「木蝋の里みやま」を考える(6)

2011-06-19 16:12:04 | 和ろうそく作り体験教室

 江戸時代に入り、和蝋燭が少しづつ出回ることになりますが、庶民には高嶺の花でした。文献によると、江戸初期の和蝋燭の価格は、10匁(37.5グラム)の蝋燭が24文で、当時の大工さんの一日分の賃金と同じだったようです。

 当地柳川藩でも元禄16年(1703)には、「櫨運上の制」を定め、藩の財政を潤すため、木蝋の製造が促進されることになり、田畑や道筋などに櫨の木が植えられます。

亨保2年(1717)、瀬高町の談議所で武田蝋屋が創業を始め、藩の奨励もあり、蝋屋と呼ばれる板場(製蝋所)をもつ木蝋製造業者ができてゆきます。

 農家も櫨の実を高価で引き取られ、また正月前の現金収入になるため、櫨の木を増やしてゆきます。

 秋の紅葉の時期には、田畑や道筋、川や土手などの櫨の木は赤く染まり、木蝋は柳川藩の主要産物に成長し、幕末、明治へ、木蝋の需要は、維新前の薩摩藩からの特需も相俟って、生産も拡大し、蝋屋も増え続けます。

 柳川藩は、「筑後蝋」として、瀬高町下庄談議所から矢部川を通じ舟により、大阪や長崎に領外輸出を始めます。

大阪市場では、福岡県産の木蝋が8割を占め、日本一の生産高を誇り、木蝋は、石炭とともに、藩財政を支えていきます。

因みに荒木製蝋所が1850年に創業を始めます。

そして、明治維新を迎えます。(1868)

江戸後期から明治にかけて、蝋燭といえば、櫨蝋が中心となり、その座を不動のもとします。

 明治5年、東京浅草の商人で元合津藩士内藤愼之という者が、ドイツより、西洋蝋燭の製法を学び、製造しはじめます。

☆ 「木蝋の里みやま」キャンドルナイトが18日夜、保健医療経営大学にて行われました。

 「和ろうそく」のゆらゆらとゆらぐ温かい灯りのなか、元青年海外協力隊の古賀智美さんが中央アジアのキルギスの楽器で演奏、そしてブリヂストン2kバントの演奏を楽しみながら、スローな夜を過ごしました。

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☆ キャンドルナイトの様子は、千寿の楽しい歴史 http://kusennjyu.exblg.jp/

で詳しくみれます。

 


「木蝋の里みやま」を考える(5)

2011-06-19 16:10:38 | 和ろうそく作り体験教室

 奈良時代(710~794)から、安土桃山時代(1573~1603)まで、実に900年という気が遠くなりそうな永い歴史を経て、江戸時代に入り、待ちに待った和ろうそくに出合うことになります。

 江戸時代(1603~1868)に入ると一部の暖地で櫨の木の栽培が始まり、殖産に熱心な地方の庄屋や篤農家が有益なことを知り、相次いで栽培する者が増えてきた。そして藩主の奨励も相俟って、和蝋燭は、急速に普及発展していくことになります。

 そして蝋燭の需要が増大し、櫨の実から抽出された櫨蝋(はぜろう)は、米や和紙などとともに「和ろうそく」は代表的な地位を占めていくことになります。

☆ 手持ちの「和ろうそく」を撮してみました。

   「 左・中が白蝋、右が生蝋」

  写真をクリックすると大きくなります。

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「木蝋の里みやま」を考える(4)

2011-06-19 16:09:13 | 和ろうそく作り体験教室

 遣唐使中止から中国より入ってこなくなった蝋燭にかわり、日本の蝋燭作りの素材は、櫨の実から抽出した木蝋ではなく、松脂、魚油、漆実などのようです

それではいったいいつ頃から、櫨の実から、木蝋を製造したのでしょうか?

 文献では、大蔵永常翁著の農家益によれば、江戸時代初期、永宝年代(1673~1679)、琉球より、清国舶来の櫨の種子を桜島に移植したという説です。

 もう一つの説は、江戸時代中期、正徳年代(1711~1715)、佐藤信淵著の草木六部耕種法によれば、異国船が薩摩の桜島に漂流し、櫨の種子とともに製蝋法を伝えという説です。

 三つ目の説は、薩摩藩製蝋業の起原を辿れば、元禄年代(1688~1703)大隅国桜島白浜の四郎兵衛と云う人が、山ヶ野金山に鉱夫として働いていた時、奥州会津生まれの一鉱夫から、桜島の村山に野生する櫨の実が会津地方の漆実に似ていること。そしてこの地の櫨実にも必ず蝋があり、それも高価であると教えてくれた。

 鉱夫は仕事を辞めて桜島に帰り、村山の櫨実を採取し、会津の鉱夫から教えられて通りの方法で抽出したら、木蝋を採取した。この採取の事実が藩庁に達し、御用人高崎伊豆を以て、四郎兵衛に対し、木ろうの製造と櫨樹の栽培等、一切を申し付けられた。これを期に暫時国内に櫨樹の栽培が普及したという伝説である。

 どの説をとっても確かなようでありますが、文献にはこれが確かという記録はないようです。確かなことは、江戸時代中期の西暦1700前後に鹿児島において、櫨の実から木蝋が製蝋されていたことは間違いないようです。

☆ 櫨の木が栽培されている地域は...。

  「図上をクリックすると大きくなります」

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「木蝋の里みやま」を考える(3)

2011-06-19 16:07:59 | 和ろうそく作り体験教室

それでは、櫨蝋の歴史等について、引き続き文献から拾ってみましょう。

 日本で蝋燭(ろうそく)が灯されたのは奈良時代(710~784)であり、仏教とともに中国から伝来し、宮廷や寺院で使用されていたこと。そしてこの中国伝来の蝋燭も遣唐使が中止(894)されたことによって、蝋燭の輸入が無くなり、歴史が途絶えたこと。

 中国から蝋燭の輸入が再開さされたのは室町時代(1336~1573)になってからです。この頃の蝋燭が木ろうだったか、蜜蝋だったかははっきりしていない。

 漆実を主原料とする蝋燭が、宝徳年代(1449~1452)に会津藩の製蝋所で作られいたと記録されている。安土桃山時代、慶長4年(1598)上杉景勝の冶世においても製蝋所で蝋を製造し、蝋燭等を作り使用していた。

 室町時代後期、永禄、天文の頃(1532~1570)には、陸奥、越後の土産として、木蝋の蝋燭があったことが、文献に記録されているが、おそらく漆蝋であろう。この頃、木蝋の製造方法が伝来し、国産の和ろうそくの原型ができたのであろう。

 松浦宗案と主君土居清良侯との「農事問答集」に櫨の記述がある。宗案は、室町時代後期の永世年代(1504~1521)に伊予国北宇和郡三間村に生まれ18才の頃より、諸国を訪ね、武術と農法を極めた人である。同書には、1008種の作物の栽培法、選種法等が説かれ、この農業書は世界最古の文献と称されている。もちろん椿や櫨の実からの油のとりのことが記述されている。永禄7年(1564)

 安土桃山時代、文禄3年(1594)、堺の納屋助右衛門が呂宋(ろそん)より帰って、蝋燭千挺を豊臣秀吉に献上したことが、日本物産の由来(秋鹿見二著)なる書に記述されていることから、この頃には一部の上流階級に蝋燭は普及していと考えられる。

☆ 木ろうは、天然素材として、用途は広い

   画面をクリックすると、大きくなります。

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「木蝋の里みやま」を考える(2)

2011-06-19 16:06:40 | 和ろうそく作り体験教室

櫨蝋(はぜろう)の歴史、起原等について、文献から、少しずつ拾ってみたいと思います。

 太古においては燈火用として、種々の植物から、油や蝋(ろう)を採採していたようです。また、栄養剤や外用剤としても油脂は生活に欠かせない必需品であったようです。

 我が国では神武天皇時代には、既に油があり、古い記録によれば、応神天皇時代(539~571)、仏教伝来と同時に朝鮮から種子を移入してからである。それから、応仁、貞観時代(810~877)に至っては、菜種油が全国に普及し使用されていたようである。

 櫨蝋(はぜろう)に関する記述は、養老年間(717~723)、奈良時代に散見されるが、この時代は、朝鮮との交通が頻繁であったことから、蝋燭(ろうそく)は大陸からの輸入物であったと考えられる。我が国でもこの頃より、漆実、櫨実、南京櫨実から油脂を採っていなかったとも断定できていないようである。

 飛鳥時代(592~710)の天宝2年(702)、文武天皇が制定された大宝律令の中に漆樹(うるしき)の栽培奨励に関する記述がある。

 法隆寺の資財帳には、平安時代前期、延喜年代~永観年代(901~983)の博学人、源順の和名類妙のも蝋燭という名目があって、仏閣などでは既に蝋燭を使用していたことは明らかであるが、この時代のものは外国からの舶来であったと考えられる。

 平安時代(794~1192)に入ると中国との国交が途絶え、蝋燭も輸入されなくなる。菅原道真の建議(894)により、遣唐使が中止され、唐は滅亡(907)し再開されずに歴史を閉じる。

 これを期に、松脂(まつやに)を固めた松脂ろうそくが作られるようになる。漁村では、魚油を松脂でかためた「薩摩ろうそく」もあった。松脂ろうそくは、地方によっては明治時代まで使用されていたようである。

 お相撲さんはいつも髷(マゲ)姿ですが、この力士髷には大銀杏髷とチョン髷があります。大銀杏髷は十両以上の関取しか結えません。この髷を結うとき用いるのが、櫨の実から採れる「木ろう」を主成分とする「びんつけ油」です。