帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌(394)山かぜにさくら吹きまき(395)ことならば君とまるべく

2018-01-17 20:15:57 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

雲林院親王の舎利会に山にのぼりて、帰りけるに、

桜の花の下にてよめる        僧正遍昭

山かぜにさくら吹きまきみだれ南 花のまぎれに立とまるべく

雲林院親王(仁明帝第七皇子・遍昭の一年のちに出家)舎利会に山に上って、帰ったときに、桜の花の下にて詠んだと思われる・歌)(遍昭・仁明帝にお仕えしていたが崩御とともに出家)

(山風で、桜吹き巻き上げ、乱れてほしい、親王の君は、花の紛れに立ち止まり、山寺でお泊りになられるだろう……山ばの心風に、おとこ花、吹き巻き乱れるといい、おとこ端のまぎれに、立ち止まり、もの伏すでしょう)

 

 

「山風…山おろしの風…山ばの心風」「心風…飽きかぜ…厭きかぜ」「さくら…桜…木の花…おとこ花」「みだれ南…乱れなむ…乱れてほしい…みだれるといい」「なむ…して欲しい…希望する意を表す…当然の意を表す」「立ちとまる…立ち止まる…ものが伏す…煩悩絶ち止まる」「べく…べし…するだろう…するにちがいない」。

 

 

山風で桜吹き巻き上げ、乱れてほしいな、親王の君は、花の紛れに立ち止まり、山寺でお泊りになられるだろう――歌の清げな姿。

山ばの心風に、おとこはな、吹き巻き乱れるといい、おとこ端のまぎれに、立止まり、もの伏し、煩悩絶つことでしょう――心におかしきところ。

 

もの絶ち、伏すだろう、そうするtといい。出家の勧め。


 

 

幽仙法師

ことならば君止るべくにほはなむ かへすは花の憂きにやあらぬ

(幽仙法師・遍昭より二十年ほど若い人)

(できることならば、親王の君、泊まるだろうほどに、美しく咲き誇ってほしいな、お帰しするのは、桜花が、嫌がるのではありませんか……山ばに成ったならば、親王の君、止まるにちがいないほど、女ども色美しく盛ってほしいな、繰り返すのは、おとこさくら端が、気が進まないのではありませんか)。

 

 

「ことならなば…できることならば…事が成ったならば」「にほはなむ…色美しく咲いてほしい…色美しく盛ってほしい」「かへす…帰す…返す…繰り返す」「花…木の花…さくら花…おとこ端…おとこ」「木…言の心は男」「憂き…嫌だ…気が進まない」「にやあらぬ…ではないだろうか…であろうか」。

 

できることならば、親王の君、泊まるだろうほどに、美しく咲き誇ってほしいな、お帰しするのは、桜花が、嫌がるでしょうか――歌の清げな姿。

山ばに成ったならば、親王の君、絶ち止まるにちがいないほど、女ども色美しく盛ってほしいな、繰り返すのは、おとこさくら端が、気が進まないのではありませんか――心におかしきところ。

 

おとこ端の煩悩絶つとき、狙い時。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)