帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (八十七)(八十八)

2015-03-09 00:26:07 | 古典

        

 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の『新撰髄脳』にある「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。

和歌は、鴨長明、藤原定家らを最後に「心におかしきところ」が埋もれ始め、歌の家の秘伝となった。歌は秘伝と成ってしかるべき事柄が詠まれてあることは間違いない。口伝による秘伝など埋もれれば解明不能であるから、平安時代の歌論と言語観に回帰したのである。そうして紐解いてきた結果、明らかになったのは、埋もれていた和歌の色好みな部分である。これこそが秘伝そのものだろう。公任は「心におかしきところ」と言い、俊成は「煩悩」と言ったのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首


      秋のはじめによみ侍りける                安法法師

八十七 夏衣まだひとへなるうたたねに こころしてふけあきのはつ風
      
秋の初めに詠んだ                    (安法法師・河原左大臣の曾孫・清原元輔らと同時代の人)

(夏衣、まだ単衣である、うたた寝のときに、気をつかって吹け、秋の初風よ……熱き身と心、まだ一重である、女は・憂多多寝なので、男ども・気をつけて吹けよ、飽きの初風)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「夏…暑い…熱い…撫つ…懐つ」「衣…心身を包むもの…心身の換喩…身と心」「ひとへ…単衣…一重…一重ね…望ましいのは七重八重」「うたたね…仮寝…うとうとする…憂多々寝…不満多々寝…浮多々寝…浮かれ心多々寝」「に…時に…のに…ので」「こころして…気をつけて…注意して」「あき…秋…季節の秋…飽き…満足…厭き…あきあきする」「風…心に吹く風…飽風など」

 

歌の清げな姿は、夏のなごりと秋の初風。

心におかしきところは、おとこどもはかない性(さが)を自覚し、お相手に気をつかえという。

 

 

延喜御時御屏風に                    貫之

八十八 をぎの葉のそよぐおとこそあきかぜの人にしらるるはじめなりけれ

延喜御時の御屏風に                   紀貫之

 (荻の葉のそよぐ音こそ、秋風が、人々に知れ渡る始めだったのだなあ……男木の端のゆらゆら揺れるおとこぞ、心に吹いた飽き風が女に感知される始まりだなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「をぎ…荻…すすきに似た草の名…名は戯れる。男木、おとこ」「葉…端…身の端…おとこ」「おとこそ…をとこそ…音こそ…おとこぞ」「こそ…ぞ…強調する意を表す」「あきかぜ…秋風…飽風…厭き風」「人…人々…女」「しらるる…知られてしまう…感知されてしまう」「る…受身の意を表す…自然とそうなる意を表す」

 

歌の清げな姿は、秋風に荻のそよぐ風情。

心におかしきところは、お木のそよぐ感触に飽きは感知される。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


  以下は、平安時代の歌論の真髄である。再掲する。


 紀貫之の古今和歌集『仮名序』の「やまと歌について」

○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと(事・言)、わざ(業・ごう)繁きものなれば、心に思ふこと(事)を、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。

○歌の様(表現様式)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへ(古)を仰ぎて、今を(今の歌を)恋いざらめかも(きっと恋しがるであろう)。


 藤原公任の『新撰髄脳』の「優れた歌について」

○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。


 清少納言は『枕草子』で、歌について、つつむ必要があるという。

○その人(後撰集撰者の父元輔)の後(後継者)と言われぬ身なりせば、今宵(こ好い)の歌を先ずぞ詠ままし。つつむこと(慎ましくすること・清げに包むこと)さぶらはずは、千(先・千首)の歌なりと、これより出でもうで来まし。


 藤原俊成の『古来風躰抄』の「よき歌について」

○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶(艶めかしいさま・色っぽいさま)にも、あはれ(しみじみとした情趣を感じること・同情同感すること)にも、聞こゆることのあるなるべし。

 

歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。


 清少納言の『枕草子』第三章の「言語観について」

○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。

(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。


 藤原俊成『古来風躰抄』の「歌言葉について」

○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ(云々)。

(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)。