帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (百一)(百二)

2015-03-17 00:20:56 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。

公任の歌論で『拾遺抄』の最後の一首まで紐解けるだろうか。和歌の解釈では、近世以来の学問的解釈方法に代わってより有用である証しにしたい。

 

 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首


     (題不知)                         (読人不知)

百一 秋風のうちふくごとにたかさごの をのへのしかのなかぬひぞなき
      
題しらず                          (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(秋風の吹く毎に、高砂の峰の上の鹿の鳴かない日はない……あき風が、心に・吹く毎に、高砂の・砂山の、峰の上の牝肢下の泣かぬ日ぞ無き)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「秋風…飽き風…飽き満ち足りた心風…厭き風…嫌いになった心風」「風…心に吹く風」「うち…接頭語」「たかさご…高砂…地名…名は戯れる。三角洲の砂山、もろき山ば」「をのへ…尾のへ…峰の上…すその辺」「しか…鹿…牝鹿(牡鹿は、さをしかと詠まれる)…肢下…おんな」「なかぬ…鳴かない…泣かない」「ひぞなき…日ぞ無き…喜びに毎日泣いている…不満に毎日泣いている」

 

字義通り聞けば、秋風と鹿の鳴き声、清げな秋の風景。言の心と言の戯れを心得れば、普通の言葉では言い難い、女の思いが「心におかしきところ」として伝わる。

 

                                    
                                   
大中臣能宣

百二 もみぢせぬときはの山にすむしかは おのれなきてや秋をしるらん

(題しらず)                        (大中臣能宣・後撰和歌集の撰者)

(紅葉しない常磐の山に棲む鹿は、おのれが鳴いて、ものさびしい・秋を知るのだろうか……飽き色しない常磐の山ばに済む牝肢下は、おのれが啼いて、己の飽きを・さを肢下の厭きを、感知するのだろうか)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「もみぢ…紅葉…飽き色…厭き色」「ときは…常磐…岩・石…言の心は女…常緑…常に変わらない…女の」「山…山ば」「すむ…住む…棲む…澄む」「しか…鹿…牝鹿…肢下…おんな」「鳴き…啼き…泣き」「秋…飽き…厭き」。

 

紅葉しない山の鹿を詠んで清げな姿をしている。普通の言葉では云い難い睦ごとの女の果て方が「心におかしきところ」である。

この歌は、藤原俊成の『古来風躰抄』にもあり、その歌論にも適っているのだろう。言の心と言の戯れさえ心得れば、俊成のいう「艶にも、あはれにも聞こえる」歌であろう。「艶…色艶・艶っぽさ」とか「あはれ…あわれ・せつなさ」などが感じられる。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。