韻《ふういん》の大きそうな中年男だったが、孔明が現れると目をほそめて、
「これはこれは、お久しゅうございます、臥龍先生。
いつぞやの『盲目の軽業師の事件』以来ですな」
と、謎めいたことを口にした。
なんのことだろうと趙雲がぽかんとしていると、脇に控えていた豪族の奥方らしい女が口をはさんできた。
「『南風村の消失騒動』のときも従兄弟がお世話になったようで、お礼を言いそびれておりました、ありがとうございます」
なんだそれは、とますます混乱していると、さらに豪族本人が言う。
「『からくり水車』のときも、いろいろご尽力いただきました。
臥龍先生がお求めならば、われらとしても、出来うるかぎり、みなさんのお力になりたいとおもっております」
言われて孔明は、照れているような、困惑しているような、複雑な顔をしつつ、ちらちらと趙雲のほうに目を向けてくる。
どうやら、軽業師だの、消失騒動だの、からくり水車だのといったことは、あまり知られたくない種類のことだったようだ。
豪族たちといったん別れて劉備たちのもとへ戻る道すがら、趙雲は孔明にたずねた。
「さっきの豪族が言っていた、からくりだの軽業師だの消失騒動だのとは、いったいなんのことだ?」
孔明は、覚えているのか、とでもいわんばかりに迷惑そうな表情になった。
「まあ、ちょっと、いろいろあったのだよ」
「いろいろ、とは」
「わが君にお仕えする以前に、豪族たちのもめ事を解決したことがあったのだ。
かれらはそれを言っている」
「なんだか奇妙な単語がポンポン出ていたが」
「複雑な事件がいくつかあって、それを解決したので、喜ばれたという話さ。
もういいじゃないか、過去のことだし」
「気になる」
「おたがい、この難局を切り抜けて生き残れて、そのうえであなたがおぼえていたら、いつか話してあげよう。でも、いまはだめだ」
ケチ、とちょっぴりおもったが、たしかに切迫した事態がつづいているなかで、のんびり思い出話をしている場合ではない。
それで話は終わりかとおもいきや、孔明がさらに言った。
「子龍、いま聞いた話は、内密にな。あまり人に知られたくないのだ」
「人助けをしたという話だろう。どうして知られたくないのだ」
「人助けはたしかにしたさ。でも、その手法は、あまり口外できないものも含まれているのだよ」
「たとえば?」
「そうさな、これも内密にしてほしいが、廷吏のまねごとをしてみたこともあるし、県令の部下をうまく操作して、事態をおさめたこともあるのだ」
「そ、そうか」
なるほど、それはあまり『清廉な軍師』には似合わない行動だった。
しかし、趙雲は孔明が理想より実利を取る場合もある、行動力のある男だと知っている。
孔明のいったとおり、『いろいろ』あったのだろう。
「たしかに喜ばれはしたし、丸くもおさまったが、かといって、手段が正しかったかというと、そうではない。
若かったから、知恵も足りなかったので、だいぶ強引な手も使ったからな。
みな黙ってくれているが、なかには、わたしのやりように疑問を覚えている人もいるかもしれない」
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます(^^♪
おかげさまで「なろう」のほうでも五万PVを達成しましたー(*^-^*)
読んでくださっているみなさまに大感謝です!!
でもって、今回登場の「軽業師」だの「消失事件」だの「からくり水車」だのは、お話にまったく関係のないエピソードとなります;
ホームズ物における「名前だけ登場し、ワトソンが事件簿に取り上げなかった事件の数々」と同じと思っていただけたなら……
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どうぞご協力よろしくお願いいたします!(^^)!
では、次回をおたのしみにー(*^▽^*)