帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (392)ゆふぐれの籬は山と見えなゝむ

2018-01-15 19:45:00 | 古典

            

 

                      帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

人の花山にまうで来て、夕さりつ方、帰りなむ

としける時に、よみける      僧正遍昭

ゆふぐれの籬は山と見えなゝむ 夜は越えじと宿りとるべく

(人が、花山寺に詣で来て、夕暮れごろ、帰えろうとした時に詠んだと思われる・歌)(へんぜう)

(夕暮れの、まがき・柴垣は、人々に山と見えてほしい、夜は越えないでおこうと、この寺で宿るといい……夕暮れの、間餓鬼は、男どもに、女の山ばと見てほしいな、今夜ばかりは越えないぞと、やまの手前で宿るといい)。

 

「人の…人々が…男どもが」「花山…花山寺…桜花咲く山」「夕さりつ方…夕になるころ…夕暮れ」。

「籬…まがき…竹や柴で編んだ垣根…物の名は戯れる。間餓鬼、魔がき、おんなの亡者」「ま…間…魔…おんな」「見え…思え…見て」「なゝむ…してしまってほしい」「越えじ…越えないだろう…越えるつもりない」「べく…べし…するだろう…するのがいい…適当の意を表す」。

 

花を愛で、寺に詣でた、帰りに、大きな山があると思ってほしい、今夜は寺で宿るといい――歌の清げな姿。

夕暮れの間餓鬼は、女の山ばと思って見てほしい、今夜だけでも、むりして越えないで、山ばの手前で宿るといい――心におかしきところ。

 

寺での宿りの勧め……まがきは煩悩の象徴、悟りの勧め。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)