帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第三 秋 (八十九)(九十)

2015-03-10 00:15:57 | 古典

        


 

                     帯とけの拾遺抄


 

藤原公任の『新撰髄脳』にある「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って和歌を紐解いている。

近世以来の和歌の解釈は、紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、独自の解釈方法を構築した。歌を字義通りに聞き、言の戯れは、序詞、掛詞、縁語などと名付けて、和歌はそのような修辞で巧みに表現されてあるという。字義通り聞くと意味の通じない序詞などを歌の調べとしての意義があるなどという。このような解き方が定着すれば、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解するしかない。これは本末転倒である。逆さまにして、近世以来の学問的解釈方法を棄ててみたのである。

和歌は、鴨長明、藤原定家らを最後に「心におかしきところ」が埋もれ始め、歌の家の秘伝となった。歌は秘伝と成ってしかるべき事柄が詠まれてあるからである。口伝による秘伝など埋もれれば解明不能であるから、平安時代の歌論と言語観に回帰したのである。そうして紐解いてきた結果、明らかになったのは、埋もれていた和歌の色好みな部分である。これこそが秘伝そのものだろう。公任は「心におかしきところ」と言い、俊成は「煩悩」と言ったのである。


 

拾遺抄 巻第三 秋 四十九首

 

河原院にてあれたるやどに秋はきにける心を人人の詠み侍りけるなかに  恵京法師

八十九 やへむぐらしげれるやどのさびしきに  人こそ見えね秋はきにけり

河原院にて、荒れた家に秋は来た心を、人々が詠んだ中に       (恵慶法師・清少納言の父元輔とほぼ同時代の人)

(八重葎繁る宿が寂しいのに、人かげさえ見えない、秋は来たことよ……度重ねからみつく女のしげる、や門がさみしいのに、男さえ見ない、厭きは来たのだなあ)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「やへむぐら…八重葎…荒廃を象徴するつる草…度重ねる絡む女」「草…言の心は女」「しげる…繁る…茂る…頻繁・度重なる…数多い」「やど…宿…家…言の心は女…屋門…おんな」「さびし…荒廃したさまや人けのないさまに対する不快な思い…独りで寂しい」「に…のに」「人…人け…男」「見えね…見えない…覯しない」「見…覯…媾…まぐあい」「秋…四季の秋…飽き…厭き」「けり…気付き・詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、荒廃した河原院の秋のありさま。

心におかしきところは、八重にしげる門、さみしいのに、みるべき者に厭きがきていた。

 

百人一首に撰ばれた歌である。近世から現代までの学問的解釈はすべて、「歌の清げな姿」から一歩も出ていない。藤原定家は、ほんとうにそんな「艶」の無い一義な意味の歌を撰んだか。我々の学んできた学問的解釈が間違えていて、この歌の「艶」なるところが聞こえないのでは、ないのか。

 

 

延喜御時屏風歌                         躬恒

九十 ひこぼしのつままつよひのあき風に 我さへあやな人ぞこひしき

延喜の御時の屏風歌                       凡河内躬恒

(彦星の妻、夫・待つ宵の秋風に、我さえ、わけもなく人恋しい……ひこ欲しの妻の待つ、好いの飽き足りた心風に、我、さ枝も、何の道理も無なく、女恋しい)

 

歌言葉の言の心と言の戯れ

「ひこぼし…彦星…男ほし…おとこ欲し」「つま…妻・夫…織姫星」「よひ…宵…好い」「あき風…秋風…飽き満ち足りた心風」「に…ときに…ために」「我さへ…我までも…我さ枝…我がおとこ」「人…ひと…女」

 

歌の清げな姿は、七夕の夜の秋のものさみしく人恋しいさま。

心におかしきところは、織姫の待望する好いの満ち足りた心風を感じ、ひと恋しくなるさま。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


 

平安時代の歌論の抜粋を再掲する。和歌の解釈はこれらの歌論に適っていなければならない。

 

紀貫之の古今集仮名序の「やまと歌について」

○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと(事・言)、わざ(業・ごう)繁きものなれば、心に思ふこと(事)を、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。

○歌の様(表現様式)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへ(古)を仰ぎて、今を(今の歌を)恋いざらめかも(きっと恋しがるであろう)。

 

藤原公任『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」

○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。

清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。

○その人(後撰集撰者の父元輔)の後(後継者)と言われぬ身なりせば、今宵(こ好い)の歌を先ずぞ詠ままし。つつむこと(慎ましくすること・清げに包むこと)さぶらはずは、千(先・千首)の歌なりと、これより出でもうで来まし。

 

藤原俊成『古来風躰抄』の「よき歌について」

○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶(艶めかしいさま・色っぽいさま)にも、あはれ(しみじみとした情趣を感じること・同情同感すること)にも、聞こゆることのあるなるべし。

 

歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。

 

清少納言『枕草子』第三章の「言語観について」

○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。

(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。

 

藤原俊成『古来風躰抄』の「歌言葉について」

○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ(云々)。

(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)。