帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (384)をとは山こだかく鳴きて郭公

2018-01-06 19:50:17 | 古典

            

                        帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

音羽山のほとりにて、人を別るとてよめる  貫之

をとは山こだかく鳴きて郭公 きみがわかれをおしむべらなり

(音羽山の辺りにて、人と別れるとて、詠んだと思われる・歌……羽ばたく女の山ばにて、女と離れるとて、詠んだらしい・歌)(つらゆき)

(音羽山、こだかく鳴いて、ほとゝぎす、君の別れを惜しむように聞こえているよ……羽ばたく女の山ば、小高く泣て、ほと伽す・且つ乞う、貴身の離れるのを愛おしみ惜しんでいるようだよ)。

 

 

相手に快く聞こえる餞別の挨拶――歌の清げな姿。

言葉の綾模様に包んだエロス(性愛・生の本能)は、聞き耳もつ者を快くさせ、相手も座も和む――心におかしきところ。

 

 

以下は、この歌に用いられた歌言葉の「言の心」と浮言綺語に似た戯れの意味である。


 「をとは山…音羽山…山の名…名は戯れる。鳥の羽音のする山、女が手をばたつかせる山ば」「こだかく…木高く…小高く」「なき…(鳥などが)鳴き…(人が)泣き」「鳥…言の心は女」「やま…山…もの事の山ば」「郭公…鳥の名…鳥の言の心は女…ほとゝぎす…ほと伽す…カッコウ…且つ乞う」「ほと…お門…おとことおんな」「きみ…君…貴身…おとこ」「おしむ…をしむ…惜しむ…愛でいつくしむ…離し難く思う」「べらなり…(何々の)様子だ…(鳴いて・泣いて)いるようだ」。、

 

国学及び国文学者は、これらの言葉の表面上の一義だけを採用して、他の意味候補をすべて削除して、和歌を解いてきた。古今集の歌を、「くだらない、怠惰な歌に」貶めたのは国文学的解釈である。それに「こだかき」は「(位置が」木高い」と「(声が)小高い」との両義があると学問上の発見をすれば、平安時代に「掛詞」などという概念はなかったのに、「掛詞」と名付け、後は、「掛詞」と指摘すれば、歌の解釈が成ったかのようで、「清げな姿」だけがこの歌の意味の全てであるかのように思わせてきた。

 

国文学者は、平安時代の人々の、歌と言語に関する言説を無視していることに気付かない、なぜだろうか。

 

紀貫之のいう言の心は、仮名序の結びに「歌の様を知り、ことの心を得たらん人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも」とある。「言の心」とは字義以外に、その時代に言葉の孕んでいた諸々の意味である。用いられ方から心得るしかない。「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、古の歌を仰ぎ見て、今の我々の歌が恋しいほど、心におかしいであろう」と言っているのである。

国文学は「ことの心」を「事の心」と誤読して意味不明にして、貫之の歌論と言語観を抹消したのである。

 

清少納言の言語観は、われわれの言葉は「聞き耳によって(意味の)異なるものである」と枕草子にある。言葉の意味は、受け手にゆだねられる、この超近代的ともいえる言語観に従えば、一つの言葉に多様な意味があって、歌に多重の意味があることなど当然のこととなる。歌の心におかしきところは、聞き耳を持つ人だけに聞こえるのである。枕草子で、笑ふ・わらひ給ふなどと、百回ほど笑っているのに、今の読者は一笑もできないのも、言の戯れを彼女たちと同じように聞く耳を持っていないからである。

国文学は、清少納言の言語観を、われわれの言葉は「聞き耳によって(性別、職域などによって、声の抑揚や音調などが)異なるものである」と、ありふれた言説に読み違えて、冗談を自分たちだけに通じる言葉で言い、それを得意げに枕草子に書き散らした、楽天的で下手な文章家と、清少納言を貶め、正当な言語観を消してしまったのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)