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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って拾遺抄の歌を紐解いている。
江戸時代以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。
このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。近世以来の学問的解釈方法の方を棄てたのである。
拾遺抄 巻第三 秋 四十九首
題不知 躬恒
百二十三 なが月のここぬかごとにつむきくの はなもかひなくおいにけるかな
題しらず (躬恒・古今集にも後撰集にも載らない歌、初老の頃に詠んだ歌として聞く)
(菊の節句・九月九日毎に摘む、長寿の花びら・菊の花も効果なく、老いてしまったなあ……長つきのおとこの、此処寝が毎に積み重ねた、効くときくの花も、効なく、はててしまったなあ)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「なが月…九月…長月…長寿の月人壮士…長つきのおとこ」「ここぬかごと…菊の節句九月九日毎…此処寝が毎…此処寝のうらみごと」「ぬ…寝る…臥す…伏す」「がごと…の毎…かごと…恨み言」「つむ…(花びらを)摘む…積む…積み重ねる…毎年繰り返す(長寿を願って飲む花びら浮かべた菊酒や、菊の露の綿で身を拭うと若がえるというおまじない等)」「きく…菊…長寿の花…聞く…効く」「はな…花…端…身の端…おとこ」「おい…老い…年齢の極まり…感の極まり…ものの極まり…果て」「けるかな…気付き・詠嘆」
歌の清げな姿は、菊酒などが老いに効かなかった恨み言。
心におかしきところは、きく酒などが長つきのおとこに効かなかった恨み言。
東山にもみぢ見にまかりて又の日のつとめてまかりかへるとてよみ侍りける恵京法師
百二十四 昨日よりけふはまされるもみぢばの あすの色をばみでやかへらむ
東山に紅葉見に出かけて次の日の早朝帰るということで詠んだ 恵慶法師
(昨日より今日は優っている、もみじ葉の、明日の色彩を見ないで帰れるだろうか帰れない……昨日よりも、今日の・京は増さっている、飽き色づいた身の端の、明日の色情見ずに、かえれるだろうか、かえれないだろう)
歌言葉の言の心と言の戯れ
「けふ…今日…京…極み…感の極み…絶頂」「もみぢば…もみじ葉…飽き色した端」「は…葉…端…身の端」「色…色彩…色事…色情」「みで…見ずに」「見…観賞…覯…媾…まぐあい」「(みで)やかへらむ…(あすの色を見ず家に)帰れるだろうか帰れない…(明日の京を見ずに)帰れるだろうか帰れない」「や…疑いを表す…反語の意を表す」。拾遺集では、第五句「みでやゝみなむ」となっている。この方がわかりやすい。「見ないで止めるだろうか…媾せず止められるか止められないだろう」。
歌の清げな姿は、紅葉の色彩の美しさ絶賛。
心におかしきところは、色欲の果てしない様。
歌は、初老の男の色情の衰えについてのうらみ言、片や、果てしない色欲の貪欲についての法師の説教。
このような歌を、ただ、菊酒が老いに効かなかった恨み言や、紅葉の色彩讃美程度の歌にして、あえて裏の意味を無視するのは詠み人に対する侮辱である。解釈の貧困に因り、表向きの意味しか聞こえないのならば、知らぬ間に古代人を侮蔑していることになる。
しかし、伝統ある国文学を何だと思っているのか、勝手な解釈は許せない、このエロ好みな解釈こそ、我が国の古典文芸を冒涜するものだという人もいるだろう。そのような文脈に立っている人の、その立場を棄てさせるのは至難のわざだろう。今や和歌は表向きの意味だけで、永年にわたって凝り固まっているのである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。