※
「夢で見た、というとまさに熱望していたように聞こえるが、冗談ではない。夢を見させられたわけだ。
なるほど、よくよく見れば、さほど立派なつくりというわけでもない。簡素なつくりであるが、見張りの役目はきちんと果たしているようだ。
こんな枯れ果てた土地にも、蒲公英が咲いている。川の音が聞こえるな。すこしは水があるのか。
ごめんください、名乗らずともわかっているだろうからあえて名乗らぬぞ!
せっかくはるか南の国から足を運んでやったのに居留守か?
ええい、賭場に踏み込んだ警吏のきもちだ。無駄な抵抗はやめて出てこい!
おや、鍵が開いた。愛想のない。出迎えもいないのか。
勝手に入るぞ。こんにちは。なんとなく挨拶をかかさないところが、わたしの育ちのよさを証しているよな。
確実にだれかいると思うのだが、いつまでわたしをひとりで喋らせておくつもりかね。それとも、この土地では、こうして殺風景な塔に誘い込むのがもてなしの流儀なのか。赤毛の老人か狼か、あるいは竜め、出てこい!」
「いつまで喋っておるのかと興味があったのでな。遠路はるばるご苦労であった」
「やっとおでましというわけか。赤毛の老人。こうして直にことばを交わすのは初めてだな」
「赤毛の老人?」
「そうだ。おまえのことではないのか」
「そうか、おまえにはわたしが赤毛の老人に見えているのか。そういえば、かつてはこの土地に、こんな塔を建てて男たちを監視していた男がいた。そいつが赤毛だったように思う」
「おかしなことを。おまえは月氏の男ではないのか」
「おまえこそおかしなことを言う。さっき自分でずばりわたしを言い当てていただろう。竜、と」
「ああ」
「赤毛の老人は、かつてこの地において、この塔に住み、最初にわたしの身体を掘り出させた。すでに朽ちた身ゆえ、もはや人界にあたえる影響などさほどなかろうと油断していたのがいけなかった。まさかあんな小さなものが、これほど多くの人間の運命をくるわせてしまうとはな」
「五つの石とは、つまりは」
「わたしの爪だ」
「なるほど。貴殿は五爪の竜であったか」
「ほかにもいろいろと名前があって、おまえたちは好きなように呼んでいた。とはいえ、もう身体は朽ちたのに、この世にいつまでも留まるのもおかしかろう。
だからこそ昇天しようと思っていたのだが、爪が足りないばかりに、長いあいだ、ずっと天に還れずにいたのだ」
「迷惑なことだ。こんどから爪に自分の住所と名前を書いておけ。ここまでくるのにどれだけ骨を折ったことか」
「次からそうしよう」
「…………素直だな。これではまるで、わたしがいじめっ子みたいではないか」
「肉体は滅びようと、その魂は不滅のものであるわたしから見れば、おまえは、この土地のちいさな草地にあるたんぽぽとそうは変わらぬものだ。小さな存在のちいさなことばに、いちいち腹は立てぬよ」
「そういうものなのか。ちと想像がつかぬ」
「あらためて歓迎の意を述べよう、小さき者よ。おまえがすべて揃えてくれたので、ようやくわたしは天に還ることができる」
「礼を言うために、わたしをわざわざここまで連れてきたのか。しかも天下を語らせて、そのうえ友の幻まで作って」
「何百年というあいだに、もうすこしでここにたどり着く、という者が何人もいた。かれらを守るために、わたしはそのそれぞれに、その者の、もっとも大切に思う『裏切れない者』を道案内をつけたのだが、みながみな、その道案内の制止もかまわず、私欲に走って、身を滅ぼした。しかしおまえはそうはならなかった。なぜだろうと、興味があったのでな」
「なら、やはり武威の崖までたどり着けば、あとはここまで来る必要はなかったのだな」
「爪が欠けてしまっているために、わたしの力は完全にふるうことが出来ずにいた。おまけに人間どもが、わたしの骨をがりがりと削って飲んでしまうので、たまに狼の姿で追い払っていたのだ」
「む? ということは、武威の骨と、この崖から出た骨はつながっているのか?」
「向こうが頭で、こちらが尾っぽだ」
「どれだけの大きなものなのか、さっぱり想像もつかない」
「おまえの話を聞いていてわかった。おまえは幸せなものなのだ」
「意外なことをいうな。幸せ? わたしがか? ちゃんと人の話を聞いていたのかね」
「聞いていた。おまえの言葉には熱がある。自身の思い描いた夢に、ほんものの血を通わせようという熱が感じられた。おまえは目のまえのことに一心不乱になれるから、ささいな欲望に惑わされることがないのだろう」
「わたしが、ではなくて、わたしの周囲にいる人々がそうだから、わたしも自然とそうなったのだ」
「わたしはおまえが気に入った。おまえに天下を取らせてやろう」
「断る」
※
「なんとな?」
「なんとな、ではない。もう一度いう。断る」
「自分が劉氏ではないことが引っかかっておるのか」
「そうではない。血統だけで天下は取れない。もともと劉氏の漢とて、秦をほろぼして為った国ではないか」
「おまえはもともと、臥龍などとあだ名されていたのだろう」
「あだ名はあだ名にすぎぬ。龍であると評価されたとしても、それがそのまま素晴らしい未来につながっているわけではない。多少、実力があると評価されたとしても、それを礎にして戦える者でなければ、結局は、評価されたという事実しか残らない」
「これまた珍しく謙虚なことだな。せっかくわたしの力を貸してやろうというのに」
「むかし、もし天になんでも願いをかなえてやると言われたら、天下のことではなにも願わないと約束したことがある。まさかほんとうに願いをかなえてやると言われるときがくるとは思っていなかったが、天下のことは天下にたくさんいる人間が、それぞれ必死に考えている。かれらに任せておけばよかろう」
「もったいないことだ。おまえにとっても、天下にとってもな。わたしはこれで天に還り、人の願いを聞くこともなくなるだろう。それでもよいのか」
「かまわぬ。天下はいらない」
「ならば、なにを望む」
「願いを言うまえに、ひとつ教えてほしいことがあるのだが」
「なんだ」
「天水で別れた趙子龍は、いまどうしているだろう。かれはちゃんと故郷に戻れたのだろうか」
「さて。故郷には戻っておらぬよ」
「なにかあったのか。病に倒れたとか」
「いいや、道の途中で、行くか進むか、ずっと迷っている。足がまるで鉛になったように動けないでいるのだが、かといって戻ることもためらわれるのだろう。頭をかかえて困り果てているのが見える」
「なぜ迷っているのだ。願いはかなえられただろうに。すべてを忘れることにして、一度は故郷へ向かったはずだろう」
「願いは叶えられてはおらぬ」
「すべてを忘れて、苦しみから解放されたいと願ったのではないのか」
「いいや。あの男が願ったのは、おまえが安らかであるように、だった。おまえが安らかになるためには、おのれの存在が邪魔であろうと思ったのだろう。だからこそ消えてしまおうと考えたようだが」
「消える?」
「そう。けれど、結局は思い切れずに、ただ記憶が消えただけになってしまったのだ」
「願いは、まだかなえられていないというのか。待て、ではわたしはこう願おう。『子龍の願いを叶えるな』と。これならばどうだ」
「かまわぬが、そんなことでよいのか」
「よい。むしろ礼を言う。子龍の願いを知らなければ、わたしは危うく、それこそ永遠に友を失ってしまうところであった。たとえ天下が手に入ったとしても、そこにかれがいなくては意味がない。
消えてしまおうなどと考えたのなら、どうしてそんなふうに思いつめてしまうのかを聞きたい。どうしても消えるというのなら、わたしもいっしょに消える」
「なぜそれほどに」
「なぜって? 不滅の魂である貴殿にはわかるまい。われらの命はちいさく、有限であるからこそ、そのはかない人生を、だれかに知っていてほしいと願うのだ。
あまたいる人間のなかで、たとえ知己を得たとしても、一人の人間をどれほどまで知ることができるだろうか。それは親兄弟、夫婦にしても同じで、たとえ血を分けようが、契りを交わそうが、その心を理解できるかということとは、また別なのだよ。
わたしはかれほどにわたしを理解できる者は、おそらくほかにはだれもいないであろうと確信しているし、それはかれも同じであろう。
わたしはかれのうえに言葉を重ね、そしておなじく行動を示してきた。かれはまさにわたしそのものであり、わたしがこの世に存在することを明かしてくれる人間でもあるのだ。
かれが消えるということは、わたしにとっては、自分が消えてなくなってしまうのとほとんど変わらぬ。天下に刻むことができるのは、わたしの名前と事蹟と印象だけだ。わたしの心を知るのは、家族でも妻でも、ましてやこれから知り合であろう、ほかのだれでもなく、かれだ」
「消えないでほしいというわけか」
「そうだ。しかしそれとて、わたしのわがままなのだろうか。わたしが思っているように、かれはわたしを思っていないようだ」
「なぜそう思う」
「天水で戻ってきた子龍は、わたしの分身として用意した赤毛の男が、その正体を見破られたために用意した道案内だろう。本物はわたしよりも故郷を選んだ」
「たしかに道案内のために作られた幻影だが、その行動や思想などは本人をもとに作ったのだ。だから、たしかにおまえは途中までは、影とはいえ、その心とともに行動をしていた。
絶望することはない。記憶がなくてもなお、あの男は迷っている。おまえが安らかであれと願ってはいるが、しかし自分を消してしまうにもためらいがある。おまえへの執着心が消えないから、その勇気がでないのだ」
「そんな勇気なんて、一生、でなければいい。では、故郷に戻りたくないと言ったのも、かれの本心か。わたしに語った言葉のすべても」
「そうだ」
「…………………………」
「どうする。天下のことは、ほんとうになにも願わないのか」
「それは自分で何とかする。いや、そうではないな。世の中というものにわたしが愛着をもてるのは、そこに愛する者がいるからだ。わたしはかの者の願うとおりの者になりたい。だから天下を望むのだ。
奇跡の力などではなく、自身の力でどこまでできるのか、わたしという人間に、すべてを捨ててまで守る価値があるのか、ほかのだれでもない、かれに見せてみたい。さあ、願いをかなえてくれ」
つづく……
次回、「塔」、最終回!
「夢で見た、というとまさに熱望していたように聞こえるが、冗談ではない。夢を見させられたわけだ。
なるほど、よくよく見れば、さほど立派なつくりというわけでもない。簡素なつくりであるが、見張りの役目はきちんと果たしているようだ。
こんな枯れ果てた土地にも、蒲公英が咲いている。川の音が聞こえるな。すこしは水があるのか。
ごめんください、名乗らずともわかっているだろうからあえて名乗らぬぞ!
せっかくはるか南の国から足を運んでやったのに居留守か?
ええい、賭場に踏み込んだ警吏のきもちだ。無駄な抵抗はやめて出てこい!
おや、鍵が開いた。愛想のない。出迎えもいないのか。
勝手に入るぞ。こんにちは。なんとなく挨拶をかかさないところが、わたしの育ちのよさを証しているよな。
確実にだれかいると思うのだが、いつまでわたしをひとりで喋らせておくつもりかね。それとも、この土地では、こうして殺風景な塔に誘い込むのがもてなしの流儀なのか。赤毛の老人か狼か、あるいは竜め、出てこい!」
「いつまで喋っておるのかと興味があったのでな。遠路はるばるご苦労であった」
「やっとおでましというわけか。赤毛の老人。こうして直にことばを交わすのは初めてだな」
「赤毛の老人?」
「そうだ。おまえのことではないのか」
「そうか、おまえにはわたしが赤毛の老人に見えているのか。そういえば、かつてはこの土地に、こんな塔を建てて男たちを監視していた男がいた。そいつが赤毛だったように思う」
「おかしなことを。おまえは月氏の男ではないのか」
「おまえこそおかしなことを言う。さっき自分でずばりわたしを言い当てていただろう。竜、と」
「ああ」
「赤毛の老人は、かつてこの地において、この塔に住み、最初にわたしの身体を掘り出させた。すでに朽ちた身ゆえ、もはや人界にあたえる影響などさほどなかろうと油断していたのがいけなかった。まさかあんな小さなものが、これほど多くの人間の運命をくるわせてしまうとはな」
「五つの石とは、つまりは」
「わたしの爪だ」
「なるほど。貴殿は五爪の竜であったか」
「ほかにもいろいろと名前があって、おまえたちは好きなように呼んでいた。とはいえ、もう身体は朽ちたのに、この世にいつまでも留まるのもおかしかろう。
だからこそ昇天しようと思っていたのだが、爪が足りないばかりに、長いあいだ、ずっと天に還れずにいたのだ」
「迷惑なことだ。こんどから爪に自分の住所と名前を書いておけ。ここまでくるのにどれだけ骨を折ったことか」
「次からそうしよう」
「…………素直だな。これではまるで、わたしがいじめっ子みたいではないか」
「肉体は滅びようと、その魂は不滅のものであるわたしから見れば、おまえは、この土地のちいさな草地にあるたんぽぽとそうは変わらぬものだ。小さな存在のちいさなことばに、いちいち腹は立てぬよ」
「そういうものなのか。ちと想像がつかぬ」
「あらためて歓迎の意を述べよう、小さき者よ。おまえがすべて揃えてくれたので、ようやくわたしは天に還ることができる」
「礼を言うために、わたしをわざわざここまで連れてきたのか。しかも天下を語らせて、そのうえ友の幻まで作って」
「何百年というあいだに、もうすこしでここにたどり着く、という者が何人もいた。かれらを守るために、わたしはそのそれぞれに、その者の、もっとも大切に思う『裏切れない者』を道案内をつけたのだが、みながみな、その道案内の制止もかまわず、私欲に走って、身を滅ぼした。しかしおまえはそうはならなかった。なぜだろうと、興味があったのでな」
「なら、やはり武威の崖までたどり着けば、あとはここまで来る必要はなかったのだな」
「爪が欠けてしまっているために、わたしの力は完全にふるうことが出来ずにいた。おまけに人間どもが、わたしの骨をがりがりと削って飲んでしまうので、たまに狼の姿で追い払っていたのだ」
「む? ということは、武威の骨と、この崖から出た骨はつながっているのか?」
「向こうが頭で、こちらが尾っぽだ」
「どれだけの大きなものなのか、さっぱり想像もつかない」
「おまえの話を聞いていてわかった。おまえは幸せなものなのだ」
「意外なことをいうな。幸せ? わたしがか? ちゃんと人の話を聞いていたのかね」
「聞いていた。おまえの言葉には熱がある。自身の思い描いた夢に、ほんものの血を通わせようという熱が感じられた。おまえは目のまえのことに一心不乱になれるから、ささいな欲望に惑わされることがないのだろう」
「わたしが、ではなくて、わたしの周囲にいる人々がそうだから、わたしも自然とそうなったのだ」
「わたしはおまえが気に入った。おまえに天下を取らせてやろう」
「断る」
※
「なんとな?」
「なんとな、ではない。もう一度いう。断る」
「自分が劉氏ではないことが引っかかっておるのか」
「そうではない。血統だけで天下は取れない。もともと劉氏の漢とて、秦をほろぼして為った国ではないか」
「おまえはもともと、臥龍などとあだ名されていたのだろう」
「あだ名はあだ名にすぎぬ。龍であると評価されたとしても、それがそのまま素晴らしい未来につながっているわけではない。多少、実力があると評価されたとしても、それを礎にして戦える者でなければ、結局は、評価されたという事実しか残らない」
「これまた珍しく謙虚なことだな。せっかくわたしの力を貸してやろうというのに」
「むかし、もし天になんでも願いをかなえてやると言われたら、天下のことではなにも願わないと約束したことがある。まさかほんとうに願いをかなえてやると言われるときがくるとは思っていなかったが、天下のことは天下にたくさんいる人間が、それぞれ必死に考えている。かれらに任せておけばよかろう」
「もったいないことだ。おまえにとっても、天下にとってもな。わたしはこれで天に還り、人の願いを聞くこともなくなるだろう。それでもよいのか」
「かまわぬ。天下はいらない」
「ならば、なにを望む」
「願いを言うまえに、ひとつ教えてほしいことがあるのだが」
「なんだ」
「天水で別れた趙子龍は、いまどうしているだろう。かれはちゃんと故郷に戻れたのだろうか」
「さて。故郷には戻っておらぬよ」
「なにかあったのか。病に倒れたとか」
「いいや、道の途中で、行くか進むか、ずっと迷っている。足がまるで鉛になったように動けないでいるのだが、かといって戻ることもためらわれるのだろう。頭をかかえて困り果てているのが見える」
「なぜ迷っているのだ。願いはかなえられただろうに。すべてを忘れることにして、一度は故郷へ向かったはずだろう」
「願いは叶えられてはおらぬ」
「すべてを忘れて、苦しみから解放されたいと願ったのではないのか」
「いいや。あの男が願ったのは、おまえが安らかであるように、だった。おまえが安らかになるためには、おのれの存在が邪魔であろうと思ったのだろう。だからこそ消えてしまおうと考えたようだが」
「消える?」
「そう。けれど、結局は思い切れずに、ただ記憶が消えただけになってしまったのだ」
「願いは、まだかなえられていないというのか。待て、ではわたしはこう願おう。『子龍の願いを叶えるな』と。これならばどうだ」
「かまわぬが、そんなことでよいのか」
「よい。むしろ礼を言う。子龍の願いを知らなければ、わたしは危うく、それこそ永遠に友を失ってしまうところであった。たとえ天下が手に入ったとしても、そこにかれがいなくては意味がない。
消えてしまおうなどと考えたのなら、どうしてそんなふうに思いつめてしまうのかを聞きたい。どうしても消えるというのなら、わたしもいっしょに消える」
「なぜそれほどに」
「なぜって? 不滅の魂である貴殿にはわかるまい。われらの命はちいさく、有限であるからこそ、そのはかない人生を、だれかに知っていてほしいと願うのだ。
あまたいる人間のなかで、たとえ知己を得たとしても、一人の人間をどれほどまで知ることができるだろうか。それは親兄弟、夫婦にしても同じで、たとえ血を分けようが、契りを交わそうが、その心を理解できるかということとは、また別なのだよ。
わたしはかれほどにわたしを理解できる者は、おそらくほかにはだれもいないであろうと確信しているし、それはかれも同じであろう。
わたしはかれのうえに言葉を重ね、そしておなじく行動を示してきた。かれはまさにわたしそのものであり、わたしがこの世に存在することを明かしてくれる人間でもあるのだ。
かれが消えるということは、わたしにとっては、自分が消えてなくなってしまうのとほとんど変わらぬ。天下に刻むことができるのは、わたしの名前と事蹟と印象だけだ。わたしの心を知るのは、家族でも妻でも、ましてやこれから知り合であろう、ほかのだれでもなく、かれだ」
「消えないでほしいというわけか」
「そうだ。しかしそれとて、わたしのわがままなのだろうか。わたしが思っているように、かれはわたしを思っていないようだ」
「なぜそう思う」
「天水で戻ってきた子龍は、わたしの分身として用意した赤毛の男が、その正体を見破られたために用意した道案内だろう。本物はわたしよりも故郷を選んだ」
「たしかに道案内のために作られた幻影だが、その行動や思想などは本人をもとに作ったのだ。だから、たしかにおまえは途中までは、影とはいえ、その心とともに行動をしていた。
絶望することはない。記憶がなくてもなお、あの男は迷っている。おまえが安らかであれと願ってはいるが、しかし自分を消してしまうにもためらいがある。おまえへの執着心が消えないから、その勇気がでないのだ」
「そんな勇気なんて、一生、でなければいい。では、故郷に戻りたくないと言ったのも、かれの本心か。わたしに語った言葉のすべても」
「そうだ」
「…………………………」
「どうする。天下のことは、ほんとうになにも願わないのか」
「それは自分で何とかする。いや、そうではないな。世の中というものにわたしが愛着をもてるのは、そこに愛する者がいるからだ。わたしはかの者の願うとおりの者になりたい。だから天下を望むのだ。
奇跡の力などではなく、自身の力でどこまでできるのか、わたしという人間に、すべてを捨ててまで守る価値があるのか、ほかのだれでもない、かれに見せてみたい。さあ、願いをかなえてくれ」
つづく……
次回、「塔」、最終回!