■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。
古今和歌集 巻第八 離別歌
あひ知りける人の、越国にまかりて年経て、京にもうできて、
又帰りける時によめる 凡河内躬恒
かへる山なにぞはありてあるかひは きてもとまらぬ名にこそありけれ
(相知った人が、越の国に赴任して、数年経って、京に参上して来て、又帰った時に詠んだ・歌……知り合った女が、山ば越したところに入って、疾しを経て、京の絶頂に参上して、また繰り返す時に詠んだ・歌)(おほしかふちのみつね)
(帰る山、名には有って有る効果は、帰って来ても、留らない名だったのだなあ……返る山、汝には有って、有る貝は、山ばの果てが・来ても、止まらない繰り返す、汝の名、だったなあ)。
「年へて…数年経って…疾し経て…早すぎるおとこのさが」「京…山の頂上…絶頂…感の極み」。
「かへる山…山の名…ものの名は戯れる。帰る山、返る山、繰り返す山ば」「なにぞはありて…何ぞは有りて…名にぞは有りて…汝にぞは有りて」「かひ…甲斐…効…価値…貝…おんな」「きても…来ても…(果てが)来ても」「も…強調の意を表す」「とまらぬ…泊まらぬ…止まらぬ」「けれ…けり…詠嘆を表す」。
かへる山という名に因んだ言葉あそび――歌の清げな姿。
返る山ば、貴女には有って有る貝は、山ばの果てが来ても、止まらないで繰り返す名の汝の身、だったなあ――心におかしきところ
おんなのさがの、おとことは比べるべくもない、長寿、繰り返すちから。
越国へまかりける人に、詠みて遣はしける
よそにのみ恋やわたらむ白山の 雪みるべむもあらぬわがみは
(越の国へ赴任した男に詠んで遣った・歌……越しのくにへ入った女に詠んで遣った・歌)(みつね)
(他所でだけ、恋い続けるのだろうか、白山の雪を観ることのできない、我が身は……白山の・て前あたりだけで、貴女を・恋しがり続けるのだろうか、やまばのおとこ白ゆきの、逝って見ることのできない、わが身の見は)。
「越くに…国の名…名は戯れる。山ば越えたところ、京を超えたところ」。
「よそ…他所…望む所ではない…そのて前」「白山…山の名…ものの名は戯れる。雪の山、おとこ白ゆきふる山ば」「雪…ゆき…行き…逝き」「みる…見る…観る」「見…み…身…媾…まぐあい」「は…主語を示す…強調を示す…詠嘆の意を表す」。
白山を拝める君がうらやましいよ、行って雪観ることもできないわが身には――歌の清げな姿。
遠くより恋しい思い続くよ、おとこの色に染まった山ばの、白ゆき、逝き、見ることできないわが身は――心におかしきところ。
おとこの儚い性(さが)、悲哀の詠嘆。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)