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帯とけの拾遺抄
藤原公任の『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。
近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。
公任の歌論で『拾遺抄』の最後の一首まで紐解けるだろうか。和歌の解釈では、近世以来の学問的解釈方法に代わってより有用である証しにしたい。
拾遺抄 巻第三 秋 四十九首
さが野に前栽ほりにまかりて 藤原長能
百七 ひぐらしに見れどもあかずをみなへし のべにやこよひ旅ねしなまし
嵯峨野に前栽の草木掘りに出かけて (藤原長能・道綱の母の弟)
(一日中、見て居ても飽きない女郎花、野辺でか、今宵、旅寝してしまいそうだ……一日中みていても、飽きない若いをみなへし、延ばすか、こよい、度々寝てしまうだろう)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「ひぐらし…日暮らし…一日中」「見れども…見ていても…眺めていても…合っても」「見…覯…媾…まぐあい」「あかず…飽かず…満ち足りることが無い」「をみなへし…女郎花…草花の名…をみな圧し…若い女おしつけ」「のべ…野辺…延べ…延長」「や…疑いの意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」「こよひ…今宵…こ好い」「たびね…旅寝…度寝…二度三度重ねて寝る」「なまし…してしまうだろうに…してしまうかもしれない」
歌の清げな姿は、嵯峨野の女郎花の美しさに魅せられたさま。
心におかしきところは、をみなへし見れども飽かぬさま。
八月ばかりにかりの声を待つ心の歌よみ侍りけるに 恵京法師
百八 をぎの葉もややうちそよぐほどなるを などかりがねのおとなかるらむ
八月ごろに、雁の声を待つ心の歌を詠んだときに 恵慶法師
(荻の葉も、やゝそよぐ程となるのに、どうして雁の声の噂もないのだろうか……お木の端も、すこし揺らめくころなのに、どうして、かりの泣き声が無いのだろうか)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「をぎ…荻…すすきに似ている草の名…お木と戯れてか言の心は男…すすきも、薄・薄情と戯れるのか、すす木と戯れるのか言の心は男。これらは理屈抜きで、戯れなので、そのように心得るしかない」「葉…端…男の身の端…おとこ」「うちそよぐ…そよそよと音を立てる…秋風が吹く…飽き風が吹く」「うち…接頭語」「ほどなる…程である…ほと成る…男女成る」「かりがね…雁が音…雁の鳴き声…かりの女の声」「かり…雁…秋に渡ってくる水鳥…鳥の言の心は女…狩り…猟…あさり・めとり…まぐあい」「おと…訪れ…音…うわさ」「らむ…(どうして)なのだろう…原因理由を疑問をもって推量する意を表す」
歌の清げな姿は、渡り鳥の無事の飛来を待つ心。
心におかしきところは、世の人の和合を心配するところ。
両歌とも、心におかしきところは、俊成のいう浮言綺語にも似た歌言葉の戯れに顕れる、煩悩である。優れた歌は「艶にもあはれにも聞こえることのあるべし」という俊成の歌論にも適っているようである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。