「木蝋の里みやま」を考える(8)

2011-06-21 05:12:36 | 和ろうそく作り体験教室

 木蝋の生産量は、日本が経済成長を始める昭和30年度をピーク(1105トン)に減少の一途を辿り、平成15年度の生産量は73トンにまで落ちこみます。

 福岡県の森林、林業の現状と言う資料で調べてますと、木蝋生産量は、全国で54トン(平成19年度)、福岡県23トン(平成20年度)と更に落ちこんでいます。

 その後の木蝋の生産量は、平成19年(54トン)平成20年度(25トン)平成21年度(22トン)と急激に落ち込んでおります。この数字は事実かなぁ~と、心配する程の減少でありますが、この生産量の数値は、今年初めの特用林産振興会会合で配布された資料であり、信頼できるものと思っております。

 櫨の木も川や土手などに枝葉を伸ばし秋には紅く染まり、たわわに実をつけて人々の生活を支えていたのでしょうが、平成30年を境に、伐採が始まり、ひっそりと姿を消していきます。(今年は明治元年から144年、大正から100年を迎えます)

 木蝋製造業者も時代の流れと共に姿を消して行きますが、福岡県には、昭和62年度、6業者になっています。(先日のキャンドルナイトで長野実行委員長は、この地に50軒あったと話していました)

 亨保2年(1717)に創業の瀬高町下庄の武田蝋屋(昭和11年に海上輸送から鉄道輸送に切り替えるため瀬高駅近くに移転し、日本木蝋に名称変更しています)は、昭和50年(1975)頃に廃業され、258年の歴史を閉じられています。

 明治34年(1901)創業の瀬高町吉井の亀崎製蝋所さんは、平成14年3月(2002)に廃業され、木蝋生産101年の歴史でした。

 これまでもご案内のとおり、みやま市高田町江浦町にある荒木製蝋合資会社の木蝋生産の歴史は、嘉永3年(1850)創業からなんと161年、木蝋生産の歴史を重ねてこられました。

 先に行われた「木ろうの里みやまキャンドルナイト」で灯された「和ろうそく」は、荒木製蝋合資会社の伝統の技でつくられた木蝋を使った市民らの手作りです。

★ 日本の木蝋生産量の推移    「クリックすると大きくなります」

       典拠 木蝋に関する調査報告書 日本特用林産協会

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「木蝋の里みやま」を考える(7)

2011-06-20 03:08:42 | 和ろうそく作り体験教室

 石油系蝋燭(パラフィンろうそく)が、本格的に普及し始めたのは、明治10年頃(1877)と考えられます。

 和蝋燭の需要と生産は、この安いパラフィン蝋燭に押されることなく、順調に伸びて行きますが、明治40年(1907)には、ピークを迎えます。

<日も暮れて 櫨の実とりの帰るころ 郭の裏ゆけば かなしき>

 北原白秋の「桐の花」におさめられている歌である。この歌集の刊行は大正2年(1913)であることから、この時代の社会景が感じれる。(1906~1913までの作品を収録)

 大正時代(1912~1926)を経て昭和(1926~)に入り、石油系パラフィン蝋燭、石油ランプ、電灯の普及により、和蝋燭の需要に影響がではじめるが、櫨蝋の世界は戦中、戦後の難局をのりきる。

 日本の戦後復興がかなって、昭和30年(1955)代になると櫨蝋の世界は、需要にかげりが見えはじめる。その後の日本が高度成長期に入ると、夕日の産業への転換を余儀なくされる。

★ 福岡県の櫨蝋業者の分布図など。クリックすると見やすくなります。

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         「典拠 木蝋に関する調査報告書・庄福BICサイト等」


「木蝋の里みやま」を考える(6)

2011-06-19 16:12:04 | 和ろうそく作り体験教室

 江戸時代に入り、和蝋燭が少しづつ出回ることになりますが、庶民には高嶺の花でした。文献によると、江戸初期の和蝋燭の価格は、10匁(37.5グラム)の蝋燭が24文で、当時の大工さんの一日分の賃金と同じだったようです。

 当地柳川藩でも元禄16年(1703)には、「櫨運上の制」を定め、藩の財政を潤すため、木蝋の製造が促進されることになり、田畑や道筋などに櫨の木が植えられます。

亨保2年(1717)、瀬高町の談議所で武田蝋屋が創業を始め、藩の奨励もあり、蝋屋と呼ばれる板場(製蝋所)をもつ木蝋製造業者ができてゆきます。

 農家も櫨の実を高価で引き取られ、また正月前の現金収入になるため、櫨の木を増やしてゆきます。

 秋の紅葉の時期には、田畑や道筋、川や土手などの櫨の木は赤く染まり、木蝋は柳川藩の主要産物に成長し、幕末、明治へ、木蝋の需要は、維新前の薩摩藩からの特需も相俟って、生産も拡大し、蝋屋も増え続けます。

 柳川藩は、「筑後蝋」として、瀬高町下庄談議所から矢部川を通じ舟により、大阪や長崎に領外輸出を始めます。

大阪市場では、福岡県産の木蝋が8割を占め、日本一の生産高を誇り、木蝋は、石炭とともに、藩財政を支えていきます。

因みに荒木製蝋所が1850年に創業を始めます。

そして、明治維新を迎えます。(1868)

江戸後期から明治にかけて、蝋燭といえば、櫨蝋が中心となり、その座を不動のもとします。

 明治5年、東京浅草の商人で元合津藩士内藤愼之という者が、ドイツより、西洋蝋燭の製法を学び、製造しはじめます。

☆ 「木蝋の里みやま」キャンドルナイトが18日夜、保健医療経営大学にて行われました。

 「和ろうそく」のゆらゆらとゆらぐ温かい灯りのなか、元青年海外協力隊の古賀智美さんが中央アジアのキルギスの楽器で演奏、そしてブリヂストン2kバントの演奏を楽しみながら、スローな夜を過ごしました。

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☆ キャンドルナイトの様子は、千寿の楽しい歴史 http://kusennjyu.exblg.jp/

で詳しくみれます。

 


「木蝋の里みやま」を考える(5)

2011-06-19 16:10:38 | 和ろうそく作り体験教室

 奈良時代(710~794)から、安土桃山時代(1573~1603)まで、実に900年という気が遠くなりそうな永い歴史を経て、江戸時代に入り、待ちに待った和ろうそくに出合うことになります。

 江戸時代(1603~1868)に入ると一部の暖地で櫨の木の栽培が始まり、殖産に熱心な地方の庄屋や篤農家が有益なことを知り、相次いで栽培する者が増えてきた。そして藩主の奨励も相俟って、和蝋燭は、急速に普及発展していくことになります。

 そして蝋燭の需要が増大し、櫨の実から抽出された櫨蝋(はぜろう)は、米や和紙などとともに「和ろうそく」は代表的な地位を占めていくことになります。

☆ 手持ちの「和ろうそく」を撮してみました。

   「 左・中が白蝋、右が生蝋」

  写真をクリックすると大きくなります。

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「木蝋の里みやま」を考える(4)

2011-06-19 16:09:13 | 和ろうそく作り体験教室

 遣唐使中止から中国より入ってこなくなった蝋燭にかわり、日本の蝋燭作りの素材は、櫨の実から抽出した木蝋ではなく、松脂、魚油、漆実などのようです

それではいったいいつ頃から、櫨の実から、木蝋を製造したのでしょうか?

 文献では、大蔵永常翁著の農家益によれば、江戸時代初期、永宝年代(1673~1679)、琉球より、清国舶来の櫨の種子を桜島に移植したという説です。

 もう一つの説は、江戸時代中期、正徳年代(1711~1715)、佐藤信淵著の草木六部耕種法によれば、異国船が薩摩の桜島に漂流し、櫨の種子とともに製蝋法を伝えという説です。

 三つ目の説は、薩摩藩製蝋業の起原を辿れば、元禄年代(1688~1703)大隅国桜島白浜の四郎兵衛と云う人が、山ヶ野金山に鉱夫として働いていた時、奥州会津生まれの一鉱夫から、桜島の村山に野生する櫨の実が会津地方の漆実に似ていること。そしてこの地の櫨実にも必ず蝋があり、それも高価であると教えてくれた。

 鉱夫は仕事を辞めて桜島に帰り、村山の櫨実を採取し、会津の鉱夫から教えられて通りの方法で抽出したら、木蝋を採取した。この採取の事実が藩庁に達し、御用人高崎伊豆を以て、四郎兵衛に対し、木ろうの製造と櫨樹の栽培等、一切を申し付けられた。これを期に暫時国内に櫨樹の栽培が普及したという伝説である。

 どの説をとっても確かなようでありますが、文献にはこれが確かという記録はないようです。確かなことは、江戸時代中期の西暦1700前後に鹿児島において、櫨の実から木蝋が製蝋されていたことは間違いないようです。

☆ 櫨の木が栽培されている地域は...。

  「図上をクリックすると大きくなります」

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