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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。
古今和歌集 巻第八 離別歌
人の花山にまうで来て、夕さりつ方、帰りなむ
としける時に、よみける 僧正遍昭
ゆふぐれの籬は山と見えなゝむ 夜は越えじと宿りとるべく
(人が、花山寺に詣で来て、夕暮れごろ、帰えろうとした時に詠んだと思われる・歌)(へんぜう)
(夕暮れの、まがき・柴垣は、人々に山と見えてほしい、夜は越えないでおこうと、この寺で宿るといい……夕暮れの、間餓鬼は、男どもに、女の山ばと見てほしいな、今夜ばかりは越えないぞと、やまの手前で宿るといい)。
「人の…人々が…男どもが」「花山…花山寺…桜花咲く山」「夕さりつ方…夕になるころ…夕暮れ」。
「籬…まがき…竹や柴で編んだ垣根…物の名は戯れる。間餓鬼、魔がき、おんなの亡者」「ま…間…魔…おんな」「見え…思え…見て」「なゝむ…してしまってほしい」「越えじ…越えないだろう…越えるつもりない」「べく…べし…するだろう…するのがいい…適当の意を表す」。
花を愛で、寺に詣でた、帰りに、大きな山があると思ってほしい、今夜は寺で宿るといい――歌の清げな姿。
夕暮れの間餓鬼は、女の山ばと思って見てほしい、今夜だけでも、むりして越えないで、山ばの手前で宿るといい――心におかしきところ。
寺での宿りの勧め……まがきは煩悩の象徴、悟りの勧め。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)