帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (387)命だに心にかなふものならば

2018-01-09 19:42:27 | 古典

            

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

源実が、筑紫へ湯浴みむとてまかりける時に、山崎

にて別れ惜しみける所にて、よめる     白女

命だに心にかなふものならば 何かわかれのかなしからまし

(源実が、筑紫へ湯治しょうと出かけた時に、山崎にて、別れを惜しんだところで詠んだと思われる・歌)(白女・遊女の名)

(君の命さえ、人の思い通りになるならば、どうして別れが、これほど悲しいでしょう……貴身の命さえ、女の思い通りになるならば、山ば前の別れが、どうして悲しいでしょう)。

 

「山崎…船着場…所の名は戯れる。山前、山ばの前」。

「命…君の命…貴身の命」「だに…さえ…だけでも」「かなふ…叶う…思い通りになる」「まし…実現不可能なことを仮想し思いを述べる…(どうして別れが悲しい)でしよう(悲しく)ないでしょうに」。

 

命さえ、人の思い通りになるならば、湯治に行く君との別れ、どうして悲しいことがありましょう――歌の清げな姿。

貴身の命さえ、わたしの思い通りに、伏したものも立つならば、山ばの前の別れなど、どうして悲しいことがありましょう――心におかしきところ。

 歌言葉の戯れの意味に顕れるエロスこそ、藤原俊成のいう「ことの深き旨」で、これが歌の真髄である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)