帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (390)かつ越えてわかれも行かあふさかは

2018-01-12 19:17:04 | 古典

            

                        帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

藤原惟岳が武蔵介にまかりける時に、送りに逢坂を越ゆ 

とてよみける                 貫之

かつ越えてわかれも行かあふさかは 人だのめなる名にこそありけれ

(藤原惟岳が武蔵介になって赴任した時に、見送りで逢坂を越えると言って、詠んだ・歌)(つらゆき)

(一方で越えて別れてゆくか、逢坂は、人と逢うところではないのか・頼みがいのない名だったなあ……一方では、山ば越えて別れ逝くことよ、おんなの且つ乞う・合坂山ばのおとこは、頼みがいのないヤツだったなあ)。

 

「かつ…且つ…一方では(何々し)片方では(何々)する…そのうえまた」「あふさか…逢坂…所の名…名は戯れる。人と出会うところ…女と合うところ」「ひとだのめ…人に頼もしく思わせる事…頼みにさせるだけで実のないこと」「な…名…汝…親しいものを名と呼ぶ」「けれ…けり…詠嘆の意を表す」。

 

逢坂を一方では越えて別れゆくのか、逢坂の名は頼みにさせるだけで実のないことよ――歌の清げな姿。

一方では、山ば越えて別れ逝くのか、おんなの且つ乞う合坂山ばの、おとこは頼みがいのないヤツだったなあ)。――心におかしきところ。


 

 

女性の側から、この情況を詠めば、次のような歌になるだろう。百人一首、和泉式部

 

あらざらんこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな

 

(病の我が命・亡くなるでしょう、この世のことのほかの思い出に、今、一度、君に逢うことが叶えばなあ……貴身の命は果てるでしょう、この夜のことのほかの思い出に、井間、一度の、山ばで合うことが叶えばなあ)。

 

「あらざらん…いないであろう…亡くなるでしょう」「いま…今…井間…おんな」「あふ…逢う…合う…身を合わせる…山ばが合致する」「もがな…であったらなあ…(情態などを)願望する意を表す」。

 

これくらいのエロスのある歌を詠んでこそ、和泉式部である。すべての国文学的解釈は、残念ながら、うわのそら読みである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)